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<本文から>
長身である。またよく肥えている。それに金遣いが荒い。顔にコブがあった。そのため藩邸の女性たちは影で、
「コプ様、コプ様」
と呼んでいた。コプは小さいときから付いていた。したがって少女のときからほかの連中に、
「コプ様、コプ様」
とからかわれた。篤姫は、
「コプは生まれついたときからわたしの額についている。とることもできない。そうであるなら、コプ様と呼ばれても何の不思議もない。周りから見れば、顔にコプがあるのだからそういう名で呼ぶのだ。逆らっても無駄だ」
と割り切っていた。だからみんなからコブ様と呼ばれてもニコニコ笑っている。
「そうよ、わたしはコプ様なのよ」
と平然として応じた。その肝っ玉の太さに周りのほうがかえって呆れ返った。やがて、コプ様と呼ぶのをやめてしまった。あっけらかんとした篤姫の性格に、周りのほうが圧倒されてしまったのである。後年のことだが、篤姫は家定の御台所となり、やがて家定に死なれ未亡人になっても、慎み深い暮らしなど送らなかった。積極的に江戸市中に出て、芝居小屋も見物した。勝海舟など愛されて、よくその供をしたという。また江戸市中で覚えた魚の調理方法を、そのまま江戸城の大奥でも行ったので、女性たちは顰蹙したという。それほど大らかな人間性を持っていた。これは得な性分だ。小さなことは気にしない。せこいことも言わない。薩摩藩邸に勤める連中も舌を巻いた。
「篤姫様は大物だぞ。あれなら、上様の御台所になっても堂々と務まる」
と感嘆した。ただ金遣いの荒いのには辟易したが、これは斉淋のほうから、
「やがては将軍の御台様になる娘だ。多少のことは大目に見てやれ」
という特別な指示が出ていたので、藩邸の会計担当もときには眉をしかめたが、しかし篤姫の言うとおりの支出をした。
「少しはお控えください」
などとは言わなかった。そんなことを言えば篤姫が、
「せこい、せこい」
と嘲笑うに決まっていたからである。藩邸の武士たちも、ふだんは切り詰め放題切り詰める会計設計を立てていたから、篤姫のようにばっぱと湯水のように金を使う女性を見ていると、どこか心の中に爽快感があった。だから藩邸の会計担当武士たちも、
「篤姫様のためには、多少は他の支出を抑えても無理をしようではないか」
と合意していた。窮屈な江戸生活の鬱屈した思いのはけ口として、篤姫が金を使ってくれたからである。その共謀者となることに、江戸藩邸の薩摩武士たちは快感を覚えていた。 |
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