童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          南北朝の風雲 足利尊氏

■全国の地方武士の統率者に足利高氏の名があがる

<本文から>
天皇の叛乱は失敗したが、全国の地方武士に、そういう希望の火ダネをうえつけた。
 そして、それは地方武士だけでなく、各国の守護、地頭や、あるいは皇室、公家、寺社のいわゆる荘園の管理をまかされている役人たちの中にも反乱者を生んだ。
 元弘の変は、日本全国に反乱の火をつけたのであった。そして、その火が燃えひろがりはじめると、各地方の火は、
 「各地方の火をまとめて、もっと大きな火にしてくれる統率者」
 をもとめはじめた。
 その統率者の条件は、
○武士の地位をたかめてくれる人
○武士のもつ土地をふやしてくれる人
○名門の人
○すぐれた人
 などであった。こういう条件を、いま生きている武将の中に求めると、
 「あの人は、ここがすぐれているが、ここがダメだ」
 「あの人は、すばらしい人だが、生まれがいやしい」
 とかいろいろな評価がおこなわれ、そういう消しかたをしていくと、結局、残るのは、
 「源氏の嫡流」
 ということで、足利高氏と新田義貞という、二人の関東の武将におちつくのであった。が、多少、二人のことを知っている者は、
 「新田義貞殿は人間が小さい。そこへいくと足利高氏殿は器量が大きい。戦争に勝つと、褒美は全部部下にくれてしまい、自分は何ひとつとらないそうだ」
 といった。そしてそれは事実だった。高氏は欲がなかった。
 「あしかが・たかうじ」
の名は、皇室や公家や寺社の支配から脱し、自立したい地方武士たちの"希望の星"として、 次第にたかまっていった。
一それも高氏が住む東国だけでなく、中部地方にも、山陽、山陰地方にも、特に九州で大きな期待がかけられはじめた。
 足利高氏は、自身が反乱しないうちに、すでに、
「反乱者の盟主」
にまつりあげられていたのであった。しかも、その反乱の中身は、ただ北条氏に対してだけでなく、
 「武士を苦しめる一切の権力」
  に対するものを意味していた。
 このことが、その後の足利高氏を栄光と悲惨の両方の道を歩かせるのである。
■高氏と直義と師直の三人が争う原因は天皇を見捨てるか否か
天皇や公家のきらいな直義と師直は、
 「後醍醐帝の綸旨に従うのは、一時の方便ですぞ。天皇がとった天下は、その後、われわれがいただく。そしてそのときは容赦なく天皇や公家をみすてますぞ。
 足利家の祖先の願いはあくまでも武士の政府をつくることです」
 と高氏に念をおした。みていると、高氏はどことなく天皇に好意をもっているように思えるからだ。
 このことは、のちに、高氏と直義と師直の三人が、三様に別な道を歩き、血で血を洗うすさまじい闘争に発展する原因になって行く。反乱の動機が三人ともちがうのだ。しかし、
 「武士の政府をつくるのが目的で、そのためには天皇も捨てる」
ということでは、直義と師直は一致していた。それが、高氏のばあい、そこまで行っていなかった。
 そして、この後の建武の新政展開のときに、天皇に直接会うことのできた高氏は、逆に天皇の人柄に魅力を感じてしまう。そのため、それからの高氏の行動がひじょうに、あいまいで複雑になり、直義や師直たちに歯がゆい思いをさせる。その過程の中で、さらに直義と師直が争いはじめるのだが、そのことはそのときにくわしく書こう。

