童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末の尼将軍−篤姫

■肝っ玉が太く大らかな人間性の篤姫

<本文から>
 長身である。またよく肥えている。それに金遣いが荒い。顔にコブがあった。そのため藩邸の女性たちは影で、
 「コプ様、コプ様」
と呼んでいた。コプは小さいときから付いていた。したがって少女のときからほかの連中に、
 「コプ様、コプ様」
とからかわれた。篤姫は、
 「コプは生まれついたときからわたしの額についている。とることもできない。そうであるなら、コプ様と呼ばれても何の不思議もない。周りから見れば、顔にコプがあるのだからそういう名で呼ぶのだ。逆らっても無駄だ」
 と割り切っていた。だからみんなからコブ様と呼ばれてもニコニコ笑っている。
 「そうよ、わたしはコプ様なのよ」
 と平然として応じた。その肝っ玉の太さに周りのほうがかえって呆れ返った。やがて、コプ様と呼ぶのをやめてしまった。あっけらかんとした篤姫の性格に、周りのほうが圧倒されてしまったのである。後年のことだが、篤姫は家定の御台所となり、やがて家定に死なれ未亡人になっても、慎み深い暮らしなど送らなかった。積極的に江戸市中に出て、芝居小屋も見物した。勝海舟など愛されて、よくその供をしたという。また江戸市中で覚えた魚の調理方法を、そのまま江戸城の大奥でも行ったので、女性たちは顰蹙したという。それほど大らかな人間性を持っていた。これは得な性分だ。小さなことは気にしない。せこいことも言わない。薩摩藩邸に勤める連中も舌を巻いた。
「篤姫様は大物だぞ。あれなら、上様の御台所になっても堂々と務まる」
と感嘆した。ただ金遣いの荒いのには辟易したが、これは斉淋のほうから、
「やがては将軍の御台様になる娘だ。多少のことは大目に見てやれ」
 という特別な指示が出ていたので、藩邸の会計担当もときには眉をしかめたが、しかし篤姫の言うとおりの支出をした。
 「少しはお控えください」
などとは言わなかった。そんなことを言えば篤姫が、
 「せこい、せこい」
と嘲笑うに決まっていたからである。藩邸の武士たちも、ふだんは切り詰め放題切り詰める会計設計を立てていたから、篤姫のようにばっぱと湯水のように金を使う女性を見ていると、どこか心の中に爽快感があった。だから藩邸の会計担当武士たちも、
「篤姫様のためには、多少は他の支出を抑えても無理をしようではないか」
 と合意していた。窮屈な江戸生活の鬱屈した思いのはけ口として、篤姫が金を使ってくれたからである。その共謀者となることに、江戸藩邸の薩摩武士たちは快感を覚えていた。
▲UP

■西郷から情報を提供を受けた

<本文から>
 斉彬は西郷に、
 「おまえが走り回って会った人物の印象や、あるいは収集した情報のすべてを篤姫に告げよ」
 と命じていた。そのことが篤姫の御台所教育の一環となり、篤姫が将軍の妻になっても、
 「日本国のファーストレディー」
 として、十二分にその力を発揮できるようになると思ったからである。西郷が篤姫に会っていろいろな話をすることは藩邸の中でも誰も文句を言わない。斉彬から、
 「篤姫が江戸城に入るときは、支度万端は西郷吉之助が調える」
と告げていたからである。篤姫も西郷の話を開くのを喜んだ。活発な彼女の性格は、
 「何でも知ってやろう」
という積極的な気持ちを持たせていた。披女自身も、
「大奥に入ったら、必ずおじさまの期待に沿うような御台所になりたい」
と思い立っていた。これはほのかに漏れてくる、徳川家定の心身状況に端を発したものではない。篤姫自身が、生まれつきそういう好奇心を持ち、政治が好きだったのである。したがって篤姫は、
「わたしは家定様の足りないところを補うのではなく、私自身が一個の女性として、そういう面で活躍をしたい」
と思い立っていた。西郷吉之助は、かつて鹿児島城の池のほとりで主人の斉彬から厳しく叱責され、涙をばろぼろ流して身を縮めていたところを篤姫に見られている。恥だった。しかし西郷吉之助は、篤姫に悪感情は持っていない。むしろ、
 (篤姫様は、おれが大きな体にも似ずノミのような心臓しか持っていないのに、あの大柄な体に似つかわしく太い肝をお持ちだ。とてもかなわない)
と思っていた。
▲UP

