童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末に散った男たちの行動学

■周布は死んだことにして将来に生かした

<本文から>
「周布を殺す?」
「いや、殺すのではない。死なせるのだ」
 浦はそういった。みんなにはわからない。
「殺すのではなく、死なせるというのはどういうことだ?」
 首脳たちは詰め寄った。浦はこう応じた。
「周布に名前を変えさせるのだ」
「うむ?」
 他の首脳にはまだわからない。浦は説明した。
「土佐藩に対して、周布は突然死んだことにする。そして周布に名前を変えさせ、しばら く謹慎させる」
「なるほど」
 浦は苦労人だ。みんなようやく理解した。つまり、
・土佐藩に対しては、原因はよくわからないが、周布は突然死んだと報告する
・しかし周布政之助を現実を殺すわけでばなく、かれに改姓させてしばらく謹慎の上、ころあいをみてふたたび仕事をさせる
 ということである。全員、「そうしよう」ということになった。
 たとえ酒グセが悪くても、周布政之助はやはりみんなに愛されていた。幸福者であった。
「あいつは酒グセは悪いが、いまの長州藩には非常に役に立つ。かれの生命を温存させておいて、もう一度、再活用する時が必ずくる」
という思いは、浦だけでなく他の首脳にもあった。
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■酒の中毒が原因

<本文から>
 そして、冷や汗びっしょりになった自身の身体を気味悪く見ながら、周布は思う。
(今日もまた、峠を越えることができなかった)
一体いつになったら峠を越えることができるのだろう。あるいは、永遠に越えることはでさないのか。それがおれに課された天の命であり、宿命なのか。
 ここのところ周布政之助は、そんなことばかり考えている。特に山内容堂を面罵して、麻田公輔と名を変えてからが著しい。
 (名など変えるのではなかった)
 いま後悔していた。しかし、名を変えなければ山内側からの追及が厳しく、腹を切らなければならない。
 そんな事能に立ちいたったのも、すべて酒が原因だ。酒が悪いというよりも、飲みすぎが原因だ。同時に周布自身、酒乱の気味がある。中毒になっていた。
 いまが完全にそうだった。じっとしていればいるほど、心の小鬼が疑り深い目をいよいよ大きくして、周布をとがめる。
「あんたがほんとうに怒っているのは高杉さんなのか?」
 小鬼ははっきりロに出していった。周布は小鬼に答えた。
「そうだ」
「おれは違うと思うけどね」
 小鬼は憎らしい口調でいう。周布は目をむいた。
「では、おれが怒っている相手は誰だ?」
「あんた自身さ」
 さかしらに小鬼は答えた。
「おれ自身?」
 周布はききかえした。小鬼はうなずく。そして目をさらに大きくした。
「とぼけちゃいけないよ。自分でもわかっているくせに」
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■禁門の変の後に自殺

<本文から>
 松陰門下の過激派は、尊皇攘夷を唱え、実行した。そしてそのさらに激派が、やがて禁門の変を起こす。文久三年八月十八日の政変で、京都からたたき出された長州藩が、雪冤のために大挙して軍事行動を起こす。高杉晋作は反対した。
「そんないい加減な進発はウハ(いつわり)の進発だ。本当の進発は、もっと時期を見なければだめだ」
と主張した。長州藩の軽挙妄動を戒めたのである。しかし激派はきかなかった。ぞくぞくと武装して京都に進んでいった。この時、周布政之助も反対した。高杉晋作とまったく同調した。そのため、
「周布さんは卑怯者だ」
とののしられた。
 京都に突入した長州軍は、さんざんに敗れた。近代兵器で武装した薩摩藩軍にもろくも敗れたのである。敗兵が、ぼろぼろになって長州に戻ってきた。
 このありさまを見て、周布政之助はまたもや考えこんだ。かれの目はうつろになり、じっとうつむいたまま幾日も送っていた。このころかれは、吉富藤兵衝という豪農の家に寄宿していた。
 元治元年(一八六四)九月二十六日、周布政之助は突然、夢遊病者のように藤兵衝の家の裏手にある畑の中に歩いていった。
「周布さま」
 驚いた藤兵衡が、後ろから声をかけた。しかし周布は立ち止まらなかった。やがて、畑の中にどっかと腰をおろすと、そこに座りこんだ。やがて、
「うっ」 
 という、うめき声が飛んできた。藤兵衡が驚いて走り寄ると、周布政之助は前へ突っ伏していた。首からおびただしい血が流れていた。息が絶えていた。
 周布政之助は、腹を切ったのではなかった。脇差で、自分の喉を切って生命を断ったのである。当時の武士としては、めずらしい自殺の方法であった。吉富藤兵衝は茫然として立ちつくした。
 死ぬ時に、周布政之助に持ち前の下降感覚が訪れたかどうかはわからない。しかし、かれはすでに自分自身に絶望していたのである。つまり、
「シラフの時の自分」と「酔った時の自分」
 の、どっちが本当の自分なのか、見極めがつかなくなっていた。この整合に疲れて、かれはついにみずから命を断ったのだ。四十二歳であった。
▲UP

