童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          幕末人間学・サムライ講座

■近藤勇と桂小五郎との友情話

<本文から>
 近藤勇が桂小五郎に″目こぼしりをした、というのは、こういうことである。
 江戸で試衛館という五流道場を開いていた近藤は、しばしば道場破りに襲われた。えらく強い奴がきて、まごまごしていると一門が皆負けてしまう。そこで近藤は、近くの九段にあった斉藤弥九郎の道場に応接を頼んだ。
 やってくるのが桂や大村藩の渡辺昇だった。ふたりとも斉藤道場の塾頭だったから強い。道場破りを叩きのめす。近藤は桂や池辺に感謝し、恩を感じる。そこで京都に入って、新撰組の局長になった後も、隊士たちに、「桂さんや渡辺さんには、絶村に手を出すな」と命じたのだ。
 緊迫した幕末の状況の中にも、こういうおおらかさがあった。いい意味での″男の世界″あるいは敵味方を超えた”男の友情”が存在した。

■『櫻鳴館遺草』が西郷を変えた

<本文から>
 「これを読みなさい。考えが変わるはずだ」
そう言った。西郷が見ると『櫻鳴館遺草』と書かれている。書いたのは細川平洲という学者だ。
「何の本です?」
聞き返す西郷に川口は、
「まあ、読んでみなさい」
と言った。読み始めて、西郷は本に惹きつけられた。あの大きな目を、さらに大きく見開いて、夜も寝ないで読みふけった。『櫻鳴館遺草』には、
「治者は、民の父母でなければならない」
と書かれてあった。西郷は大悟した。そして、自分の頭をがんがん叩いた。
「俺は今まで何というバカだったのだ?亡くなった斉彬様がよく俺に注意した。おまえはいつまでも薩摩という小さな井の小の蛙だと。海を前にしている薩摩に生まれながら、なぜもっと海の彼方を見ないのだ?と言われたことが、今初めてわかった。生まれ変わろう」
西郷は生まれ変わった。彼は明治維新後、明治政府の高官になっても、絶村にワイロは受け取らなかったし、また給料は全額後輩の前に投げ出した。自身は、依然して昔と同じょうに貧しい生活を続けていた。
 「子孫のために、美田を買わない」
と言った西郷の言葉は有名である。一冊の本が西郷を変えたのだ。

■勝の幕府を倒して共和政治を話しを西郷に行う

<本文から>
 勝は調子に乗って、アメリカでの共和政治の話をした。そして、
「日本でも一日も早く共和政治を実現するべきです。それには、徳川幕府はもうだめです。あなたがた雄藩が力を蓄えて、幕府を倒してください。そして共和連合政権をお作りください」
と言った。西郷は大目玉を見張ってびつくりした。
(仮にも、軍艦奉行という幕府の高官が、こんなに幕府の最高秘密を漏らしていいのか?)
と思ったからである。
 勝が言っているのは、今まで実現してきたような、
●徳川幕府が主軸になって、一部に外様大名を加える連合政権
●京都の公家と譜代大名
●外様大名が一緒になって作る連合政権
 というようなものではない。勝が言うのは明らかに、
「徳川幕府に関わりを持つような大名家は全部排除して、外様大名だけで政権を構成するべきだ」
ということである。勝が言った共和政権の中には、おそらく朝廷の存在はなかっただろう。結果として明治維新は、「王政復古」を実現する。これは、同じ共和政権を頭の中に描きつつも、例えば坂本龍馬のような人物は、
「共和政権と言っても、国民の気持ちを縛る思想がなければだめだ。共和国家であるアメリカやイギリスやフランスには、キリスト教がある。日本は多神多仏教で、そういう一神教が存在しない。かといって、キリスト教を導入するわけにはいかない。そこで、日本の古来から万世一系を誇ってきた皇室を活用する以外ない。すなわち、天皇頂点にいただいた共和政府を作るべきだ」
と主張していた。これが採用された。

■西郷は細井平洲の書いた『櫻鳴館遺草』に影響

<本文から>
 <虫よ虫よ 五ふし草の 根を絶やすな 絶てば 共に己も枯れなん>
 汚職役人よ、稲の根まで枯らすな。枯らせばお前も一緒に兆んでしまうぞ、という意味である。この歌を改めて思い出した。それが細井平洲の書いた『櫻鳴館遺草』と結びついた。西郷の脳裏には、これをテキストにしながら、住民愛に燃えて、改革を推進していった上杉鷹山の姿が浮かんだ。
 「俺も、民を変する政治家になろう」と思った。そして、自分の能力が充分に展開できるのは、やはり共和政権以外ないと信じた。そのためには、場合によってはイヌとサルの仲になっている長州藩とも、手を結ばなければならない。
 「今長州藩に恩を売っておくことが必安だ。それでなくても、薩摩藩は散々に長州藩を叩きのめしたのだから、薩摩藩を憎んでいる。特に、銃撃隊の指揮をした俺を憎んでいる」
 西郷が沖永良部由で『櫻鳴館遺草』を読んでつくづく感じたことは、「常に民心を大切にしなければならない」ということであった。平洲が言うように、「治者は民の父母でなければならない」といっても、子どもの気持ちがどんなものであるかを知らなければ、親は何をしていいかわからない。特に、子どもの心が離れてしまうことを最も警戒すべきだ。政治は政治家だけで行えるものではない。