■篤姫の大奥生活

<本文から>
 斉彬の建白書はすべて写しが三田藩邸に届けられ、三畏邸を通じて西郷書之助から老女幾島に渡された。斉彬の意思として、
 「篤姫にも読ませるように」
ということだ。つまり日本の最頂点に立つ将軍夫人として、このくらいのことをわきまえておけという指示であった。篤姫は興味を持って斉彬の建白書を読む。それは彼女自身の関心がグローバルな面にあったからだ。被女自身、今は、
「わたしは決して薩摩の蛙ではない。日本の蛙だ、世界の蛙だ」
という認識を強く持っていた。しかし、その認識とは裏腹に、江戸城に入って以来、大奥というところがどういう性格を持っているのか、篤姫は次第に疑問を感じていた。それはおじの斉淋や西郷吉之助たちから聞いた話とは大分趣が違っていたからである。なぜそう考えたかといえば、篤姫はさらに一歩掘り込んで、
「徳川幕府とは何なのだろうか」
ということにしきりに頭をめぐらせていたからである。篤姫の江戸城内での経験からすると、
●徳川幕府というのは徳川家の政府であって日本国全体の政府ではない
●徳川家も、一個の大名であって天領という収入源を持っている。これは全国に散在している
●したがって、幕府というのはその徳川家の天領から得る収入によって経営される政府であって、決して日本国民全体に対してどうとか、また大名の管理する各藩の行政について細かい指示をするような機関ではない
●早くいえば、幕府は徳川家の権威と安泰のために設けられた機関であって、今の言葉を使えば徳川モンロー主義を実現するための政府である
●その幕府で起用される大名・旗本たちは、現職のまま役割を果たす。老中とか大目付とかいっても、それぞれ領地を持つ藩主(大名)であって、幕府の要職に就いたときに藩主の座を去るわけではない。
●したがって、その老中たちが相談して展開する国政の大部分が、それぞれの老中が藩主として成功させた善政を持ち込んでいる。いわば、各地の藩政のよいところが幕府政治となっている
●そのため藩主たちは仕事に身が入らない。それは藩のことが気にかかるからだ。また老中その他幕府の要職についても、べつに高額な手当が出るわけではない。むしろ、幕府の仕事を行うためには薄から送金してもらわなければならない。勢い、各藩の家臣たちは藩主が幕府の要職に就くことを嫌っている
 こんな要素を並べたててみると、篤姫は自分が斉彬から課された使命に次第に自信がなくなってきた。
▲UP

■大奥の厳しい現実

<本文から>
  篤姫はしみじみとそう思った。ところがそういう事情を知っているのかいないのか、三田の薩摩藩邸からは幾島を通して西郷吉之助がしきりに篤姫の政治工作を督促した。安政五(一八五八)年に年が替わると、篤姫は思い切ってまたおじさまの島津斉彬に手紙を書いた。斉彬はちょうど参勤が終わって交代し、鹿児島に戻っていた。篤姫はとりあえず自分の考えを書き幾島に託して薩摩藩邸に届けさせた。内容は次のようなものであった。
●大奥の空気は、圧倒的に紀州慶福様期待の声で満ちていること
●これは、八代将軍吉宗様以来の伝統で、大奥内には″親紀州″の空気が強いこと
●この空気は、第十一代将軍家斉様の時に沸騰点に達していたこと。家斉様も一橋家の出身であり、紀州派であったこと
●現在、大奥内での女性たちが口にするご継嗣は、紀州慶福様と一橋慶喜棟のお二人であること
●しかし、圧倒的に慶福様の評判がよく、慶喜様はむしろ嫌われていること
●慶喜様も一橋家の当主でおありだが、もともとは水戸徳川家の出身であることが禍していること。大奥ではとくに前水戸藩主徳川斉昭様に対する反感が強いこと。そのために、慶喜様もそのしぶきを受けて同じように見られていること
●表(幕府)のほうでも、去年阿部正弘様がお亡くなりになったあとは、溜問詰めの大名方の勢いが増し、特に彦根藩主井伊直弼様の勢いが急激に高まっていること。噂では、近々井伊様は大老にご就任になるという噂があること
●紀州藩家老水野忠央様が、その井伊様とこの大奥への工作をしきりに行い、それが相当な効果を上げていること。
●したがって、今の江戸城では表も奥も「次の上棟は紀州慶福様だ」ということにほほ固まりつつあること
●わたくしの夫である家定様も、積極的に慶喜様を歓迎してはおられないこと。それは御母堂の本寿院様や年寄の歌橋をはじめ、大奥の実力派年寄の意見がすべて「慶福様歓迎」でまとまっていること
 実情を率直に書いた。そして最後に、
 「このような状況を、非力なわたくしが一人で覆すことなど到底不可能でございます。おじさまのご期待に沿えないことを重々申し訳なく存じますが、事実をありのままにご報告いたします」
  と締め括った。書き終わって篤姫はほっとした。いままでもやもやと頭の一角に根雪のようなものがあって、一日二十四時間のうち、始終それがこびりついていた。しかし全部正直に書き連ねたことによって、その根雪も解けた思いがした。
▲UP

