童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          愛と義と智謀の人 直江兼続

■樋口与六の時代かららしさ≠ェ横溢していた

<本文から>
 樋口与六の時代からこのあの人のためなら″という気にさせるらしさ≠ェ横溢していた。もちろん戦国時代のことだから、そうする側にもいわゆる、
 「どっちが得か」
という利害損得をモノサシにする判断力があったことは確かだ。単に、″人生意気に感ず″あるいは″以心伝心″などという、いわゆる、
 「日本的な情緒」
 だけで、そういう判断をしたとは思えない。計算も十分にしている。しかしその計算を超えて直江兼続には、相手が嫌でもそう思ってしまうような魅力があったことは確かだ。
 謙信が死んでから後のことだが、謙信の後を景勝が継いでいたにもかかわらず、越後内外からの状況報告や他大名からの音信は、ほとんど直江兼続宛に来ている。その中には一度も兼続に会ったことのない者もいる。が、おそらく口コミで、
 「越後宛の音信は、直江殿が一番いい」
という風評が確立していたのだろう。出す方も当然、
 「主人の景勝殿に出すよりも、補佐役の直江殿に出した方が、報告内容を正確に受け止め、われわれにそれなりの益をもたらしてくれるだろう」
 という考えがあったことは確かである。しかし、それにしても直江兼続のそういう魅力 は天性のものなのか、それとも後天的に育てられたものなのだろうか。
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■天性の素質を育てた仙洞院

<本文から>
 結論として、直江兼続には天性の素質があった。しかしそれを発掘し育ててくれたのは、やはり彼が仕えた多くの人々である。そしてその手始めが仙洞院であった。仙洞院が与六を可愛がり、いろいろと面倒を見てくれたのは与六のためではない。わかりきったことだが、仙洞院が与六を可愛がるのはあくまでも、
 「わが子卯松のため」
だ。仙洞院は与六にいった。
 「おまえは卯松の分身になってほしい。おまえという身をなくして、あくまでも自分は卯松の一部だという思いで卯松を支えてほしい。そのために卯松と始終接触して、一緒に学び一緒に遊んでほしい。そして、卯松が成人した後も、ピタリと卯松の脇について彼を支えてほしい」
 切々たる言葉である。幼い与六に仙洞院の母心はどれほど深いものであるかはわからない。しかし感覚的に、
(このお母様は、卯松様のことをご自分のこと以上に大事に思っておられる)
 ということは感じられた。
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■″人を騙さない″という父からの信念を行動し続けた

<本文から>
 彼の父準豊と母は、典型的な低身分に甘んじる夫婦だった。だから与六に対してもいつも、
 「身分不相応なことは考えるな。自分の立場に応じた努力を続けろ」
 といい続けた。だから樋口家が木曾義仲四天王の一人であったとしても、
 「そんな誇りは家の中だけで保つものだ。決して外に出してはならない。もしも坂戸のお城の中でそんなことを口にすれば、みんなに憎まれる。いいな?」
 とクギを刺した。したがって与六の父母は、
・今の樋口家の身分(薪炭を扱う仕事)に応じた生き方をしろ
・それ以上の望みを持ったり、あるいは他を羨んだりするな
・身分相応の生き方をしていれば、決して邪な心や、絶対に訪れることのない可能性への期待に身を焼くことなどない
 といういわば″あきらめの哲学″を持っていた。そして子供の与六にもそれを押しつけた。与六は別にそんな父親の言葉に抵抗はしない。しかし彼は心の一隅では、
(今の身分に自分は甘んずる気はない)
と思っていた。ただ父親が言ったいい言葉がある。それは、
「たとえ人から騙されても、人を騙すな」
というものだ。これは与六の気に入った。与六は後に「智将」あるいは「智謀の人」といわれる。しかし先に書いたように、彼のもとに多くの情報がもたらされたのも、単に利害損得だけではない。与六自身に絶大な信用があった。この信用を形づくったのは、与六が父親に言われた、
「たとえ人から騙されても、絶対に人を騙さない」
という言葉を守り抜いたからである。つまりそれを信念として行動し続けたからだ。直江兼続が人を騙した、というエピソードを筆者は知らない。つまり直江兼続は、
「周りから信頼される存在」
だったのである。
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■与六時代から情報がもたらされたいた

