童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末維新の出向社員

■西郷は出向先で失敗して本社で冷や飯を食わされたが、努力によって、再びカをもり返した

<本文から>
 いってみれば、出向社員西郷隆盛は、出向先で失敗した。それは、出向先の状況把握が甘かったことと、また、あまりにも、「努力主義」に走ったことだ。つまり、結果を冷静に見つめないで、
 「人間は誠意をつくして努力すれば、かならず天が味方してくれる」
というような、いわば不確実な希望を抱いて行動したことだ。これが裏目に出た。そして、本社に逃げ帰った。本社では、初めはかれを温かく迎えなかった。冷遇した。さらに、島に流した。つまり、出向先で失敗した社員を窓際族からベランダ族に追い、さらに昇降階投に机を移したということだろう。しかし、西郷は耐えた。大きな声で不平をいったり不満をいったりはしなかった。
 (おれのやり方にも、やはり悪いところがあったのではなかろうか?)
と自分を反省した。この反省の目で薩摩藩を見つめた時、薩摩藩にも、いろいろとおかしいことがあることを知った。西郷の第二段階、第三段階は、
 「薩摩藩のおかしいところを直しながら、おれ自身も成長していこう」
 ということであった。
 禊を経た西郷は、生まれ変わった。かれは、その体躯と同じように、巨人に成長していった。西郷隆盛の場合は、出向先で失敗して、本社に逃げ戻り、本社で冷や飯を食わされたものの、自らの努力によって、再びカをもり返したということだ。そして、カをもり返した時は、出向前よりもはるかに巨大な存在になり、薩摩薄の西郷から、日本の西郷に成長していたということである。
 そして、それを側面的に応援したのが、大久保一蔵である。

■小楠は出向先の組織内呼応者との結合という形で成功

<本文から>
 これは、現在でも同じだが、出向幹部の活用のしかたのひとつだ。つまり、出向者がいった先にも、こういう改革論者がいる。しかし、その改革者も性格的に欠陥があって、その組織ではなかなか支持されない。そこで、新しく改革を実行するため、自分に代わって出向者にいろいろなことをいってもらったり、やってもらったりするという方法だ。これは、いまでも出向者と、出向先の組織内呼応者との結合という形で、しばしば行われているのではなかろうか。
 とくに、どんないい案でも、同じ組織内の人間がいい出した場合には、重役はフンと横を向く。ところが、これが第三者の学識経験者がいうと、同じことでも、
 「それは名案です。さすが!」
 ということになったりする。越前藩上層部にもこういう傾向があった。三岡八郎はそのへんをちゃんと見ぬいていた。したがって、三岡は三岡なりに、横井小楠が積極的に富国強兵策を唱えてくれることを、待ちかまえていたのである。
 さらにまた、藩内の産業を盛りたて、積極交易に乗り出すということは、橋本左内の案でもあった。したがって、橋本左内派も小楠の説にだけは、賛同せざるを得なかったのである。こうした空気を湧きたたせたのは、なんといっても、小楠が繰返した、
 「いまの藩政は、焦りすぎて少しギスギスしている。とくに人間関係が悪い。もう少し人情の油を注いで、和をはかり、なめらかに、ゆっくりいったらどうだ?」
 という忠告と、
 「当面は、中央政治よりも、まず越前藩自身の富強化だ」
 という主張が、いわば″地方の時代″、″地域の活性化″論者たちに受けたことである。
 横井小楠にすれば、こんなことはさんざん母国の熊本でいい続けたことだ。ところが、熊本では冷笑されてまったく相手にされなかった。それがことごとく受けいれられた。小楠はごきげんだった。

