童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          部長の難問、課長の苦問

■部下の能力を見極める

<本文から>
 程度の差はあるにせよ、どこの職場にもわがままで身勝手な、公私混同に陥りやすい人間がいる。部・課長はそれをただ表面的に見て判断したり、感情的になったり、まわりの意見に流されたりせず、冷静に判断する目を日頃から養っておく必要がある。
 奥州の戦国武将伊達政宗は、
「上に立つ者にとってなにより肝要なことは、部下の得手不得手をよく見分け、その人間にあった用事を申し付けることだ」
 と語っている。誰もが自分の得意な分野の仕事となれば、一所懸命になる。いきおい仕事もはかどり、上が思っていた以上の働きを遂げることもしばしばである。そうなれば他に恨みを抱く人間もなくなり、自分の能力を発揮できる場を作ってもらえたことで秘められたた力を発揮する。さらにすすんでそれを高めようと努力する。
 だから上に立つ者が犯してはならないことは、
「たいした仕事も与えないで部下の能力を見限り、先入観を持ってその部下を切り捨ててしまったりすることだ」
 とも言っている。
 「人間には生まれついたときから優れている、劣っているといった区別はなく、それぞれなにかしら秀でたものを持っている。貴重な人材をよく見分けもしないで使い捨てにして、組織を駄目にしてしまうのは、最も愚かな所業である」
 と政宗は語る。部下を見る目と能力の巧みな活用こそが、上に立つ者の重要な責務であると強調している。
 また、甲斐の武田信玄は、
 「人間は自分がしたいと思うことをしないで、嫌だと思うことをすれば、身を保つことができる」
 「学というのは書物を読むだけを言うのではなく、それぞれの道について学ぶことを言う。武士たる者は常に武功のある者に近づいて、武功談(実際の経験談)に耳を傾けることだ」
 と語っているが、こうした考え方もあることを、機を見て部下に伝えるのも、必要なことであろう。

■若い世代をどう育てるか

<本文から>
  最近の学生や若者の多くは、自分の関心のある知識にはそれなりに精通し、情報処理能力は高いと言われる。だが、自分が興味を持てない事柄や間邁発見能力には欠けるところがあるとも指摘される。
 あらかじめ答えが用意されているような設問には、資料を過不足なくそろえ模範的な回答を導き出せるが、それ以外の未知の分野に自ら踏み込むことは避けようとする。指示された以上のことにはタッチせず、余計な労力を費やさない。当然、自らすすんで課窺を見つけ出し、そこからさらに新しい課遭や問題点の発見へつなげる意欲に欠けることになる。
 余計なことに首を突っ込んで自分だけ忙しい思いをするより、上から求められていることにそつなく答えを出すことが仕事だと考えている。決まりきったことの繰り返しならそれでよい。だが、仕事はいま与えられたものを通してその周辺にどんな問題が隠されているか、そこからどんなことが広がっていくかを発見することだ。
 企業が求める人材は、模範解答をそつなく纏め上げられる人間と思われがちだが、本当に大切なのはコミュニケーション能力である。いくら頭が優秀でも、挨拶ができない、意思表示や自己表現力に欠ける、他の人間との協調性がないとなれば、自分の殻の中に閉じこもるばかりで進歩、発展がない。
 管理者の目配り
 自分が任されている職場にもしそんな人間がいたら、管理者はこれを放置してはならない。それが複数に及ぶとしたらなおさらだ。そうした部下が目に付いたら、すぐ注意して芽のうちに摘み取ってしまうのが正しい対処法だ。歴史にそんな例を見てみる。
 戦国時代、"国取り""泉雄"といわれた北条早雲が小田原城を乗っ取り、関東へ進出した際、まず目をつけたのが関東管領上杉家であった。早雲は、山内・扇谷の両上杉家の作法が萎えていることに目をつけた。しかし彼はたとえ家臣たちの気が緩み、作法が守られなくなっでいるとはいえ、上杉家ほどの大家であれば、容易に破滅することはなく、長い潜伏期間を経でそれが顕在化してくると見ていた。同時にいったん破れれば、作法は元には戻らないとも見なしていた。
 ここで早雲が「作法」と言っているのはたんに家臣たちの儀礼のことではない。精神の緩みを言っている。職場に当てはめてみれば、職場の決まりごとや勤務悪度、組織のよい習慣が崩れ、各自がばらばらに仕事をすすめているということだ。そのために、その職場が取り組まなければならない組織目標があいまいなものとなり、職場全体の力が一つに結集されなくなるということだ。
 早雲が、
 「人は、人の眼には見えない、隠れた努力こそが大切なのだ」
 と語っているが、自分が興味を抱くことには、人は隠れたところでも努力を積むが、それが組織として結集されていなければ、大きな力にはなり得ないことを見抜いていた。
 管理者が打つべき手
 こうした状況下で、管理者が打つべき手として、どんなことが考えられるか。
 まず部下の一人ひとりをじつくり観察する。そして部下がなにに興味を示すかを探り出し、その中から自分がキャリアを積んできた仕事の一つに引き込む。
 たとえ問題のある部下でも、自分が興味の持てそうな仕事であれば、それを伸ばしたいという気持ちは多かれ少なかれ持っている。
 管理者はそこを手がかりにして、さらに機会を見つけては部下にその必要性を説いていく。ちょっとした会議の折にも、人との接し方、相手の心の動きや他の力を借りてうまくいった例など、ごく自然に自分の経験してきたことを口にする。話の矛先は同時に、他の部下にも向ける。自分の経験ばかりではなく、同ケースに詳しい部下にも発言させる。
 明らか心関心を示し始めていると見たら、その部下の誤りを指摘する。その仕事にとって絶対に必要なことを、ないがしろにしている事柄についてである。
 そうしてキャリアを積んでいく中で、共通の目標を互いにカを出し合うことで成し遂げられるケースも経験させる。
 戦国時代は、自分を高く買ってくれる領主のもとに赴く、
 「去就の自由」
 が認められていた。家臣たちを自分のところに繋ぎとめておくためには、上に立つ者もまた、自分の能力を高め、部下たちから評価されるだけの魅力を、絶えず磨き続けなければならなかった。
 現在も同様、部下のみならず管理者自身も、絶えず自己革新を迫られているのである。