■阿部の挙国連合政権を最後の将軍らが実現

<本文から>
  東国の武人である近藤には、大久保の解説もよくわからなかった。
「考えてみれば、これは十数年前に、亡くなられた阿部正弘様がお考えになった挙国連合政権を、もう少し違った形で蘇らせるということではありませんかな」
 永井尚志がそう言ったじ この発言で座にいた人々には、大政を奉還した最後の将軍徳川塵喜のもくろみが、いよいよはっきりしてきた。その実態が見え始めてきたのである。
 というのは、今ここに集まっている連中は、すべて阿部正弘によって発見され、登用された人物ばかりだ。同時に阿部が死んだ後、大老丼伊直弼の有名な”安政の大獄″によって、処断された連中でもあった。それが今、こうして幕府の重いポストを占め、集まって最後の将軍徳川慶喜の大政奉還について論じていた。思いは深い。だから、永井が、
「おそらく上様が胸の中に秘めておられる挙国連合政権構想は、阿部殿がお考えになったものが、いまだに地下水脈として流れ続けていたのではなかろうか」
 というのは、ある面で当たっていた。慶喜もまた、井伊によって追放された一人であったからである。だから見方によっては、今度の大政奉還は、阿部が昔考えた 「挙国連合政権」を十数年後に実現したということにもなる。そしてその実現者はすべて井伊の安政の大獄によって罰を受けた連中だといえる。

■討幕の歌、旗、密勅を用意する岩倉ら

<本文から>
 「それだけではありません。品川さんはすでに軍歌まで用意していますよ」
「軍歌?」
岩倉は驚いて品川の顔を見た。品川はうなずいた。
 品川は目を宙に上げると、笑みをたたえたまま″討幕の歌”を歌い山した。
《宮様 宮様 お馬の前に びらびらするのは 何じゃいな ありやあ 朝敵成敗せよとの錦の御旗じゃ 知らぬか》
 聞いてみんなは目を見張った。玉松操も、「これは驚いた」と声をたてた。しかしうれしそうな声だつた。岩倉具視が言った。
「ますます呆れた。本気で江戸城を攻める気か?」
「そうしなければ、この国は治まりますまい。陸援隊長中岡慎太郎もそう思っております。日本人は一度血を見なければ気持ちがきちつと引き締まらないと」
「いよいよ国内戦争か」
 岩倉は思いを深めてつぶやいた。顔を上げると、品川に言った。
「おもしろい歌だが、長州弁丸出しで少し語呂の切れが悪い。直せ。長州弁では、何を言っているかという動詞によく”ちょる”という言葉を入れる。その歌も何をやっちょるかという調子だ」
 品川にはよくわからなかった。
「こうしたらどうだ」
岩倉は暗記した文句を、思い出しながら言った。
「びらびらはひらひらにしろよ。ありやあというのも田舎臭い。あれはでいいではないか。知らぬかというのはまるっきり武士言葉が丸出しだ。知らないかの方が素直でいい」
 品川も頭がいいから岩倉の言うことをすぐ理解した。歌詞を改めて歌った。
<宮さん 宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな あれは 朝廷征代せよとの錦の御旗じゃ 知らないか>
「それでいい!」
 岩倉が手を打った。皆歌い出した。大合唱が始まった。江戸城を攻め落としたような気分だった。歌声は岩倉の里の深夜の静寂を破った。策士たちは快く酔い、声を張り上げた。ひとしきり歌いまくつて堪能すると、みんな顔を見合わせて大笑いした。満足だった。この時、玉松操が岩倉に言った。
「皆さんにあれをお見せしましょうか?」
「うむ。ぜひ見せろ」
 岩倉がうなずいた。奥へ入った玉松は、やがて一通の書状と華麗な旗を持って出てきた。皆は一斉に目を見張った。
「それは?」
「錦の御旗だ」
「にしきのみはた?」
 異口同音に聞き返した。岩倉はうなずいた。
「そうだ。官軍の旗だ」
「おう−」
 官軍の旗と聞いた策士たちはまた声を上げた。大久保は玉松の持っている書状に視線を向けて聞いた。
「玉松先生、それは?」
 玉松は静かに終えた。
「討幕の密勅です」
「討幕の密勅‥」
 座にいた者は唖然とした。岩倉が笑いながらつけ加えた。「長州藩主と薩摩藩主に渡す。慶喜の思いどおりにさせてたまるか」
 皆は思わずゾクッとして岩倉を見た。そしてこの公家の智諜は自分たちより、一回りも二回りも上だと感じた。

