童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男子豹変のすすめ

■豹変には相手を納得させる説明が必要

<本文から>
 「豹変のススメ」
 を書いているが、こういう世の中からの見られ方は、当然豹変者ははっきり覚悟すべきだ。
 そして、
 「相手を納得させる説明」
 が必要だ。そのための、
 「豹変の論理の確立」
 が必要である。それがまた、
 「豹変者の生きる喜び」
 のはずだ。したがって豹変には、
 「自分を信じ抜く」
 という強い精神力が要る。豹変は、
 「強度の自己信仰」
 による生産物なのだ。
  龍馬が、
 「いまの我々にとって必要なのはピストルだ」
 といったのは、単純に、
 「刀からピストルヘ」
 という武器の近代化を言ったわけではない。そうではなく、
 「いろいろと学んでみると、日本の現況は外国に甚だしく遅れを取っている。特に、科学知識や技術においては、どうしようもない。一日も早く、外国の科学知識や技術を導き入れるべきだ。それには、撰夷などといっていてはだめなので、早く開国すべきだ」
 という、いわば明治維新後新政府が唱えた、
 「ヨーロッパに追いつけ、追い越せ」
 という、日本の近代化を急ごうという精神に発展していく。このことを、龍馬は、
 「いま大切なのはピストルだ」
 といったのだ。したがってこの時のピストルは、
 「先進的な外国の科学知識やその技術」
 のことをいっていたと見るべきだろう。

■勝海舟と西郷の豹変

<本文から>
 しかし、勝海舟に潔ける大豹変は、徳川幕府の高官だったものが、明治政府の高官になったということではなかろう。そんなことより、元治元年九月十一日夜における、西郷吉之助との大坂会談の方がよほど大豹変だ。しかし、このことをあまり問題にする人はいない。
 同時に、西郷吉之助もその夜大豹変を遂げていた。公武合体策という、主人島津斉彬以来の政治路線を、西郷は簡単に投げ捨ててしまった。が、西郷のこの夜の大豹変についても、批判をする人はいない。なぜか。
 つまり、かれらを豹変させた"不易"が存在したからである。この場合の不易は、
 「日本国民にとって、どっちが選択肢として適当か」
 という理念があったからだ。坂本龍馬も勝海舟も西郷吉之助も、それぞれ、
 「身分が低いために、差別に苦しんだ」
 という苦い経験を持っている。したがって、かれらは雲の上からこういう構想を練っていたわけではない。地べたを這いずり回りながら、
 「生活者からの発想」
 を、政治変革に高めたのである。
 「そのためには、今までの考えを全部かなぐり捨てて、それを過ちとし、これを改めるに憚ることなかれ」
 と自分の豹変を信じた。
 「われわれは正しい」
 と、むしろ豹変することを是認したのである。
 「明治維新は、豹変の産物であった」
 というモノサシを当てて見ると、他にも龍馬・海舟・隆盛のような規模ではなくても、日本各地に沢山の豹変の例を発見することができるだろう。

■豹変者の真田昌幸が関ヶ原で義を貫いた

<本文から>
 「たとえ、日本に中央政権政府ができたとしても、その枠の中で、上田と酒田二帯の地方自治を確立したい」
 ということだ。今までの数度にわたる豹変は、そのための手段である。したがって、真田昌幸にすれば、
 「大手大名の不当なM&Aに対する、地方中小企業の自治を守るための戦い」
 であった。が、武力衝突したのでは、たちまち潰されてしまう。したがって、政治的にノラリクラリとしながら、次から次へと主人をかえ、志を豹変させているように見せながら、生き抜いて来たのだ。
 が、今度は今までとは違う。日本が真二つに割れて、
 「どっちが勝ち残るか」
 ということだ。それならば、ひとつの選択として、
 「勝ち残る方がどちらかを見極め、そっちに味方して、真田の家と土地を保全する」
 ということだ。が、この時昌幸と信繁の選んだ道は、
「たとえ、負けることが分かっていても、義を貫くトいう側に味方する」
 ということは、
 「そろそろ、大手大名の身勝手なM&Aの論理を、根底から覆す」
 という目的があった。いってみれば、
 「大手大名の身勝手な論理は、論理そのものが間違っていることを天下に明らかにする」
 ということだ。そのために、たとえ敗れても悔いはないということだ.父と子が、この世に残す最後の真田家の心意気であった。
 そしてまだ小山にいた段階では、昌幸の胸の中には、
 (石田三成軍に、もしも豊臣秀頼公が出馬なされば、今徳川家康の供をして来ている豊臣系の大名のほとんどが裏切るだろう。つまり、かれらも豹変する。そうすれば、石田万が勝つ)
 という目算があったかもしれない。その通り行なわれていれば、確かに石田方が勝ったはずだ。しかし、関ケ原の合戦で豊臣秀頼はついに出馬しなかった。名目上の総大将に推されていた毛利輝元も参戦して来なかった。そのために石田方は惨敗した。