■幕府にいた大村益次郎は桂小五郎によって見出された

<本文から>
徳川幕府の出向社員になった大村益次郎が命じられたのは、幕府の著書詞所の教授であつた。ここで、主としてオランダの本の翻訳を命じられた。そして、きらに幕府が新しく作った講武所での講義を命じられた。つまり、オランダから入ってきた原書を自分で翻訳し、その和訳本をもって講武所に出かけていき、旗本たちに外国の学問を教えたのである。
 このへんの大村益次郎の使い方は、伊達宗城にせよ、あるいは幕府にせよ、なかなか目のある人物がいたということになる。出向社員としてかれを十分に活用した。大村益次郎のもっている能力を、出向先の企業が肥料として十二分に摂取したのである。にもかかわらず、大村益次郎の所属している本社の長州藩では、まだかれの存在に気づかない。
 たまたま、この時期、長州藩の江戸藩邸に桂小五郎がいた。かれは、すでに若くして、長州藩の江戸屋敷内に設けられた若者たちの学枚の学長を務めていた。かれは、当時江戸で有名だった剣術道場斉藤弥九郎の道場に通っていて、諸藩の青年たちと接触していた。ここで、大村益次郎のうわさを開いて、ビックリした。
 「長州藩に、そんな人物がいたのか? このまま頭脳流出をさせておいたのでは、長州藩にとっても揖失になるし、また恥ずかしいことだ」
 そこで、首脳部に、
 「大村益次郎を至急長州藩に呼び戻してほしい」
 と要望した。
 さっそく長州藩から使いがきて、幕臣になっていた大村益次郎に、「長州藩に戻ってほしい」といった。大村益次郎は淡々としてこれを受けた。
 「わかりました」
 本社復帰後は、まず、江戸の藩邸で長州藩の若者たちに、蘭学の講義を始めた。

■大村の皆兵策で幕府を倒したが自身も暗殺された

<本文から>
  とくに、江戸の上野山に籠もった彰義隊を滅ぼす時に、いちばんものをいった。この時、西郷隆盛が全軍の指揮をとっていたが、西郷はどちらかといえば、穏便な攻撃方法を主張した。しかし、大村益次郎はこれを否定し、過酷で急進的な作戦計画を立てた。この計画を見た西郷は怒った。
 「大村さんは、薩摩藩の軍隊を全滅させる気か?」
 作戦計画によれば、薩摩藩がもっとも危険なところに位置していたからである。ところが大村益次郎は、ジロリと西郷を見てこうウソぶいた。
 「わたしが全滅させるのは薩摩藩だけではありません。西郷先生ご自身も、戦死していただきます」
 これには、西郷隆盛もあっけにとられた。そしていきなりハッハッハッと笑い出し、
 「おそれいった。大村さん、この作戦に従いましょう。そして、この隆盛が真っ先に戦死しましょう」
 西郷のこの決断によって、彰義隊に一斉攻撃が加えられ、彰義隊は一日で壊滅した。東北戦争も、大村益次郎のクールで果断な作戦計画が次々と効を奏した。やがて、武士階級の出番はあまりなかった。そしてこれが、
 「日本の軍隊は、一般民衆に限る。もう武士は役立たない」
 という印象を強くした。そのために西郷の出番はいよいよ少なくなっていく。これが、西郷隆盛に、明治十年に反乱を起こさせる遠因になる。つまり、西郷に代表される武士階級の大半が、徴兵制によって失業してしまい、仕事が得られなくなったからだ。その原因は大村にある、と見るものがたくさんいた。このために、大村益次郎は、のちに暗殺される。
 「かれは、ヨーロッパかぶれであり、開国を叫び、しかも、軍隊を一般民衆に代えるという徴兵制を適用したからだ。これによって武士は滅ぼされた。武士の生きる場がなくなった」
 というのが暗殺理由であった。
 初めのうらは不安定な出向社員であった大村益次郎は、幕府という、敵の本社に出向することによって、その実力を発揮した。それを発見した本社の長州藩が、あわてて呼び戻した形になる。
 しかし、長州藩も偉い。大村を重役として迎え入れ、大村の主張している国民皆兵制度を採用したのだから。