■後醍醐天皇は天皇を政治の中心にしたいと願いつけた名

<本文から>
 「私の名は尊治という。尊の一字をおまえに与えよう。今日から尊氏と改めるがよい」
 足利高氏に天皇はそういった。この天皇はひじょうに個性のつよい人で、ふつう○○天皇の○○は、"おくり名"といって、その天皇が亡くなったあとに、のこった者がつけるものだが、いま、足利高氏の前にいる天皇は、生きているうちから自分で、
 「後醍醐」
と名乗っていた。
 後醍醐というのは、のちの醍醐という意味で、むかし、醍醐という天皇がいた。藤原時代がはじまる直前の人で、紀元八九七年から九三〇年まで在位した。天皇親政最後の人で、後醍醐天皇は、いまから四百年も前のこの天皇をひじょうに尊敬していた。
 尊敬していただけでなく、心の中で、
 (私も醍醐天皇のようになりたい)
と、つよく思っていた。
 醍醐天皇のようになりたい、というのは、その天皇の個人的な人格に憧れるよりも、日本の政治をその天皇のときのような状態に戻したい、ということであった。
 醍醐天皇が亡くなったあと、日本の政治は藤原氏を中心とする貴族の手に移り、その後、貴族を倒した平家と源氏という武士の手に移り、さらに源氏の重臣だった執権北条氏の手に移った。
 そして、天皇は、形式的に重んじられるかぎりものにされてしまった。
 それが、今日、つまり元弘三年(一三三三)六月五日、四百年ぶりに政権が天皇の手に戻ってきたのだ。戻したのは、足利高氏、新田義貞、名和長年、楠木正成らの武士であった。
 それまで天皇は隠岐島に流されていたが、島を脱出して京都へ向かう途中、誰が誰と戦い、どういう手柄をたてたか、つぎつぎと都からくる使者の報告で、くわしく知っていた。
 報告を分析した結果、天皇は、
 (勲功の第一は足利高氏である)
 と考えた。
 足利高氏は、この戦いで鎌倉にある幕府の京都支社ともいうべき六波羅をほろぼし、ここにいた北条氏を駆逐した。
 しかし、天皇を苦しめた本当の敵、鎌倉の北条氏をほろぼしたのは新田義貞である。高氏とくらべて一体どっちが手柄が大きいだろう。
 また、はじめから天皇に忠節をつくし、天皇が流されている間も、わずかな兵で、北条軍と戦いつづけた楠木正成のほうが、高氏より大きな手柄を立てたのではないのか。さらに、隠岐から脱出した天皇を迎え、終始、天皇を守りつづけた名和長年はどうなのか。
 というのは、足利高氏はもともと天皇の忠臣ではなく、北条氏の姻族で、ずっと北条氏の重臣ナンバーワンだったからだ。だから、天皇が前回蜂起した正中の変では、足利高氏は天皇を攻め、楠木正成の城を攻撃した。そしてこれは新田義貞もおなじだった。

■廉子や文観や千種の贅沢等が建武の新政を崩した

<本文から>
そこへいくと、地方武士は廉子なんて知らない。ツテもない。馬鹿正直に申告するが、朝廷の役人は、ああ、ああ、とか、うん、うん、といっているだけで、とてもまじめにはうけつけない。どうせ、上部にあげても、評定の会議で、廉子が、
 「この者に、これこれの功績がある」
といいだせば、地方武士たちの申告した功績などあとまわしにされ、やがて忘れられてしまう。
 地方武士たちの不満はたかまり、すべて、足利尊氏のところに訴えにきた。尊氏は、武士たちのいうことを正確に理解してくれたからだ。
 廉子は、後醍醐天皇が隠岐に流されたときも、いっしょについて行って、千種忠顕とともに、島での不自由な天皇の生活を、何くれとなく助けた女であった。
 天皇が都に還ってからは、准后(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる名誉称号)になり、天皇の愛を一身に集めていた。だから、新政にもつぎつぎとロをはさんだ。
 そこへまた、硫黄島に流されていた文観が戻ってきた。もともと文観は、
 「北条氏討滅」
 を呪詛して流罪になったのだから、その北条氏がほろんだいま、この僧も凱旋者だった。天皇にとりなしをたのもうと、多くの人間が贈りものをもって日参した。
 文観の家の中は、たちまち財宝の山となり、文観は自分と財宝をまもるために、大勢の武士をやとい、イヌのようにこき使った。その数は、五、六百人にもなり、心ある武士たちは、
 「憎にイヌのように使われて、はずかしい」
 と怒った。文観だけではなかった。突然訪れた栄華は、人間に過去の苦労を忘れさせる。あれだけ辛酸をなめた千種忠顕も、公家の中での功績第一等となって、たくさんの恩賞をもらうと、毎晩毎晩、家で酒宴をひらいて、多くの客をよんだ。
 千種も実力者だったから、天皇への口ぞえをたのみたい連中が連日おしかけた。
 後醍醐天皇には後醍醐天皇の新政の理想があった。しかし、まわりに廉子や文観や千種のような連中がいて、ぜいたくをきわめれば、世の中は、
 「何だ、新政とはこういうものか」
 と思ってしまう。中心になる人がどんなにいい理想をもっていても、まわりの者が気をゆるめて、勝手なことをすれば、理想のほうは理解されずに、まわりの人間のおごりたかぶった生活だけが目立ってしまう。