■こころの壁を破る

<本文から>
「こころの壁」となると簡単ではない。現状がうまくいっていないのは、
「トップの方針が悪い」
 「あの部門の業績が全体の足を引っ張っている」
 「過去にもこんなことはあった。そのうちまた波に乗るに違いない」
 といったように、業績悪化の犯人探しは絶えず外に向けられ、眠が自分自身に向かうことはない。
 「自分は一生懸命がんばっている」
 「良かれと思うことはすべて試みている」
 「苦しい時代を、同様になんども乗り超えてきた」
 「会社に対する思いは誰にも負けない」
 そんな意識が強い人間ほど、自分を疑うことに眠が向かない。
 だが、仕事を取り巻く環境の変化は、そうしたこれまで堅実な収益をもたらせていた成功方式そのものを、ことごとく裏切る結果を生み出しているのだ。時代の流れや世の中の状況に乗ってうまくいっていたこれまでの方式そのものが、行き詰まってしまっているというごとなのだ。
 そうなると、自分の考えやそれまでのやり方を一度白紙に戻し、一人ひとりが時代の流れそのものを見直す必要に迫られる。
 これまで自分がやってきたこと、絶対確実と思えてきたこと、苦労してつかんだ手法そのものすらも、自分の手元から離し、距離を置いて眺めてみることが必要になる。自分から離れること、それが、
 「これまでの自分の生き方を変えること」
 であり、そこから新たな気持ちに立って、時代の流れに耳を澄ます。世の中がなにを求め、どんな方向へ向かいつつあるかを見極めることが重要になる。
 部長や課長に最も求められているのは、上層部の考えている先になにがあるかを正しく認識すること。部下の一人ひとりの意見にも耳を傾けること。顧客、消費者、住民の目がどこに向けられているか。これまでとは違う立場に立って、一つひとつ見つめていくことである。
 これまで自分が執着していたものから離れ、自由になる。それが結果的に、部下たちを変えていくことにつながる。会社も自分も、過去の成功体験にすがっていたのでは、時代の変化に取り残されてしまう。そこに気づかない限り、新しい出発点は見出せない。

■決まりごとを守らせるには

<本文から>
  さまざまな職場の決まりごとを、箇条書きにして張り出したりするのも有効だ。だが、決まりごとを作った以上、トップを始め、管理者全員がこれを守る必要がある。
 戦国武将武田信玄は、家中に法度を下し、さまざまな決まりごとを守らせようとしても、大将自身が勝手気ままに振る舞っていたのでは、なんの効果もないと言っている。わが身を反省し、自分にも直すべきところがあれば、率直に正していくという態度が求められる。
 部下に苦言を呈するには、それなりの知識と教養と威厳がなければならないとは、序列の親しい戦国時代にあっても大切な考え方だった。織田信長の下で、先鋒大将を勤めた猛将柴田勝家は、
 「なにより威厳がなければ、部下たちへの下知は徹底しない」
と言っている。
 また名将として知られる薩摩の島津義久に対し、弟の義弘が、
 「近頃、若者たちが怠慢になり、行儀も乱れてきているから、厳しく正してください」
 と申し出たのに対し、
 「部下からただ恐れられようとしてはかえって害が出る。上がまず礼を正し、部下がその恩恵をありがたく感じて自分の行いを恥じるようになってこそ守られるようになる」
 と答えている。
 独裁的なリーダーシップで有名な織田信長などの下で、部下たちがこれにおとなしく従っていたのは、たんに残虐でなにをされるかわからない恐ろしさからというより、信長の価値観が時代の最先端を見つめ、当時の人間の発想を完全に飛び越えたところに立っていたから、その理念の高さに共感していたという点にあることも、認識しておく必要がある。