■細川幽斎の豹変の論理を支えた歌道

<本文から>
 細川幽斎を真っ先に呼び出したのが徳川家康だ。
「五百の兵で、よく一万五千の大軍を支えてくださった。この度の勝利は、全くあなたのお陰です」
 と熱い言葉で礼を言った。そして、
 「お礼を差し上げたい」
 と言った。幽斎は首を横に振った。
 「わたくしは結構です。もし、加増をしていただけるなら息子の忠興にお願いいたします」
 そこで家康は細川忠興に、豊前(福岡県小倉)で、それまでの丹後十二万石から一躍三十六万石の大封を与えた。
 一度だけ、幽斎は豊前に行った。が、すぐ京都に戻った。そして二度と豊前には赴かず、京都の屋敷で静かに悠々自適の生活を送った。慶長十五(一六一〇)年八月、幽斎は京都三条車屋町の館で死んだ。
 細川幽斎の生涯は、仕えた主人は第十二代将軍足利義晴、十三代義輝、そして十五代義昭と続き、やがて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とかわる。細川家は、やがて豊前小倉から肥後五十四万石に増封される。そのために、
 「幽斎は豹変を続けることによって、家を全うした」
 と、次々と主人をかえる態度を非難するむきもあった。しかし幽斉にすれば、自分なりの、
 「豹変の論理」
 があった。それは、
 「豹変するおれが悪いのではなく、豹変させる主人が悪いのだ」
 というものだ。そして豹変する度にかれが自分に対し後ろめたさを感じさせないようにバネとして機能する装置が、歌道であった。
 これをしっかり守り抜くことによって、かれは豹変に対し、微塵も恥じたり、あるいは後悔したり、さらに世に対して引け目を感ずるようなことはなかった。歌道をしっかり抱いて生き抜くことが、かれにとって最後まで、
 「自分は正しい道を歩いている」
と思わせたのである。

■河村瑞賢が米俵で鐘をつり上げたエピソード

<本文から>
 「あんな安い費用で、鐘が元に戻るわけはない」
 と思った。
 工事の当日、多くの見物人が集まった。株仲間も集まった。
「あの馬鹿が、どんな工事方法を採るかお手並み拝見だ」
 と意地の悪い表情で、互いに顔を見合っていた。
 実際問題として、瑞賢は追い詰められていた。というのは、この工事に動員すべき労働者たちを、既成の株仲間の大手がガッチリ押さえ込んで、一人といえども瑞賢のために仕事をすることを禁じられていたからである。
 江戸の土木建設業界は沈黙した。そして結束し、まさに、
「河村十右衛門のお手並み拝見」
 という態度を保っていた。
 既成の株仲間は、
「労働者を全部押さえてしまったのだから、瑞賢に工事が進められるはずがない」
 と楽観していたのである。
 やがて、門前にワッショイワッショイという掛け声がして、大勢の人間が駆け込んで来た。
 先頭に瑞賢がいる。
 「なんだ、あれは?」
 株仲間をはじめ、見物人たちが一斉にそっちを見た。というのは、駆け込んで来たのがすべて米屋だったからである。米屋はそれぞれ肩に米俵を一俵ずつ担いでいる。瑞賢も担いでいる。鐘楼の側に来ると、瑞賢は米屋たちに米俵を下ろさせた。そして工事の計画を話しはじめた。瑞賢の計画というのは、
 ●まず米俵をこっち側に一段積む。鐘を、吊り上げてその上に乗せる。
 ●次に、向こう側に米を二段積む。そして鐘をそっち側へ移す。
 ●こっち側の米俵を三段にする。そして鐘をこっち側に移す。今度はそっち側を四段にする。鐘をそっちに移す。
 ●こうして、鐘がかなり高くなったときに、元のカギを掛けて、戻す。
 こういう方法だった。こうなると、足場を組んで多くの労働者が網で鐘を引き上げたりする工事方法が必要なくなる。瑞賢が考えたのは、
 「今までのあのやり方では、足場が不安定だし、場合によって柱が倒れたりすれば、怪我人が出る」
 と警戒したからだ。こういう知恵は、かれが車を引きながら土木建儲の現場で学んだ知恵であった。それに、かれ自身は、
 (落ちた鐘自身の身になって考えよう)
 という気持ちもあった。鐘自身の気持ちになって考えるというのは、足場を組まれて引き上げられる鐘は、その間非常に不安定になる。鐘に心があれば、やはり不安で仕方がなかろう。
 それなら、米俵を一段一段高くして、安定した気持ちを鐘に持って貰って、次第に高いところへ移せば、鐘自身も安心するにちがいないと考えたのだ。
 しかし、そんなことを働き手たちに告げたわけではない。米屋たちは面白がって、自分たちが持って来た米俵をあっちへ積んだりこっちへ積んだりした。
 鐘は元へ戻った。見物人たちは一斉に手を叩いた。声を上げた。瑞賢はお辞儀した。そして
 瑞賢は米商人たちに言った。
 「この工事のために、わたしは米俵を買ったが、実をいえばこんなに米はいらない。買い戻してくれないか。六掛けでいい」
 そう告げた。米屋たちは顔を見合わせて吹き出した。そして、
 「河村さんはよくやるよ」
 といった。しかし、瑞賢が買った米俵はそれなりの値段だ。それを六掛けでいいというのだから、米屋にとってはこんなうまい話はない。先を争ってみんな米を買い戻した。瑞賢は、この方法によって二重に利益を得たのである。
 というのは、幕府の支出してくれた支出金の中には、米を買い上げる費用がちゃんと組まれていたからだ。そして、かれが提出した予算書では、米俵を買う金以外要求していなかった。
だからこそ、安い費用で落札できたのである。

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