■龍馬は会社を飛び出しプロダクションを興し、やがて本社に逆流して重役にのし上がる

<本文から>
  後藤象二郎はこの時、「亀山社中を、土佐本藩の正式な組織に組み込みたい」と提案した。坂本も、これを承知した。私的セクターで、いろいろと苦労をしているよりも、土佐本社の正式な機関になったほうが、動きやすい。隊士たちも、身分が安定すれば気持ちが落ち着くだろう。
 「ただ、土佐藩の組織に組み込まれたとしても、社中の運営はいままで通りにしますよ」籠馬はクギを刺した。後藤はうなずいた。
 「いいよ。きみの思う通りに、いままで通り運営してくれ。よけいな口は出さない」
 「それなら結構です」
 こうして、坂本の私的セクターであった亀山社中は、正式に土佐藩の組織に組み込まれて「土佐海援隊」と名を変えた。土佐藩は、同時に、「陸援隊」という組織も作った。いってみれば、土佐藩の海軍と陸軍ということだろうか。しかし、陸援隊とは違って、海援隊のやることは、従来通り貿易である。密貿易もある。やがて、この海援隊が主軸になって、長州藩で買うことができなかった外国の大砲や軍艦を代わって買い込む。名義は、薩摩藩である。そして、これがキッカケになって、それまで犬と猿の伸だった薩摩藩と長州藩が同盟する。有名な「薩長連合」だ。
 こういう経過をたどって、坂本龍馬は、正式に土佐藩の長崎出向社員になった。しかし、かれの職場は、かれが自分で作りあげた海援隊だった。整理してみると、次のようになるだろう。
 ○坂本籠馬は、自分の能力を生かしてくれない土佐藩に見切りをつけた。同時にいつまでたっても、身分秩序を改めない土佐の現状にも愛想をつかした。そこで脱藩した。
 ○無断で会社(藩)を飛び出すということは、いまでも懲罰の対象になる。おそらく、懲戒免職になるだろう。退職金も払ってもらえない。龍馬は十分そんなことを承知していた。しかし、かれはいろいろな手を打った。
 ○それは、自分なりに新しい人的ネットワークを作ったということである。それも、時代をリードするようなすぐれた思想家や、実務家を対象にした。そういう人々に愛されるだけの能力をかれはもっていた。つまり、単なる知識や技術だけでなく、人間的にも愛されるようなものをもっていたのである。龍馬を囲む人的ネットワークは、単に龍馬を愛しただけでなく、龍馬を媒体として知り合うことによって、それぞれがフイードバックし、互いのプラスになった。これは、龍馬の意識せざる大きな功績だ。
 ○中でも、横井小楠と勝海舟は、狭い井の中の蛙であった坂本籠馬に、「世界に目を向けろ」と教えた。小楠は、「その世界の中で、道を守る日本が、リーダーシップをとらなければダメだ」といった。これが、坂本に、亀山社中を作らせる動機づけになった。
 ○坂本賂馬は、私的セクターとして亀山社中を作った。やがて、この社中の活動が注目され、とくにかれが脱藩してきた土佐藩の重役後藤象二郎から目をつけられた。
 ○坂本籠馬は後藤象二郎にとって叔父の仇だ。しかし、後藤はそれを忘れた。そして、坂本龍馬と、その率いる亀山社中を、土佐藩の正式な機関に組み込んで活用することが、土佐藩自身の新しい道を切り拓くキッカケになると信じた。そこで、後藤は坂本に接近した。
 ○後藤の出した条件は、「脱藩の罪を許す」という旧時代的なものであった。しかし、脱藩者という枷が、坂本の行動をいろいろと妨げていたことも事実である。つまり、坂本自身が、古い時代と新しい時代の狭間にいた。坂本は、亀山社中が、土佐藩の正式組織になることを承認した。亀山社中は、土佐海援隊と名を改めた。
○こういう経過を考えてみると、坂本は会社を飛び出して、ただの個人になったが、たったひとりの反乱を続けたわけではない。かれは、いろいろな人と知り合うことによって、坂本プロジェクトチームを形成した。そしてその中から、亀山社中という私的セクターを作り出して、実績をあげた。かれは、土佐本社を相手にまわしても、びくともしないだけの実力を、自分とその仲間で作りあげたのである。
○その実力は、土佐本社を圧倒した。本社の幹部は、この組織を潰すどころか、逆に厄介にならなければ、今後の潮流の中で生き抜けないと悟った。そこで、本当は憎くて仕方がない坂本籠馬と、その作り出した亀山社中を本社の正式組織として組み込み、さらに龍馬たちを、正式社員として籍を置かせた。一旦そういう形をとったうえで、改めて今度は坂本たちに、
 「長崎の海援隊に出向を命ずる」
 という辞令を出したのである。こういう例はあまりないだろう。会社を飛び出した有能な社員が、自分で小きなプロダクションを興し、やがてそのプロダクションを本社に逆流して位置づけ、今度は本社の重役にのし上がるというケースだ。