■諫言の難しさ、トップの度量

<本文から>
  名君の誉れの高い池田輝政などは、死の病についた老臣が枕辺で遺言として輝政の欠点を指摘したとき、
 「いまの諌言は至極道理に適っている。そのほうの志は山より高く、海より深い。自分は生涯いまの言葉を忘れぬから安心せよ」
 と言って涙を流したと言われる。
 また豊臣秀吉は、
 「世の中の人間は、みんなおのれのわがままから仲違いすることが多い。自分が好むことでも他人が好まないものがある。家来や部下も同じで、上に立つ者はこの点に気をつけなければならない。普段から自分と同じような近臣をひそかに目付けとして頼んでおき、ときどき意見をしてもらい、自分の言動のよしあしを開き、なにごとにも細かく気を配るのが将たる者にとっての一番の大事なのだ。この心得がなければ、自分の過失や欠点がわからず、あるいは見逃し、次第にそれが大きくなり、部下たちからも疎まれ、家を滅ぼす原因ともなる」
 と語った。
 たしかに、諌言をどう受け入れるかは、ときには組織にとっての存亡に関わることでもあり、多くの示唆を含んでいる問題である。だが、間違ってはならないのはこれらのいずれもが、諌言を受ける例の度量によるところが大であるという点である。
 えてして諌言をする側は、トップや上層部の度量だけを一方的に期待してしまう。だが上司への諌言は、自分の思い込みや正義感からではなく、冷静な判断力をこそ要求されることを忘れてはならない。はじめに家康の言葉を引用したように、諌言をする者の立場は非常に危ういものになる。相手の性格や人間的度量、組織が置かれている状況などを十分見極めてのうえということが、なにより大事となる。
 諌言を清かすも殺すも
 部下から、自分の直接の上旬やトップに対する批判をあれこれ開かされたからといって、すぐに諌言に及ぶなどは大きな間違いである。
 だがそうはいっても、立場の違いと決め付け、部下たちの言葉をことごとく無視ないし軽視してこと足れりとするのにも問題がある。そこはいったん自分なりに真撃に受け止める。その考えの中で自分でもこれと思えるものがあれば、少しずつ機会を見て、たとえば上層部との会議の際に自分の意見に反映させる。
 その上でなお、慎重に上層部の意見の中で検証を加え、粘り強い客観化を試みる。諌言を活かすも殺すも、その組織の実力と懐の深さにかかっている。組織の実力以上にはどんな立派な意見でも、生かされることはない。
 その厳然たる事実があることを、承知しておく必要もあろう。
 徳川家康が浜松城に本田正信とその他の家臣三名を呼び寄せた際に、そのうちの一人が一通の書面を家康に差し出した。
 「私が内々気づきましたことを書き付けておきましたものです」
 と言った。
 「それは奇特な心配りだ」
 と家康はさっそく正信にそれを声に出して読み上げさせた。一つ読み上げるたびに家康は大きく領き、なるほどなるほどと感心し、
 「これに限らず、今後とも気付いたことがあれば遠慮なく申し開かせてくれ」
 と誉め、その家臣を退出させた。あとになって正信が、
 「いまの意見でお役に立つようなことは一つもありませんでしたが」
 と言うと、
 「これはあの者が精一杯自分の思ったままを書きつけたものだ。役に立つ意見は一つもないが、それを懐にし、時期を見てわしに見せようとの志が尊いのだ。その中の意見が役に立つようなら用い、役に立たなければ用いないまでのことだ」
 と語った。上への思いだけでなく、部下たちの意見に対するこうした心配りも大切でる。
 諌言に関わる例をもう一つ紹介しよう。
 周防と山口に城を構え、西国に威を振るっていた大内義隆が次第に文弱におぼれ、家臣の陶晴賢に滅ぼされた。この晴賢を討って西国の覇者に躍り出ようと企てた毛利元就は、晴賢がもともと人から諌められるのを嫌う性格であることを知っており、これを利用した。
 晴賢の重臣に江良信俊という賢臣がいた。元就はこの男がいる限り晴賢を滅ぼすことは出来ないと、巧妙な謀略をめぐらせた。
 「晴賢が主君義隆を殺したことは大逆無道であり、元就と心を合わせて密かに晴賢を除こうと策をめぐらせている」
 という噂をこつそりと晴賢の耳に入るようにした。そんなことをまったく知らない江良信俊は、晴賢のためにとしきりに自分が気がかりに思うことを晴賢に諌言した。虐俊にしてみれば謀反の心などまったくないから言葉にも遠慮がなかった。