<本文から>
 上杉謙信は情報通だ。今でいえばITの達人だ。諸国の情報が自然に春日山城に流れ込むようなネットワークを各地に張っていた。これは武田信玄も同じだ。戦国を生き抜くには、何といっても情報通でなければならない。情報通であるためには、その情報が自然に流れ込んでくるような装置が必要だ。上杉謙信の場合、その装置というのは、彼の人柄だった。
 「謙信公のためなら」
 という、″ためなら″と思う人間が各地にいた。そして不思議なことに、その謙信の側にいる兼続(樋口与六)宛の情報の提供者が次第に増えてきた。口コミによるのだろうか、
「謙信公の小姓を務める樋口与六という少年は実に賢い。こっちがいったことを正確に謙信公に伝えてくれる」
 という噂が立っていた。このことは、謙信が死んでもかわらない。後を景勝が継ぐが、上杉家に情報をもたらす各地の実力者たちは、揃って伝え先を樋口与六にしてきた。したがって樋口与六が居ながらにして情報を手にすることができたのは、少年時代からの積み重ねによる。上杉景勝の代になって急に起こった現象ではない。それほど少年時代の樋口与六も諸国に名を高めていたのである。
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■関白の野望と上方武士の恐ろしさを知る

<本文から>
 兼続の頭は飛躍に飛躍を重ねる。したがってこの三人の対応を見て、秀吉が今何を考えているかが手に取るようにわかった。
 しかしこれは重大なことだ。石田三成がいった、
「上杉家に反抗している新発田重家の処分は関白殿下にお考えがあり、いずれ木村清久を調停に赴かせるつもりだ」
 というのはいくつかの意味を含んでいる。それは、
・日本国内のあらゆる地方における私戦を禁ずる
・領土争いがあったときは、関白秀吉が乗り出して調停する
 ということだ。このことはとりもなおさず、
 「日本の国土は、今後すべて関白秀吉の管理下に属する」
ということの宣言と同じ意味だ。兼続は、
 (そうだったのか)
とはじめて今度の上洛の意味を知った。そして思わず、
 (しまった)
と胸の中で臍を噛んだ。秀吉の、
 「天皇の命によって、今後日本国内における私戦を禁ずる。ましてその理由が土地争いであった場合はなおさらである。これに背く場合は、関白として天皇の命を奉じ征伐する」
という宣言は、裏を返せば、
 「今後日本国内の土地はすべて関白秀吉が支配管理する」
ということの宣言なのである。今風な言葉を使えば、
 「日本の国土はすべて関白秀吉が所有権を有する。そして、各大名には地域を限って管理を認める」
 ということだ。もし兼続のこの考えが正しいとすれば、今後、現地域に支配権を持っている大名を他国に移すことも可能になる。つまり秀吉は、
 「日本国内における大名の人事権を一手に掌握する」
ということになる。これは恐ろしいことだ。兼続は、今まで思いもしなかったことが事実となって突きつけられたのを感じた。改めて、
 (そういうことだったのか)
と、関白秀吉の野望の凄まじさに目を見張った。
 (ここにいる三人はその走狗だ)
と感じた。そう考えると今まで盟友のような心安さで付き合ってきた、石田三成・増田長盛・木村清久などいわゆる関白殿下の腹心たちも、腹に一物も二物もあって結局は油断のできない人間だったということになる。
 (信じたおれが甘かった)
兼続はそう思った。同時に、
 (上方の武士はこのように恐ろしい存在なのか)
と改めて感じた。彼が越後国で漠然と感じていた、
 「天下と地方の差」
 ということは、すなわち天下は地方とは異質な容器であって、その中で生きる人間の質を全く変えてしまう。というよりも、はじめから異質な存在なのだ。兼続が感じたのは、
 「天下事業を推進する人間たちは、目的のために手段を選ばない」
ということである。兼続たちには、策はあってもまだ情がある。義がある。義や情によって策が中止されたり、あるいははじめから立てられなかったりする。故上杉謙信は、そういう教えを少年のころから兼続に叩き込んだ。
 しかしここで喧嘩をしてもはじまらない。異を申し立ててもだめだ。すでに上杉景勝は関白秀吉に臣従している。それをいきなり反故にするわけにはいかない。兼続は懐悩した。しかし心の動きを顔に出すほど、兼続も単純ではない。若いけれども兼続もしたたかな人間だ。彼は三人にいった。
 「ご助言、よくわかりました。帰国後すで新発田重家討伐には赴かぬように、主人景勝によく申し伝えます。それが関白殿下の御意志であることを」
 聞き様によっては最後の一言は皮肉だ。おそらく三人はそういう受け止め方をしただろう。
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■兼続の″愛″は越後国の民を愛すること