■象山は幕府の出向社員として京都に派遣され開花した

<本文から>
  しかし、象山自身は、はじめから問題児だった。松代藩においても、持て余し者だったし、持て余し者でありながら、しかもなお、
 「おれは、日本のナポレオンなのだから、おれの種をもらうために、尻の大きい腰の丈夫な女性をたくきん世話をせよ。おれの種が日本にばらまかれることによって、日本の人種改良が可能になるはずだ」
 などと主張する、とてつもない思い上がり者でもあった。
 この態度は、出向社員を命じられてからさらに増幅された。つまり、松代藩から徳川幕府に出向させられて、京都に派遣きれたことを、かれはいよいよ得意に思ったにちがいない。
「日本のナポレオンであるおれの出番がきた」
 と考えた。そのことが、いよいよかれを尊大にし、いままでの傲岸不遜な態度をいよいよ高めた。その上、いうことが、尊皇攘夷論に真っ向から反対する公武合体開国論だったから、尊攘派の憎しみを買うのは当然だった。
 しかし、たとえ命を落としたとしても、出向社員佐久間象山には悔いはなかったのではなかろうか。やはり、かれは松代藩では十分に才能を生かすことができなかった。足を引っ張る連中があまりにも多すぎたからである。つまり、松代藩の"状況"は、佐久間象山の"能力"を生かすものではなかったのである。
 それが、皮肉なことに徳川幕府によって発見された。幕府の出向社員として京都に派遣され、いっペんに開花した。したがって、開花した期間は短くても、佐久間象山にとっては、「輝ける出向社員時代」だったのである。
 五十四年の悔いなき生涯であったといっていい。そして、かれは本社組織にいるよりも、危険きわまりない出向先で活躍したほうが、はるかに生命の燃焼感を覚えたのである。