■以蔵は"使い捨て"人間と扱われた

<本文から>
 維新最大の殺人である新撰組の池田屋事件でも、殺されたのは七人だ。集まっていたのは四十人前後で、捕まったのが二十人余りだ。
 ところで、彦斎のような思想性のない以蔵は窮した。武市のところへ行ってもかまってくれない。
 「うるさい。あまり、ここへくるな」
 と追いとばされる。まさに野良犬の扱いになってきていた。武市は時代の流れに敏感だ。もともと思想を一にした仲ではないから、いつならば、以蔵など"使い捨て"人間だ。
 しかし、この使い捨て人間は、ヘドロにひそむ重金属か、産業廃棄物のように頑強だ。自然の循環の法則にしたがって身を処する、ということは全くない。むしろ、埋めても腐らない式に自然のサイクルを乱す。
 正直にいって、武市にとって以蔵は邪魔な存在になってきた。
 土佐の藩政が吉田東洋の甥である後藤象二郎によってとりしきられていることはすでに書いた。後藤は執拗である。下層階級の台頭をたたきつぶすためにも、叔父東洋の仇を討つためにも、武市一派への追及の手をゆるめない。しきりに密偵を放っては証拠集めに力をそそぐ。いずれは武市一派を捕らえて処断するつもりである。
 この密偵のひとりを以蔵が殺した。失われた武市の信頼をとりもどすための行為であったが、武市にすれば逆だ。罪がさらにふえるようなものだ。
「以蔵をこのままにしておくと危険だ」
武市はいよいよそう思いはじめた。
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■自己変革の変化が理解できない歴史

<本文から>
 資料で探索された赤根忠右衛門の死は、あまり輝かしいものではなかった。娘がいたらしい。しかし、この娘も薄倖で、半分やくざのような職人と同棲している。ヒモを養なうような生活ぶりだ。その死も貧しい暮らしの中でのことであったようだ。
「これをどう武人に投影するか……」
 弱った。
 それにしても、こっちが「何げなく……」いったことが、数年の時をへて、突然、よみがえるということは、「歴史を見る眼」のウロコを改めて落としてくれる。つまり、それは、
 「歴史的事件が起こったとき、その事件は必ずしも、その時点での原因が原因になっていない」
 ということである。
たとえば、有名な、「坂本龍馬の暗殺」にしても、暗殺者側がもし定説化されている幕府見廻組だとしたら、かれらが龍馬を殺そうとした理由は、
「攘夷派志士としての龍馬」
 である。が、龍馬はこのころ開国派で、大政奉還派だ。幕府内要人が選択した路線の協力者であり、推進者だ。
 つまり、龍馬は文応三年(十八六七)十一月十五日という"暗殺の時点"のかれが殺されたのではなく、はるか前の、攘夷派志士であったころが原因となって殺されたのだ。このことは、
「こっちが忘れたことを、他人の中には決して忘れない人間もいる」
 ということを示している。しつこいとか何とかの次元ではない。ここに″自己変革″のむずかしきがある。
「変わった自分を、他人にどう説明し、納得させるのか」
 それが不十分だと、他人には″変わったその人″の変化が理解できない。だから、自分では変わったと思い、過去をふりきろうとしても、未知の他人の間には、その人の″古い言行″を、きちんと、そしていつまでもおぼえている人間が沢山いる。
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■原は″主権者は徳川慶喜である″と再認識させようとした

<本文から>
 原市之進が徳川慶喜に托し、幕末社会に実現しようとしたことは、実をいうと「主権存武家」の理念であったと思う。即ち、
「日本の政府は徳川幕府である」
 ということと、
「主権者は徳川慶喜である」
 ということの天下への声明であった。源頼朝以来の「政権の武家への委任」を再確認し、さらに「委任ではなく固有のもの」とすることに原の目的があった。
 こういう武家主権論は徳川家康が金地院崇伝や林羅山などの力を借りて、徹底的にレールを敷いたことだが、原はもういちどこれを実行しようとした。
 天皇を中心に、いわゆる志士と称する浪士群が、薩長という「関ケ原の敗残藩」を主軸にする新政体構想を実現しようとすることは、原にとってはとうてい容認できるものではなかった。しょせん
「薩長は天下をとりたいだけだ」
と、″国盗り″″日本盗り″の欲望を実現するだけだ、と思い込んでいた。だから−原には天皇個人はともかく、天皇を政治とのかかわりにおいてとらえる発想はない。この点、幕府の主戦論者小栗上野介とよく似ている。小栗もまた、
「天皇・公卿は禁中諸法度によって、そのなすべきことは学問と芸能かぎられている。政治のことにロを出すな」
 と揚言している。
 原は論理的な策士である。武市半平太のように岡田以蔵をつかって、
 「耶魔者は殺せ」
 というような暗殺戦術はとらない。あくまでも
 「日本の主権者は徳川慶喜でかる」
 ということを日本の内外に知らせようとした。
 幕末維新の抗争は、この、
 「主権の争奪戦」
 であることは事実だ。それが結局は内乱になり、洋式武器を持った薩長と、バスに乗りおくれまいとした土佐や佐賀などを主軸とする西軍が勝っただけの話だ。
▲UP

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