■公家が退けた楠木正成の作戦を結局は行った

<本文から>
 何度も出たり入ったりした京の都である。尊氏軍は、湊川の大勝のあと、休憩したり、まごまごしたりはしなかった。尊氏や直義に命令されなくても、つぎに何をすべきかをちゃんと知っていた。
つぎにすべきことというのは、まっしぐらに京に入ることであった。五月二十五日に楠木正成を自決させ、新田義貞を敗走させると、尊氏軍の先鋒は、自分たちの判断でどんどん京都に追った。
 この年は、梅雨の状況がひどく、長雨と異常な寒気がつづいた。こういう気候が何をもたらすかを、東国武士の尊氏はよく知っていた。
 「冷害になる」
 という予測をしばしば直義と語った。
 尊氏が京に接近すると、京都朝廷は狼狽して京から逃げだした。後醍醐天皇をいただいて、公家が供をし、新田義貞が護衛した。比叡山の向こう側の東坂本に行在所を設けた。
 ということは、いまになって、結局、楠木正成のいうとおりにしたわけである。はじめからこの作戦をとり、尊氏軍を京に封じこめて、淀川川口を閉鎖し、ことしの冷害を利用して"兵糧攻め"にしたらどうだったろうか。尊氏は自分の軍勢の食糧だけを心配すればいいのではない。京に住む一般市民の食糧や生活用品の心配もしなければならない。占領軍司令官の当然の義務である。
 「冷害を利用すべきであった…」
 公家たちは、いまさらながらそういうことをいい合った。

■尊氏は天皇を好意を寄せていたのにの誤解の連続であった

<本文から>
  「一般の意見は京都にすべきだといっている」
  という答えを得ている。
 つまり建武式日の答えは、すべて″世論″に従う、いまでいえば民主的な方法をとっているのだ。このへんは尊氏のうまいところでもある。
 尊氏はこの答えを尊重して、
 「世論に従い、新しい幕府は京都におく」
 と宣言した。この宣言は天皇と、天皇と志をおなじくする公家たちには衝撃であった。
 尊氏にすれば、幕府を京都におく、ということで天皇との細い糸を、何とかしてつなぎとめておきたい、ということなのだが、天皇側からみれば、
 「あくまでも、われわれを監視するつもりだ」
 というようにとれる。そう考えると、いままでの幕府をひらいた武士の中でも、尊氏がいちばん強引な人間にみえる。天皇とその一派の間では、
 「源頼朝や北条氏よりも、もっと悪いやつ」
 ということになった。
 いきさつから、尊氏の考えは、逆に逆に、と、とられた。それはむりもなかった。尊氏自身が、考えていることとおこなっていることがまったく逆であったから。天皇側からみれば、いや、天皇側だけでなく、世の中の人々も、その人間の評価は、ほとんど行動できめる。形にあらわれたものできめる。おこないと全然別なことを考えています、と本人がいくらがんばっても、そんなことはわからない。
 足利尊氏の一生は、だから、本人にしてみれば"誤解"の連続であった。
 占領した京の都にどっかと腰をすえ、地方武士の利益をはかることを中心にした尊氏の幕府政治がはじまると、それは、天皇にとって、すべて建武の新政のぶちこわしであった。それも、毎日、毎日、これみよがしにおこなわれると、とてもがまんできなくなってきた。
 (楠木正成が生きていたら何と思うか)
 天皇はよくそう思った。いまの尊氏をみたら、さすがの正成も、もうかばわないだろうと思った。