<本文から>
 秀吉の見抜いた通りで、直江兼続の方もこのやり方を活用(利用)していた。兼続は京都や大坂に行って、想像もしない、
 「大下と天下人の意味」
 を身に沁みて知った。越後国内では想像もできない様相が展開していた。つまり兼続から見れば、天下の事業に関わりを持つ人々は、
「異種の人々」
 といえる。その周囲に対する気配りや、情報の収集の仕方、あるいはその分析判断、そして解決策の用意、その中から一つを選び取る決断、実行、さらにうまく行かなかった場合の修正などは、およそ考えたこともない。違った星から来た人間が仕事をしているような感を与えた。兼続はつくづく悟った。
 (こういう連中と、一緒になってものを考えたり仕事をすることはできない)
 兼続は自分の限界を知っていた。彼は、
 (あくまでも、越後国人として生きるのがおれの道なのだ)
 と考えた。しかしだからといって、今、京都や大坂で展開している、いわゆる天下事業の推進″は無視するわけにはいかない。兼続が感じたところでは、
 「この風潮はいよいよ勢いを増して、この国(日本)全体に拡がってゆく。そのことはあなどれない」
 と率直な感じを持った。これが兼続の偉いところだ。つまり今でいえば彼は、
 「日本国全体の問題を意識しながら、越後国という地方の政治を行ってゆく」
 ということだ。ナショナルな出来事はすべて認識する。そして、
 「その状況の中で、越後国の行政(地方自治)はどうあればよいか」
 を考えるのだ。この発想は、直江兼続が死ぬまで続く。彼は兜の前立てに愛≠フ一字を掲げた。愛の意味については諸説あるが、筆者個人は、
「護民官意識による民への愛」
すなわち″愛民″の意味だと考えている。しかしこの愛民の対象は、西郷隆盛が後に掲げる、
「敬天愛人」
 というような広汎なものではない。つまり人間すべてを指しているわけではない。兼続の場合はあくまでも、
「越後国の民を愛する」
 ということであって、行政区城的には限られている。しかし越後国の民を愛する上においても兼続は、
「天下のことを無視したり、天下とは別に越後国の自治を存在させるわけではない。越後国の民を愛するためには、やはり天下の推移を念頭に置かなければならない」
 という発想に立っていた。
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■文化を積極的に取り入れた

<本文から>
 つまり信長は、文化は文化として独立させるのでなく、国民生活の中に付加価値として溶け込ませ、それによって経済の成長を図ろうとしたというのだ。いってみれば信長にとって、
 「文化も経済政策の一つである」
 ということだ。この考えに兼続は大いに関心を寄せた。そして信長のやり方こそ、越後国を豊かにする一つのヒントになると思った。しかし、
 「それにはまず治世の任に当たる者が、文化的教養を深めなければならない」
 と思う。だから彼の頭の中にはいつも、
 「修身・斉家・治国・平天下」
 の流れがあり、
 「何をするにも、まず行う人間が自分の身を修めなければだめだ」
 ということになる。
 越後国でいえば、天下のことはさておき、治国が問題になる。だから、
 「よい治国を行うためには、行う者がまず身を修めなければならない」
 ということだ。そしてその身を修める一環として、文化を積極的に取り入れようというのである。これには主人の景勝も賛成した。彼も上方に行って天下事業の進み具合の中に、文化が大きな位置を占めていることを知った。したがって、
 「これからは、字も読めなければ書けないような武士は役に立たない」
 といって、春日山城内でも盛んに学習を奨励した。兼続はこういう景勝を見ていて、
 (主人はなかなかよいところに目をお着けになる)
 と微笑んだ。景勝は、
 「養父の謙信公のことを、おれ以上に知っているのは兼続だ」
 と思っている。だから時に兼続に、
 「謙信公の遺訓を講義しろ」
 と命ずることもあった。兼続は承知した。
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■日本のすべての土地も太閤殿下の所有物と理解させる

<本文から>
「事情が違うとは?」
「今は、日本のどこの土地もすべて太閤殿下の所有物です。そのことを殿下は諸国に対する検地によって示されております。検地というのはたしかに年貢額の再確定が狙いですが、それ以上にこの土地も太閤のものである、という殿下の意思表示だとも思います。そのために、検地を行うときに必ずきびしい指令をお出しになっておられます」
 兼続は自分の考えていることを語った。それはあくまでも、
 「大名が所有している土地も、もはや大名の所有物ではない。天下人の所有であって、大名はそれを一時借りているだけなのだ」
 という認識を、春日山城内の反対派武士が理解しなければ、会津に行ってもダメだという考えがあったからである。そして同時に、
 「反対派の武士を説得するには、この理屈以外ない」
 とも思っていた。そしてさらに、
 「多少のゴタゴタがあろうとも、この触れ(秀吉の検地指令書)を楯にとって、何がなんでも協力させる」
 という意気込みも持っていた。秀吉の触れは次の通りだ。
 「触れた検地条例については、武士・農民とも理解するようによくよく申しきかせよ。もし不届きなものがあったら、城主なら城に追い込み、ひとり残らずなでぎりに申しつけよ。不届き者については、農民以下まで一郷でも二郷でも、ことごとくなでぎりにせよ。日本全国にきびしく命令し、出羽奥州のはてまで粗相にさせてはならない。土地がたとえ無人になってもかまわぬから、この趣旨を守れ。山の奥、海は櫓擢の続く限り、徹底的に念を入れることが大切だ。もし検地衆に怠りがあるなら、関白殿下ご自身が出向いて命令する」
 すさまじい意気込みの指令書だ。しかし兼続の理解しているような解釈をすれば、この指令書の趣旨はあきらかで、何度も繰り返すが、
 「日本全土はすべて太閤殿下(形式的には関白)の所有であって、大名たちが私できるものではない。大名の領地は、天下人が貸し与えるものである」
 という意味合いを、これでもかこれでもかと全国津々浦々まで浸透させるPR戦略である。
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■関ケ原で負けても上杉家を存続させた

