童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          銭屋五兵衛と冒険者たち

■「海に国境はない」との言葉通り、北前交易をはみ出し異国との交易に乗り出した

<本文から>
 銭屋五兵衛は、今までの北前交易を大きくはみ出して、異国との交易に乗り出した。かれの行動範囲は広く、エゾから樺太、対岸の山丹(山鞋とも書く。樺太(サハリン)北部から黒竜江下流域)、満州、ロシアなどを相手にし、壱岐・対馬から玄界灘を抜け、中国大陸やさらにアジアの国や島、あるいは遠くオーストラリアまで及んだという。見つかったらとうていタダでは済まないが、五兵衛の胸の中には、いつも、本多利明という学者がいった、
 「海に国境はない」
ということばがあった。そのことばを唇に乗せてつぶやくだけで、銭屋五兵衛は大きな勇気を得た。
 五兵衛は北前交易のために、日本の近海を船で走りまわっていた時から、心の奥で感じていたことがあった。
 海は広大である。船の舳先に立っていると目の前に広がる果てしない水面がどこまでもひとつにつながっている。そこに五兵衛はひとすじの道を見ていた。
 このまま舳先をまっすぐに向けて走りつづけたら何が現れるだろうか。五兵衛はいつもそんな思いにとらわれるのである。
 もちろん、五兵衛はそれまで数え切れないほど海を走りつづけている。頭の中には精密な海図が描かれており、自分が近くまで行ったことのある異国の様子は朧気ながら掴んでいた。
 五兵衛が感じているのはそのことではない。
 どこまでもつながっている水の広がりの向こうには、五兵衛の頭では想像もつかないような様々な可能性が横たわっているような気がした。
 それは交易という海商としての五兵衛の思惑だけではない。それらを遥かにこえた、人間的な興味だった。
 だが一方で、日本の実情を見ると、地上に延びる道ですら、数え切れないほどの関所が設けられている。藩や国の境界のみではない。身分差という人間同士の境界すらつくられている。これは人間の本来持っている可能性や自発性を、狭い檻の中に閉じ込めてしまうことにほかならない。
 そこには、人間に対する底知れない不信と嫉妬の念によって意識的に仕組まれた、邪な意志すら感じられた。
 少なくとも、五兵衛にはそう思えてならなかった。
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■加賀藩を後ろ盾にした銭屋の繁栄

<本文から>
 宮腰は、現在は金沢市金石のまちに入っている。犀川が日本海に流れ込んで河口につくった港だ。銭屋五兵衛がここで大規模な海の経営をはじめる前は、せいぜい三百石止まりの船しか入ることができなかったが、銭屋が手広く仕事をはじめてからは、かなり大きな船も入るようになった。さらに銭屋が加賀藩の御用船の総括を行なうようになってからは、大坂廻米のために大きな船がつくられた。特に宮腰の浜でつくられた常豊丸は千三百石もあった。この常豊丸の進水式の時には、金沢城の武士たちはもちろんのこと、城下町の町人や近在の農民たちも大勢見物に来た。宮腰の町には臨時の飲食店が急増して、ウハウハ笑うほどの大儲けをした。
 宮腰の港のちょっと北東に大野港がある。大野港は、河北潟から流れ出た大野川が注ぐ河口港だ。そして、大野川と日本海の間に広がる砂丘が、有名な内灘である。
 加賀藩御用船の総支配を許可された銭屋の船には、前田家の家紋である幼剣梅鉢の紋を染め抜いた船印や、幔幕や、提灯の掲示が許された。鑑札や渡海免状も与えられた。鑑札には、「加賀宰相用」と大書され、また渡海免状には「この者には永代渡海の許可を与えてあるので、浦々(港々)では絶対に文句をいってはならない」ということが加賀藩の名で書かれている。まさに加賀百万石を後ろ楯とする海の商売を許可されていたのだ。銭屋五兵衛の勢いはすさまじかった。
 そして、加賀藩が「御手船裁許」として、五兵衛に依頼した大坂への廻米は、一番船、二番船といって、年に二回と決められていた。だから、三番船以後の航海は、銭屋が勝手にどこでも交易をしていいということだ。これが、銭屋の主収入になった。
 いま、兵六を乗せて戻って来た五兵衛の船が宮腰港に入ると、銭屋の持ち船が港内にひしめいていた。兵六は目を丸くしっ放しだった。
 (これが全部銭屋の旦那の持ち船か!)
 と、またたきをする暇もなかった。
 「どうだ? 大したものだろう?」
 そういう大野弁舌のことばにも素直に誘いた。港の賑やかな光景に目を奪われ、魂を奪われてしまったので、いつもは突っかかる弁舌に対しても、抵抗することを忘れてしまっていた。
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■銭屋五兵衛は志を3つに分けて託す

<本文から>
 加賀藩の内部での勢力争いが、必ず俺たちにも波しぶきを飛ばすからだ。河北潟の干拓がうまく行けば、三男の要蔵が″十村役(加賀藩の末端組織。他藩の大庄屋)″になって、銭屋の安泰が約束されるだろう。が、この計画は二十年にも亘る大事業だ。完成するまで俺が生きていることは無理だ。そして俺がいなくなったら、要蔵がこの仕事を完成させられるかどうかもわからない。そんなこんなを考えると、俺は俺の志をいくつかに分けた方がいいと思っている。まず河北潟の干拓は要蔵に任せる。銭屋の決まりきった商いは長男の喜太郎に任せる。しかし、肝腎な北前交易の志は、ふたりでは駄目だ。市兵衛は要蔵の補佐をしてもらいたい。そこでだ、肝腎の北前交易の仕事は、弁吉に任せたい。いいな?」
 ここまで話して、五兵衛はふたりの顔を見た。ふたりは領いた。
 なぜなら、今さら駄目だといっても仕方のないことだからだ。それにこの話は、今までも耳にタコができるほど聞いてきた。今日の五兵衛の話はこれまでの確認だ。
 ふたりが額いたのを見ると五兵衛はさらにつづけた。
 「だから、大きく分ければ銭屋の仕事は三つになる。一つは銭屋の経営、二つ目は河北潟の干拓、そして三つ目は俺の志の実現だ。一つ目は長男の喜太郎が、二つ目は三男の要蔵が頑になって行なう。三つ目の俺の志は、弁吉が実現するということになる。どれかひとつがしくじるようなことがあっても、ほかの二つは必ず生き残れる、ということにしたいのだ。そこのところをよく聞き分けて、左の腕であり右の腕であるおまえたちは、俺に改めて協力してほしい」
 「よくわかりました」
 手代の市兵衛がそう応じた。
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■海に国境はない本当の北前交易