■天皇は楠木正成のとおりに尊氏と和睦すべきと後悔する

<本文から>
 天皇は、尊氏の発言の中に、天皇への好意と深いかなしみをみた。改めて尊氏のそういう心を知った。
 生きていたころ、楠木正成は、よく、
 「義貞殿を捨てて、尊氏殿をお用い下さい」
 といった。
 (もし、そうしていたら)
 と、このごろは時々そう思うことがあった。地方武士の利益をまもるという考えは捨てないだろうが、尊氏は天皇に忠誠をつくしたにちがいない。
 それは、天皇の京都脱出のときの宣言にもあらわれている。天皇は、脱出するとき、
 「足利直義のやりかたが私の考えとちがうので」
 といっている。尊氏の名は出していない。天皇のきもちも微妙であり、複雑だった。こんな行きちがいがなければ、私と尊氏は、本当に仲のいい君臣としてくらせたかも知れない、と天皇は思うのであった。

■尊氏は兄弟息子と戦い苦しみながら死ぬ

<本文から>
 兄弟がばらばらに分かれたあと、調子が狂ったのは、尊氏だけでなく直義も同じであった。尊氏に役職を罷免された直義は、しばらくの間は出家してじっとしていた。
 が、このころ、尊氏の子として生まれながら、尊氏に愛されずに捨てられた直冬が、成人して九州で打倒尊氏の軍をあげた。
 この直冬を以前から直義は養子にしていた。哀れと思ったのだ。しかし直冬は、肉親の愛情など求めなかった。直冬は直義からも離れ、少年のころから他人の家を転々とし、ひとりで生きて行く方法をおぼえた。
 「打倒尊氏」
 は、自分を捨てた父へのうらみをはらす行動であった。
 自分を罷免し、高師直に屈服した兄尊氏を直義もまたうらんでいた。うらんではいたが、憎んではいなかった。直義は兄の性格をよく知っていた。
 (兄上はやさしい。私を罷免したのは本心ではあるまい。師直の暴力に、一時的に屈服しただけだ。必ず元に戻る。きっと私を迎えにくる。大体、私がいなければ兄は何もできないのだ)
 直義はいまだにそう考えていた。
 しかし、そのことを改めて兄に思い知らせるためには、ここで一度、兄を痛いめにあわせたほうがいいと思った。そこで再び武器をとり、直冬と連合した。
 そして、こともあろうに直義は南朝に降伏を申し出た。南朝はおどろいたが、これをゆるした。
 足利が兄弟同士で争うのは大歓迎だったし、いっそのこと両方が戦ってつぶれてしまえば、こんなありがたいことはない。
  南朝の本当の敵は、尊氏よりも直義であるはずなのに、南朝が直義の降伏をゆるしたのは、そういう計略があったからだ。
 「なに、直義が南朝に降伏した?」
 報告をうけて尊氏はびっくりした。あれほど罵倒し、後醍醐天皇はじめ、その廷臣たちを苦しみぬいた直義が、その南朝に降伏するとは一体どういうつもりなのか。また、それを認めた南朝も何を考えているのか。
 しかしおどろいてばかりはいられなかった。打倒尊氏を叫ぶ子の直冬は、すでに九州、四国を制圧し、いまは中国地方に進出してきている。それに加えて、直義が南朝軍になったとなると、状況は尊氏にとってきびしい。
 「師直、また戦だ」
 尊氏はそういって直義、直冬の二人を討伐する軍を起こした。
 ところが、中央政局で何かあると、すぐ敏感に反応して、きまって何かことを起こすのが、地方の豪族である。
 尊氏と直義の不和は日本中に知れている。それに、
 「尊氏穀は実は直義穀の操り人形だ」
 といううわさが加わっている。直義が去ったあとの尊氏は無力だ。という評判が立っていた。しかも、昔捨てた直冬まで父の打倒を叫んでいる。
 「いまなら尊氏を倒せるかも知れない」
と、南朝系の地方武士がうごめくのもむりはなかった。地方武士は蜂起した。そして、そのひとり、北陸の桃井直常が突然京に侵入して、尊氏をおそった。虚をつかれた尊氏はこれに敗れた。
 態勢をたてなおして、ようやくこれを逐いはらったが、摂津のほうで直義が軍を起こした。打出浜に出て戦ったが、これも敗れた。
 一応、直義と仮に和睦した。

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