<本文から>
 米沢城にこの報告が届いたのは、九月二十九日のことである。関ケ原合戦が行われたのは九月十五日だから、当時のコミュニケーション状況ではやはり二週間かかったということになる。兼続は、
「やはりそうか」
 と暗澹とした。さすがに落胆した。たった一日で勝敗がつくとは思わなかったからである。が、
 (石田殿が総大将では、そういうこともあるだろうらおそらく、裏切り者が次々と出たのだ)
 と判断したしその通りだった。兼続は全軍に撤退を命じた。そして、
「殿はおれがつとめる」
 と宣言した。このときの撤退ぶりは実に見事で、他国にも知られた。関ケ原合戦に参加した敵も味方もこのことを聞いて、
 「さすが直江兼続だ。率先して殿の指揮をとったのは見事だ」
 と感嘆したという。殿というのは、本軍を逃がすために次々と敵の追撃を受けてほろびていく。最後には全員討死にするのが普通だった。それを兼続はあえて引き受けたのである。
 このときの兼続は世上いわれるように、
 「上杉家を誤まらせた責任を取って、死地に身をおいたのだ」
 という説には筆者は与しない。兼続はそんな小さな人物ではない。
 米沢城に戻った兼続はすぐ上杉景勝と相談し、宿将本庄繁長を上洛させることにした。いうまでもなく徳川家康に謝罪するためである。伏見にいる千坂対馬守(景親)を通じて、家康側近の本多正信や榊原康政に斡旋を頼んだ。直江兼続の人物を知る本多正信はとくに熱心で、この斡旋をよろこんで引き受けた。アヒルの水掻きのような活動がはじまった。兼続は直接敗戦の責任者である。今でいえば戦争犯罪人第一号なので、表面には立たなかった。しかし、
 「今後の政治情勢の中でも、上杉家は絶対に存続させたい」
 という気持ちは強い。そのためには屈辱を偲び、つまり耐え難きを耐えても我慢しようと心を決めていた。兼続はこの段階ですでに、
 「生き恥をさらして上杉家を守り抜く」
 と決意していたのである。生き恥をさらすということは、安易に敗戦の責任を取って腹を切るなどしないということだ。その方が武士として余計つらいが、兼続はそのつらさに耐えようと考えていた。
 だが、自分がノコノコ京都や大坂に出かけて行って徳川方と交渉するわけにはいかない。そこで心利きたる千坂景親を軸に、本庄繁長をこれに添えて、家康側近の本多正信や榊原康政を通じて調停を頼んだのである。同時に、兼続は、北ノ庄城(福井県福井市)の主であった、家康の息子結城秀康にも調停を析んだ。もちろん、
 「徳川殿への謝罪方の斡旋を願いたい」
ということだ。これも、兼続にかねてから好意を持っていた結城秀康は快諾した。そして、
 「上杉殿が上洛なさるときは、わしも一緒に行こう」
と同行を申し出てくれた。こういう非常の際には、理屈は通らない。なんといっても普段から築いた人間関係がものをいう。その点兼続はしみじみと、
(おれはいい人びとに囲まれて幸福だ)
と思った。直江兼続の幸福はそのまま上杉景勝の幸福につながる。
 慶長六(一六〇一)年、七月一日になって、ようやくアヒルの水掻きの努力が成果を生んだ。
 「どうぞご上洛ください」
 と本庄繁長から通知がきた。七月一日、上杉景勝は兼続とともに若松城を出発し、二十四日に伏見の上杉邸に入った。そして八月十六日に北ノ庄城主結城秀康に帯同されて、伏見城で家康に謁見し、謝罪した。家康は翌十七日に、
 「上杉家は旧領を没収し、米沢で三十万石を与える」
 と命じた。
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