■家定への献身的な看病た

<本文から>
 大奥の女性たちははじめから紀州慶福を歓迎していたから、これら一連の行事には裏方として積極的に協力した。その総指揮を執ったのが篤姫だ。今の篤姫は大奥内で絶大の信頼と尊敬の念を得ていた。いままで「御台所は一橋慶喜様を次の将軍になさるために、大奥工作のために江戸城に入られたのだ」
 という噂はかなり広まっていた。しかし篤姫の日常の言行には片鱗もそんな色はない。むしろ篤姫は大奥の世論によく耳を傾け、またそれを是とする節があった。意地の悪い者は、
 「あれはネコをかぶっているのだ。本心は一構派だ」
と疑う者もいたが、その疑いも今は完全に消えている。
 「御台所は、本心から徳川家の一員になろうと努力なさっている」
ということが、今大奥にいる全女性の認識であった。
 家定が死ぬ直前の篤姫の献身的な看病は、多くの者が見、また聞いていた。意地の悪い女性もいないわけではない。針小棒大に、事柄を誇大に広めていくデマ製造者もいる。あるいは、火のないところに煙を立てるのが好きなものもいる。それが大奥だ。しかし今、表のほうが日本大騒動であり、そのしぶきが大奥にもしばしば飛んでくるので、全女性が緊張していた。そうなると、不安感が湧いてくる。その不安の抑え手として、篤姫は太い柱のような存在になっていた。つかまり甲斐がある。頼り甲斐がある。みんなそう思っていた。そしてこんな話が流れていた。それは、家定が死ぬ直前、看病の女性たちが疲れ果て、家定が小康を得たときにみんなうとうとと寝入ってしまった。篤姫も家定の床の脇でコクリコクリと舟をこいでいた。老女の幾島や歌橋も同じような状況だった。そのとき、
 「篤、篤」
と篤姫の名を呼ぶ声がした。はっとして篤姫が目を覚ますと、床の中から家定が微笑んでいた。
 「あ、これは」
篤姫が思わず恥じて姿勢を正すと家定は微笑みながら首をゆるく枕の上で振った。そして、
 「篤、話がある」
と言った。篤と名を呼ぶのは珍しい。
 「何でございましょうか」
  篤姫が開くと、家定は声を低めてこう聞いた。
 「あの世へ行ったら、わしは地獄へ行くのだろうか、それとも極楽へ行けるのだろうか」
 「もちろん、上様は極楽へお出でになりますよ」
 「そうかな」
 家定は自信がなさそうな顔をした。しかし篤姫が目を輝かせてそう告げるのでやがてにこりと笑って大きくうなずいた。
 「篤がそう言うのなら、わしは間違いなく極楽へ行けるのだな。それは嬉しい」
 そう言って家定はさらにこう告げた。
 「篤、極楽へ行けたら蓮の花の咲く他のほとりでわしは待っている」
 「え」
 家定の話が読めないので篤姫は傍らへ顔を寄せて聞き返した。家定は続けた。
 「極楽の他のほとりで篤を待っている。たのむ、なるべく早く来てほしい」
 「まあ、上様」
 篤姫は突然胸が熱くなった。眼に涙が溢れた。篤姫は心の底から、
 (上様は、ほんとうに心の清いお方なのだ)
と思った。今までこの夫に対して全く不満がなかったとは言わない。やはり城中で噂するような面が決してないわけではない。しかしそういう不満や物足りなさを超えて、篤姫は家定の人間性に共感していた。家定はおそらく子供のままの心で大人になってしまったのに違いない。だから、精神や肉体の一部に不整合なところがあるのだ。それが宿命で将軍になどなってしまったから、どんな不整合でも無理をして保っていかなければならない。これが江戸市中の庶民の家に生まれたのなら、そんなことは何でもなく、また家定ものびのびと生きていられたに違いない。それができなかった。そう思うと篤姫は家定が気の毒でならない。つまり、
「場違いなお方が、場違いの場所で無理して生きておいでになる」
という気がしたからである。そんなことを言うと家定には悪いが、あるいは家定もあの世の極楽で暮らしたほうが幸福かもしれない。その家定が無心に言う。
 「極楽の蓮の花の咲く池のほとりで待っているから、早く来てほしい」
この言葉を聞いた瞬間、篤姫はすぐにも家定の後を追いたいと思った。篤姫もプレッシャーだらけの大奥で、日々が決して幸福ではない。緊張の連続だ。張りに張った糸が今にも切れそうな思いをしたことも何度もある。あるいは、山の上の一本松として強い風当たりに耐えることが我慢できなくなったこともある。しかし不思議なことに、そういうつらい思いをしているときの篤姫を支えていたのが、実は虚弱な家定だったのである。おそらく家定のほうも篤姫のそういう気持ちをよく知っていたのではないだろうか。いってみれば、
 「不幸な者同士がそっと寄り添う魂の合体」
 がこの江戸城中で行われていたのである。
▲UP