■平岡はしたたかに一橋慶喜を公武合体派の中心にすえた

<本文から>
 「一橋慶喜は決して攘夷派ではなく、むしろ穏健な公武合体派だ」
 というイメージを植えつけようとしていたことは事実である。が、いっペん、一橋慶喜尊攘派だというレッテルを張られた以上、簡単に引っぱがすわけにはいかない。結局、間接手法をとって、
 「一橋慶喜が、尊攘派だったのは、脇に悪いヤツがいて、へんな知恵をつけていたからだ」
 という屈折したいいわけにならざるを得ない。では、その知恵をつけた悪いヤツはだれか? 平岡円四郎とすれば、自分が名乗り出るわけにはいかない。
 結局、どういう手を使ったのかわからないが、中根長十郎がその犯人として、暗殺された。その陰には、平岡円四郎の策謀があったと思う。かれも、相当したたかなタマだ。まるで、謀略のるつぼのような京都生活を送ってけるうちに、そういう知恵を身につけざるを得なかったのだろう。一橋慶喜を生き抜かせるための知恵である。とばっちりを受けたのが中根長十郎だ。中根が殺される時、何を思ったかわからない。
 「平岡の野郎、やりやがったな!」
 と思ったかも知れない。しかし、いずれにせよ中根長十郎は殺されてしまった。そうなると、一橋慶喜がいよいよ頼りにするのは平岡円四郎である。
 中根長十郎が死んだあと、平岡円四郎にとって、舞台は独壇場になった。かれは、新しく公武合体派の大名たちを、徳川幕府レベルではなく、グループとして、京都朝廷と結びつけようと努力した。
 朝廷は、かれの熱心な工作によって、ついに一橋慶喜、それに越前藩主松平春獄、土佐藩主山内容堂、宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主の父島津久光、そして京都守護職である会津藩主松平容保の五人を、新しく「参与」のポストに就けた。参与は、京都御所内で、天皇の前で行われる「朝議」に参加することができる。つまり、大名を、天皇が主催する高級公家の最高会議に、列席きせるということだ。こんなことは、いまきでの御所の歴史にはない。
 この報を開いて、平岡円四郎は思わず、
 「やったあ!」
と歓声をあげた。われながら、ここまでこぎつけられるとは思わなかったからである。宿舎に戻ってきた一橋慶喜が、さすがに感動の面持ちで、
 「平岡、見事だ」
 とほめた。円四郎は黙って平伏した。

■松平容保は出向先での功績が裏目に出て新政府軍から攻められた

<本文から>
  納得できないまま、容保は会津に戻った。そして、城を直し、軍備を拡張した。いつ官軍が攻めてきても、戦うつもりであった。しかし、初めから戦いを望んだわけではない。容保は、何度も政府に対し、会津藩が京都守護職として、京都の治安の維持のためにつくしてきたことを、報告した。
 が、頭から
 「会津を叩きつぶせ! 京都での仇を討て!」
 と、一般将兵の戦闘心を煽った官軍首脳部は、逆に初めから会津藩を叩きつぶす気であった。何としても血を見なければおさまらない、官軍将兵の不完全燃焼部分を、会津攻撃によって発散させようとしたのである。
 いってみれば、天皇から感状をもらうほどの京都における功績が、会津藩にとっては裏目に出たのである。つまり、出向先で、十二分に出向の目的を遂げた松平容保は、それゆえに今度は新政府軍から攻めたてられることになった。割りきれない気持ちをもつのは当然である。
 この会津攻防戦には、かつての下請けグループ新撰組も参加した。隊長であった近藤勇 は、すでに官軍に自首して首を斬られていた。その近藤を見送った土方歳三は、「おれは最後まで戦う」といって、あいかわらず新撰組の隊名を名乗りながら、関東地方から東北へ次々と転戦していた。
 会津藩が降伏した後も、土方は北海道へいく。そして、箱館(五稜郭)で戦い抜き、壮烈な戦死を遂げる。土方歳三こそ、最後まで、「出向社員精神」に徹した人物であったといっていい。出向先で成功しても、二度と本社に戻らなかった。戻るべき本社もなかった。
 かれは、天性のオルガナイザーであった。無から有を生ずる組織者であった。
 幕末におけるオリジナルな二大出向機関は、新撰組と坂本龍馬の作り出した海援隊のふたつだといっていいだろう。そして、このふたつの組織では、身分も関係なく参加した若者たちが、目いっぱいに自分の生命を燃焼させた。かれらの生き場は、こういう出向機関、すなわち第三セクターにしかいなかった。フォーマルな大組織では、かれらの生きる場、能力を生かす場は皆無だったからである。その意味では、かれらが新撰組や海援隊に身を置いて、精一杯、命を燃やし続けられたのは、男として幸福だったといえる。かれらは、出向先で、こもごも生命を散らしていったが、後悔はしていなかったはずだ。
 「ここが、おれの生きる場だ」と思い続けた。そういう場を得られたことは、得られなかった人間に比べれば、はるかに幸福だった。

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