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<本文から> 「こういう状況下に置かれたとき、織田信長はどうしただとろうか、坂本龍馬はどうしただろうか」
というような考え方をするのだ。そしてその場合にも、織田信長がやったことや坂本龍馬がやったことはある程度知っているから
「彼ならこうしただろう」
と考える。それを作品化するときは、したがって現在の状況によく似た例を引きながら、
「織田信長はこうした、坂本龍馬はこうした」
と結論づける。ということは、すでにその問題に対しての結論が初めから用意されていて、その結論を際立たせるような歴史的事実を、過去の中から探し出すということだ。
普通、歴史物を書くときは、あらゆる資料をあさって、それを積み重ねて、いろいろ問題点を引き出しながら螺旋状に結論を導きだすようにしてゆく。つまり、
「こういう資料から推測すると、こういう結論が出る」
ということだ。これは主として学者先生たちが採っている方法である。そのために一級資料とかいろいろ過去の文書や、史跡を発掘されたりして考証の素材となる。
この二つのやり方の中で、筆者は自分のやり方を「帰納法」と思っている。一つの邪道である。つまり、初めから結論を用意して、それに見合う歴史的事実を探すのだから、他の歴史的事実は捨象されてします。本当はやってはいけないことなのだろう。しかし、歴史そのものをあらためて埃を払って現在という時代に引き出し、
「過去のこの事件は、あるいはこの人の言ったこおとは、こういうことであった」
というやり方をしていない。それよりも、いま起こっている現象と同じような例を歴史の中に発見して、
「いまのような状況から脱出するためには、過去の信長や龍馬はこういううまい方法を考えていた」
と牽強付会に結び付けるのだ。ちょっと、物を書くときの裏話になってしまったが、実はこのことが非常に十大な意味を持っている。 |
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