■和宮を支えた天璋院(篤姫)

<本文から>
 「いったん嫁いだ以上は、徳川家の人間になる」
 という意思表明をしたのである。この和宮の態度は大奥の女性たちを感動させた。先に天璋院の例を見、今度和宮の生き様を見て、大奥の女性たちも天璋院と和宮の二人には、素直に頭を下げた。家茂の遺体は九月六日江戸に帰ってきた。二十三日に葬儀が行われた。芝(東京都港区)の増上寺に葬られた。家茂の院号は「昭徳院殿」である。現在は、和宮の墓も増上寺の家茂の隣に設けられている。和宮は尼になったのち「静寛院」というようになった。天璋院の家定との暮らしが一年余であったが、和宮の場合も四年あまりであった。やはり幕末の、
 「政略結婚の典型的な例」
といえる。しかしそれでは二人とも不幸だったか、といえば必ずしもそうではない。天璋院は天璋院なりに幸福の道をみずから開いたし、和宮も天埠院たちの励ましによって孤独な自分の場を、家茂とともに幸福な場に切り替えることができたのである。家茂の遺体には一巻の西陣織が添えられていた。明らかに家茂が京都で買い求めた和宮への土産だ。和宮はその西陣織を胸に抱いて泣いた。そんな姿を天璋院は胸を湿らせながら見守った。しかし和宮の不幸はそれだけでは終わらなかった。和宮が尼になったのは十二月九日のことだったが、それから十数日後の十二月二十五日、
 「孝明天皇崩御」
の報がもたらされた。孝明天皇は十二月中旬から痘瘡にかかった。医師たちの必死の看病によって一時病状は軽くなった。ところが突然十二月の上旬になって悪化した。そして二十五日に血を吐いて亡くなった。三十六歳である。御所内ではかなり毒殺説が流れた。そしてその犯人として岩倉具祝があげられた。しかしこれはうがち過ぎだ。当時の孝明天皇は義弟にあたる将軍家茂を愛し、和宮を降嫁させたことをむしろよろこんでいた。孝明天皇は確かに攘夷論者ではあったが、決して討幕論者ではない。
「公武一体となって、撲夷を実行すべきである」
といって、将軍や幕府をむしろ攘夷実行の協力者としてみていた。とくに孝明天皇の心を和らげたのは家茂の人柄だ。上洛するたびにやさしく小御所で天皇に謁見し、純粋な言葉をもって国情を語る家茂に孝明天皇は深い好感を持っていた。
▲UP

