童門冬二著書
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          幕末の武蔵 一期一会

■宮本三蔵の行き着いた先は多摩農民に剣術を教えること

<本文から>
 「何のためにだ?」
 島田虎之助がきいた。
 「試衛館を再興するといっても、江戸で剣術を教えるつもりはありません。多摩の農民たちを守りたいのです」
 「多摩の農民を?」
 「はい」
 三蔵はうなずいてその理由を説明した。
 開国以来多摩地域では、桑畑が多かったためにたちまち潤った。というのは、横浜の居留地に住む外国の商人たちが、まず日本から輸出する品物として生糸と茶に目をつけたからだ。多摩は生糸の生産地である。外国商人たちの着目を知った仲買人が、一斉に多摩地域に入り込んできた。そしてどんどん生糸を買いつけた。多摩地域の生糸生産者たちは思わぬ富を得た。八王子方面から横浜の居留地に向かう道は、新しくル日本の絹の遣;ルクロードeと名づけられ、往来が活発になった。
 ところがこのことを知った悪党たちが、
 「多摩の里はにわか景気で金がうなっている。奪え」
 という不心得者が続出して、強盗が横行するようになった。しかし、農民たちがいくら訴えても幕府の役人たちにはすでにこれを防ぐ力がなかった。長年の平和な生活に慣れてぐうたら武士が増えてしまっていたからである。わずかにかれらを守ってくれるのは八王子千人隊という組織だったが、これも江戸城やその他の防衛にかりだされているので、十分な兵力がなかった。そこで、多摩の里の実力者たちがなじみの深い近藤勇や土方歳三や沖田総司に頼んで、
 「農民に剣術を敢えてほしい」
 ということになった。しかし農業の仕事に忙しい農民たちが江戸の道場に通うわけにはいかない。そこで試衛館側では出稽古といって、代わる代わる多摩の里にきて農民たちに剣術を教えた。試衛館の流儀である天然理心流は、一名式太ン棒剣法"と呼ばれていた。宮本三蔵が得意とする自顧流に似た剣法だ。剣を右脇に八双に構えて、いきなり相手に叩きつける刀法である。斬るというよりも殴り殺す剣法だ。覚えやすい。だから農民たちには一番むいた。型を重んずるようなほかの流儀の剣法では、覚えにくいし、本当に役立つかどうかわからない。ただ一振りで相手を倒すことができれば、これに越したことはない。そこで天然理心流は多摩の里ではもてはやされた。
 ところが、ある時志を立てた近藤勇以下門人たちがそつくり試衛館をたたんで、京都にいってしまったので、もう天然理心流を教える人間がいなくなった。
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