■人をプラスに使う

<本文から>
 上に立つ者の中には、部下が大きなミスを犯すと、すぐにその仕事からはずしてしまったり、とかく色眼鏡で見るようになったりする者がいる。いくら注意しても同じようなミスを繰り返したり、日頃の素行を冷静に見て判断したのであればやむを得ない。だが、一度や二度の失敗なら、それを契機にその者をむしろプラスに使っていくことをこそ考えるべきだ。
 失敗は誰よりもその当人が、一番痛手を蒙っている。そこから必死でそのマイナスを取り戻そうとしていると見るべきだ。そこからの立ち直りのプロセスが、仕事に生きようとする者の最高の教材であり、得がたい教訓を心に刻んでくれる。
 失敗から受けるストレスは、たしかに大きい。ときにはその重圧に耐え切れなくなることもある。だが、その緊張感がもたらせてくれる成果も大きい。部下の失敗は、組織人としての経験を積んだ上司がこれをうまくリードしてこそ、大きな実を結ばせることができる。また失敗に限らず、人をプラスの面で活用していくということは、組織の中では絶対に必要な才覚だ。
 武田信玄は、こうした点で優れた能力を持っていた。信玄は常日頃から、
「わしが人を使うのは、その人間そのものを使うのではなく、その人間の特徴ともなっている業そのものを使うのだ」
 と語っている。つまり、臆病な者は臆病な者なりにその特質・性格を用い、勇猛な者は勇猛な者なりの働き場所を与え、それなりの経験と場数を踏ませていくということだ。
 たとえば、勇猛な者を使いに出してその後に合戦が起きたりすれば、手柄を立て損ねたと使いに出されたことを不満に思う」だが、臆病な者を使えば喜んで出かけ、使いに行った先の関所や渡し舟などでたとえいざこざが起こってもじっと我慢し、相手に無礼な振る舞いを受けても耐え忍んで任務を全うしてくる、というわけである。
 失敗もストレスも、信玄であればそれぞれ相手の性格に合わせて、共にうまく使いこなしてしまうに違いない。

■いつの時代も根底にあるのは「人間力」

<本文から>
  まずは自分一人の能力を高めるために、知識、情報、技術を積み上げ、人的ネットワークを広げていく。同時に仕事から離れたなにかのテーマ、自然や歴史や家族、地域などに目を向ける。
 それらの中から一つを深く掘り下げ、やがて地下水脆でつながっているものを見つけ出し、それを自分の仕事に反映させていく。
 あるいは部下たちとのコミュニケ−ションを大切にし、一人ひとりの秘められた才能針見出すことに興味の矛先を向ける。
 「あいつは上に馬鹿がつくほど正直だ」
 「彼はなにをやらせても不器用で、傍で見ているほうがはらはらする。だが、困難からはけっして逃げたりしない」
 学問によって詰め込まれた知識のみではなく、仕事を通して体得したものを大切にし、一人ひとりの意味づけ、工夫、生き方をも学び合い、交流させていく。それぞれがどんな立場、角度からスタートさせたテーマであるにしても、誠実にそれに向き合い、自分を高めようとしてきたものであれば、互いになにかが得られると考える。
 困難な時代には、目の前の成果を性急に求め勝ちである。それにももちろん全力を挙げて挑戦していかなければならない。だがその一方で、ふだんから価値観を共有する部下たちとの間では、心のどこかでなにかを求め合う気持ちを失ってはならない。
 部下への慈悲をなにより第一とした立花宗茂はこう語っている。
 「いざというときに、いかに宋配を振るってただ『すすめ』とか『死ね』と叫んでも、そんな下知に従う者はいない。常日頃から、部下に対して自分の子のごとく愛憐の情をかけ、部下からは上を本当の親と思われるように人を活用していけば、下知などをしなくても、上の望む通りに動いてくれるものだ」
 「勝利は兵の数によってではなく、一和にまとまっているかによる。その一和の根本は、日頃から心を許しあって親しんでいるかどうかによる」

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