■尼将軍が江戸を救う

<本文から>
 この状況下にあって、天璋院と和宮はそれぞれ新政府軍の責任者に手紙を書いた。それは、
●旧将軍徳川慶喜は自分の罪を自覚し、今は江戸城で謹慎している
●江戸には百万の罪のない市民がいる。どうか、慶喜恭順の真意を汲んで、江戸域攻撃を中止してほしい
●江戸百万の民を救ってほしい
 という内容である。当時江戸城内の表にはほとんど責任者がいなかった。老中たちは分散し、板倉勝静などは榎本武揚の幕府艦隊の船に乗りこんで箱館のほうへ行ってしまった。あくまでも抗戦の気持ちを捨てていない。残った主戦論者は慶喜が退けた。いきおい、表で終戦処理を行う立場に立たされたのが勝海舟である。海舟は名目上「陸軍奉行」のポストに就いて、終戦処理を行った。そして、天璋院と和宮を擁していることを盾にとって、西郷吉之助にかれもまた手紙を書いた。やや脅し文句が連ねられている。つまり、
 「和宮がどうなっても知らないぞ」
という意味の文章だ。西郷は怒った。
 「和宮がおられようとおられまいと、江戸を炎上させ、慶喜の首を宙に飛ばさなければ気がすまぬ」
と息巻いた。そしてこのことをイギリス公使のパークスに通告し、
「江戸城攻撃の際に出た死傷者を、一時収容するために、貴国の病院をお貸し願いたい」
と申し入れた。パークスは怒った。
「なにをバカな!恭順している旧将軍に対し、さらに攻撃を仕掛けるとは人道に反する」
と使者を怒鳴りつけた。報告を開いた西郷は考えこんだ。やがて勝海舟の代理として山岡鉄太郎が
「朝敵徳川慶喜の臣山岡鉄太郎、まかり通る!」
 と度肝をぬくような大声をあげながら、馬を飛ばして駿府(静岡市)にまで進んできた征東総督本陣に駆けこんだ。ここで勝の書状を見せて、西郷と交渉した。のちに、
 「江戸を救った会談」
として、三田薩摩藩邸における西郷吉之助と勝海舟の会談が有名になるが、その実質的な交渉はすでに駿府ですんでいた。西郷・勝の会談の内容は、ほとんど西郷・山岡会談の引き写しである。しかし新政府軍は西郷吉之助が総参謀であったけれど、総督は有栖川官職仁親王だ。かつての和宮の許婚者である。また東山道軍の総督は岩倉具祝の息子で、この総督にも和宮は手紙を書いた。だからこのときの下工作は、天璋院と和宮の大奮闘によって土台が築かれたといっていい。とくに天璋院は、表で役に立ち、頼りになるような男子高級役人がほとんどいなくなっていたから、文字通り、
 「江戸域の尼将軍」
として総指揮を執った。だいたい、日本の歴史を見ていても女性が戦争を起こしたためしはない。いつも男性が起こす。その度に女性は犠牲者になる。したがって女性の、
 「平和に対する希求心」
は切実なものであって、悲願といっていい。江戸最後の日における天璋院の活躍もこの″平和祈願″の表れだ。それが男のいなくなった江戸城で、尼将軍としてフルにその力が発揮されたのである。
 西郷が息巻いていた江戸城総攻撃は中止された。西郷自身が気持ちを変えたからだ。江戸城が開域されると、天埠院は一構家の屋敷に移った。新政府は、
●徳川本家は田安亀之助に相続させる
●徳川家には新たに駿府(静岡市)において七十万石を与える
と告げた。いわば、徳川家康が大名だったころの領土に戻したということだろう。しかし徳川本家を継いだ田安亀之助はこのときまだ五歳だ。すすんで、
 「亀之助の養育にあたりましょう」
と身を乗り出したのが天埠院だった。田安亀之助も実の母親のように天埠院を慕った。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