童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武将を支えた禅の教え

■禅は戦国武将の心の拠り所となった

<本文から>
多くのの武将たちは、
「戦国武将の悩みに、他力本願は適用しない」
と思った。そうなると、
「自分で自分を救う」
という自力本願の道に目が向く。こういう武将たちが一斉に、
「自分の心の拠り所」
として懸命になって取り入れたのが「禅」であった。禅の一つの特性は、
「あの世の存在よりも、この世における自己努力を重視する」
ということだ。つまり、
「自分で自分を救う」
ということである。そのためには、厳しい心身の錬磨を必要とする。これが武将群の気に入った。自分で自分を錬磨するということは、
「自分の肉体を鍛える」
ということであって、これを極限まで行えば、表のマゾヒズムに到達する。しかし、武将群は、あえてそれを行った。極限まで自分を鍛えることによって、武将たちは逆に、
「危機の克服と新しい状況の突破口」
を得たからである。
 戦国時代は、
「旧価値の破壊時代」
だといわれる。そういう一面も確かにある。しかし、当時の武将群は単に室町時代までの、いわゆる日本的秩序を破壊しただけではない。
「新しい秩序と価値社会の建設」
を求めていた。つまり、破壊のあとの建設を期待していた。破壊行為の中にも、未来への希望と期待をはっきり望んでいた。したがって、現在の状況が挫折・失敗・絶望・落ち込み・落胆などの、いわば、
「マイナスの精神状況」
のもとに置かれながらも、その下から必死に這い上がろうとする活力を持っていた。そして、そうさせる心の支えになつたのが、「禅」であった。

■北条早雲の民への優しい統治

<本文から>
 しかし、早雲が制庄した地域は必ずしも早雲の出現を拍手して迎えなかった。むしろ恐れていた。それは、
「伊勢新九郎(北条早雲)という男は策謀家だ。上方からやって来て、いつの間にか今川家に入り込み、当主の信任を勝ち取った」
という噂が流れていたからである。里の人々は、
「そんな無頼な国盗り男では、何をするかわらない」
と話し合って、山の中に逃げ込んでしまった。里の柑に残されていたのは、病んだ老人ばかりであった。早雲は慨嘆した。しかし、かれの心の底にはいつも禅の精神がある。袖仏の気持ちがある。落ち込んだ気持ちを自ら奮い立たせた。かれは村の中をくまなく点検した後に、部下を集めて、こう命じた。
「一人の病人を、三人の兵隊が交代で看病せよ」
そうしてかれ自身は、山の中に入った。ついて来た部下が聞いた。
「何をなさっておられるのですか」
「薬草を探している」
前半生が謎のかれには、長い放浪生活があった。その放浪の旅で、かれは山や野に薬草がたくさん生えていることを知った。今でいえば、
「漢方薬の国産化」
である。その知識と技術を持っていた。くまなく村の中を見回って、老人たちの病状を診たかれは、
「あの老人の病気にはこういう薬が効く。そして、この老人にはああいう薬がいいだろう」
と即座に頭の中で判断したのである。薬草の見本を発見すると、かれは部下に命じて、その大量採集を命じた。そして煮たり干したり粉末化したりして、薬を作った。これを老病人たちに与えた。効果てきめんで、病人たちは次々と治った。快癒した老人たちは話し合った。
 「早雲様は決して悪い方ではない。むしろ、仏のような温かい気持ちをお持ちだ。山に行って、このことを話そう」
そこで快癒した老人たちは山中に行き、退避していた人々にそのことを話した。はじめは疑っていた村人も、やがては信じて里に下りてきた。村の入口に大きな高札が立っていた。
一 たとえ空き家でも、勝手に中に入って調度品に手をかけてはならない
一 まして、調度品を外に持ち出したり、売り払って金に換えるようなことをしてはならない
一 早雲の部下も、里人も、この付から勝手に脱出してはならない
そんな内容だった。早雲は戻ってきた里人の中から、かつての村役人を選び出し、
「今までと同じように仕事をしてほしい」
と頼んだ。画期的なのは、かれが年貢の率を、
「四〇パーセントとする」
と宣言したことだ。当時は、「五公五民」といって、五〇パーセントが常識だった。それをいきなり一〇パーセント引き下げた。これが村人を喜ばせた。
「早雲様は生き仏棟だ」
と、みんな早雲の支配を喜んだ。
早雲は、こうして着々と領土を広げていった。民に対しては優しかったが、権力者に対しては厳しい。まして贅沢な暮らしをし、民を苦しめている権力者に対しては、かれは容赦なく策謀を駆使して、これを滅ぼした。