■慶喜の大政奉還の思惑に対して岩倉らが王政復古の大号令で巻き返した

<本文から>
  慶応三年十月十四日に、大政を奉還した最後の将軍徳川慶喜には一つのもくろみがあった。それは彼と彼の側近たちで密議を重ねた結果、
「大政を朝廷に返しても、七百年近く政治の座から遠ざかっていた御所の連中には、国政などとても行えない。しばらくの間今までどおり政治を行ってほしいと言ってくるに違いない。そうなったら、大名たちを統御して、新しい形で武士政権を確立しよう」
ということであった。
 このもくろみは当たった。慶書から政権を返上されたものの、京都御所には国政を自信を持って行える公家がいなかった。薩摩藩や土佐藩にしても藩政の経験はあっても国政の経験はない。みんな尻込みした。会議を開いた結果、「当分の例、塵喜に政務を委任しょう」ということになった。
 そして朝廷は、「全国の大名を京都に呼び嫉めて今後の方針を相談してもらいたい」と命じた。慶喜はほくそ笑んだ。十月二十一日には、いったん出した薩摩・長州藩への討幕の密勅も、「実行をしばらく見合わせるように」という密命がとんだ。全国の大名にしても大政奉還が何を意味するのかよくわからなかった。
 大名たちの多くは、江戸幕府に、「我々はいったいどうしたらいいのでしょうか?」と照会した。せいぜい、京都付近の小さな大名家と尾張、越前、安芸、土佐、薩摩などの藩主が上京したぐらいのものである。
 一言でいえば、二百七十人近くいた大名のほとんどが形勢観望と日和っていたのである。これもまた慶喜の思惑のとおりであった。
 慶喜の威信は日を追って強まっていった。こうなると、何のための大政奉還だったのかわからない。結局は形を変えただけで、実質的には慶喜が依然として日本の国政を行うという結果になりつつあった。
 倒幕派の長州藩士桂小五郎などは、「徳川塵喜というのは恐るべき男だ。まるで徳川家康の再来だ。油断できない」と倒幕派の面々に警告を発した。そこで京都郊外の岩倉村で密議を練っていた岩倉具視のところに急使がとんだ。
 「かねてから計画中の案を、至急実行していただきたい」
討幕の実行を見合わせよと言われても、薩摩藩と長州藩はすでに数千の軍勢を京都に迫らせていた。薩摩藩は入京していたし長州軍は西宮まで来ていた。この事車力を背景に討幕派は一挙に慶喜への巻き返しを図ろうとしたのである。
  その案というのは、
 ●政体を天皇親政の組織に変える。
 ●そのために旧幕府の組織だけでなく朝廷の組織も全部廃止する。
 ●総裁、議定、参与の三職を設ける。
 ●総裁は有楢川宮(皇妹和宮の許婚者であった人)とし、議定や参与は、岩倉具視とその同志である公家と薩摩、尾張、越前、安芸、土佐の五藩王とする。
 ●これらをまとめて「王政復古の大号令」とする。
  というものであった。
 慶応三年十二月九日、岩倉村から岩倉具視が急きょ御所に参内した。事前に彼に村して赦免の勅命が出されていた。岩倉は小さな箱を携帯していた。そして和議が開かれた。この時彼は、持ってきた王政復古の大号令を披露し、「今後日本の国政はこの号令によって行う」と宣言した。

■もし孝明天皇が生きていたらクーデターは実現しなかったかも

<本文から>
 もし孝明天皇が生きておられたら、あるいは一連のこういうクーデターは実現しなかったかもしれない。孝明天出は妹の利宮を第十四代将軍徳川家茂の妻に与えていたので、あくまでも公武合体路線を守る気持ちが強かった。しかしその孝明天皇は慶応二年の暮れに急死していた。一時は毒殺の噂も飛んだ。しかもその犯人は、岩倉具視ではないかとも言われた。つまり孝明天皇がご生存であれば、絶対に徳川将軍家をここまで徹底的にいじめるようなことはしなかっただろうという推測から生まれた説である。
 当時、幕府の首脳部は二条城にいたがこの大号令の命令を受けて憤慨した。
「だまされた」という思いが強かった。特に近藤勇の率いる新撰組の連中は、「おのれ薩摩め!」と、薩摩藩の急旋回を裏切りと見て痛罵した。 

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