■織田信長は終始一貫して禅に学んでいた

<本文から>
織田信長といえば、いつも自ら舞った例の『敦盛の舞い』が有名だ。敦盛は「幸若舞い」の一つで、信長が好んで口にした歌だ。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり
 読んで字のごとく、まさに、
「人間の儚さ、無常感」
を歌ったものである。下天というのは、限りなく広がる空間のことだ。
「それに比べれば、人間の一生など何と短く惨いものだろうか」
という意味だ。信長はほぼそのとおり四十九歳で死んでしまう。そんな予感をしていたわけではなかろうが、いずれにしても、
「人間の一生は短い泊だから、毎日を遺憾なく生命を燃焼させて生きるのだ」
という充実感と緊張感を持っていたことは確かだろう。信長は、岐阜城や安土城にヨーロッパから来たキリシタン宣教師を招いた。そして海の向こうの文明の在り方を聞き、これを部分的に政治に採り入れた。安土城を築いた時には、地域内にあった地蔵の首を全部落とし、これを建築資材として使ったともいう。そんなことを考えると、
「信長は、仏教嫌いであり、禅とも縁遠かったのではないか」
と思える。ところが違う。信長は、終始一貫して禅に学んでいた。教えたのは妙心寺系のすぐれた禅僧沢彦である。
若い頃の信長は、
「尾張のうつけ者」
といわれていた。あるいは ″かぶき者″ ″ばさら者″ともいわれた。かぶきというのは、もともとは、
「傾く」
という言葉からきた。世の中を斜めに生きて、斜に構え、何でも人のいうことに反対し、好き勝手なことをする人間という意味だ。

■不動明王のような心で危機を脱した伊達政宗

<本文から>
 「恐れてはなりませぬ。不動明王は、この世の悪に対する怒りを退治すべく、自分の体から炎を吹き立てているのでございます」
と説明した。そして、
「若君も、一隻眼を恥じてはなりませぬ。この不動明王のように、悪を退治するお人におなりあそばせ」
といった。あの一言によって政宗はそれ以前の自分とは変わった人間になったことを感じた。
 つまり、
 「あの日からおれは生まれ変わった」
という自覚が持てた。眠れぬ夜を、箱根山中の底倉の一室で送りながら、政宗は振転反測した。不動明王の姿がちらついて日の裏から離れない。政宗は反省した。
(あの日、虎哉宗乙師に教えられた初心を、おれはずっと持ち続けていたのだろうか)
という疑問だ。師僧は、
「世の悪を退治するために、一隻眼をご活用なさい」
と告げた。おれは確かにあの日以来、はじらいの気持ちを捨てて、自信を持つ活動家に変わった。しかしその活動の内容は、果たして師僧のいった、
「この世の悪を退治する」
ということに集中していたのだろうか。
「おれ自身の野心・野望の達成にあったのではないのか」
という思いが湧いてきた。こんなことは今までない。かれは目的を達成するたびに、さらに自信を深めた。が、今、
「では、その目的は誰のためのものか」
と開かれれば、はたと答えに迷う。政宗は、
「今までの行動は、すべておれ自身のためではなかったのか」
と思いはじめていた。あの恐ろしい不動明王が、炎を吹き立て剣を撮るって、自分に迫って来るような気がする。不動明王は叫ぶ。
「政宗よ、おまえの敵はおまえだぞ」
その三日が政宗の脳天を打ち砕いた。衝撃は今も去らない。しかし、その衝撃が改宗の、
「助かりたい」
というひたすらな思いを遮断した。政宗は己を取り戻した。前田利家と徳川家康は確かに豊臣秀吉の側近であり豊臣政権の実力者だ。しかし、ここで嘆願の姿勢を取って、命乞いをするのはいやだった。
 (最後まで、自分を貫き通したい)
 それがおれの武士道なのだと改宗は自分に言い聞かせた。

■徳川家康の天下取り行動はすべて禅僧に学んだ

<本文から>
 その意味では、
「徳川家康の天下取り行動も、すべて禅僧に学んだ」
といっていいだろう。そうなると、少年時代に学んで強い印象を受けた『貞観政要』も『吾妻鏡』も、自家薬籠中のものとなる。はっきりいえば、家康はこれら幼少年時代に学んだ漢書や日本の古典を、
「自分の都合のいいように解釈し、活(利)用する」
ということになる。しかしそれがどれだけ自分の都合のいいように利用したとしても、家康の根本精神は、
「おれは常に天下のために放伐を行っているのだ」
という自信があるから、悪いことだとは微塵も思わない。やがてかれが、いろいろな法律を作って天皇や公家の政治活動を制限したり、日本の僧を宗教活動に絞ったり、あるいは大名や直参などの武士活動を制御したり、一般人の行動にも制約を加えたのは、すべて根幹に、
「孟子の教えの実践」
という信念があったためだ。当時の禅の教えは、必ずしも仏教だけではない。広く漢籍によって学んだ思想や他の考え方も多く取り込まれている。そしてその博学ぶりは、他の仏教プロパーの宗教者よりも、むしろ禅僧の方がすぐれていた。したがって、戦国時代から徳川時代初期にかけてのいわゆる、
「知的指導者」
は、あげて禅僧である。それが、時代を経るにしたがって、学者に変わっていった。その換期の架橋になったのが、徳川家康だったといっていい。

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