<本文から>
 海に国境はないと俺に教えてくれたのは、本多利明先生だ。本多先生も、外国を見たことはないだろうから、まさかこういう形で交易がはじまるとは、思ってもいらっしゃらなかっただろう。俺は本多先生を尊敬している。自分の手で海にある国境を外そうと考えた。それを実現するためにずっと前にここへ来た。最初、品物を持って上陸した時、木の陰にチラチラと人影が見えた。しかし、俺たちの姿を見ると、奥へ逃げ込んで二度と姿を見せなかった。そこで俺は考えた。何とかして、ここの人たちと交易をはじめたい。が、あまりしつこく追えば、こんどは武器を持って俺たちを殺しに来るかも知れない。そうされないためには、品物だけを置いて俺たちは沖合で待つ。そして夜が明けたら、どの品物を持って行ったかを調べる。そういうことからはじめてみようと思った。これが成功した。見ろ」
 五兵衛は、置き残された品物のかたわらを示した。乗組員たちはそこを見て、思わずアッと声を上げ、目を見張った。ラッコの皮や、熊の毛皮や、さらに磨き抜いた玉を皮の紐でつらぬいた飾り物などが、山となって置かれていた。
 「これは!」
 品物を手に取って声を上げる乗組員たちに、五兵衛はいった。
 「ここに住んでいる人たちのお礼だよ。持って帰ろう」
 「黙って持って帰っていいんですか?」
 「いい。今までにも何度もそうしてきた。これが本当の北前交易なのだ」
 そういう五兵衛の口調には、いいようのない重みがあった。乗組員たちは互いに顔を見合せた。主人である五兵衛が本当の北前交易″といったその意味がはじめてわかったからだ。みんな、ああそうだったのか、と胸を打たれた。
 五兵衛は、単に利益を追求する海の商人でほなかった。本多利明という学者がいった「海に国境ほない」ということばを、ことばの通じない人間同士が実現する時、はじめにどういう方法をとればいいかを、自分なりに考え、自分の手で実現して見せたのだ。
 見たことのないこの地の住民とは、たとえ会ったとしても、おそらくことばも通じまい。突然向かい合えば、武器を取って殺しにかかるだろう。五兵衛はそれを警戒した。だから、夜の闇にまぎれて品物を岸に置いた。そして反応を見る。自分の船は遠く沖合に出して近付かない。ここに住む人が出て来ても近付かない。
 住民たちは安心して、岸に並べられた品物を吟味する。そして、必要なものは持ち帰る。住民たちは岸に並べられた品物を、捨てられたものとは見ない。沖にいる船の人間が夜のうちにここに来て置いて行ったと考える。品物にはそれぞれ代価がある。それは支払わなければならないという気持ちを持っている。支払いには現地産の品物を置く。物々交換だ。ラッコや熊の毛皮や、宝石の類はとてつもなく高価なものだ。が、そういう値を知っているのか知らないのか、住民たちには欲がなかった。ありったけのものを持ってきて置いて行く。
 銭屋五兵衛の胸には、そういう住民たちの気持ちがひしひしと伝わった。必要な品物を得られれば、最大のお礼を差し出す住民の心情が、何ともいえず純粋なものとして伝わった。その感じを胸の中で噛みしめることが、銭屋五兵衛の生き甲斐だった。だからこそかれは、これを、
 「本当の北前交易だ」
 と告げたのだ。
 はじめてこの交易を目の当りにした時、弁吉の胸は震えた。不覚にも、かれは涙ぐんだ。こんなことは信じられなかった。人間の世の中に、こういう美しいやりとりがあるとは思わなかった。あったとしても、それは頭の中で考えることで、実際に実現されるとは思っていなかった。今までの経験から、人間がそれほどきれいだとは思っていなかったのである。弁吉の知っている人間は、みんな薄汚れていた。ドブ泥の中を這いまわり、あるいは汚れた水の中で生き抜く怪魚の群れが、かれの知っている人間だった。
 ところが銭屋五兵衛は、そうではないことを示した。大袈裟にいって、たとえ日本人がみんな汚れていたとしても、よその国には、まだまだきれいな気持ちを持っている人間が住んでいることを、実地に見せてくれた。
 そして、そういう人間に出会えば、日本人の方も美しい心を持つ人間にすぐ変り得るのだということを教えた。
 銭屋五兵衛滞日本人離れした巨人だった。ことばの通じない外国の原住民と、物と物とを交換することによって、未知の人間同士の交流のキッカケをつくろうとしていた。
 「海に国境はない」
 といい放った本多利明でさえ、まさかこんな展開がされるとは思いもしなかっただろう。
弁吉は感動した。弁吉は、
 (銭屋の旦那は、俺の主人じゃない。師だ。お師匠さんだ)
 と思った。
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■五兵衛の死

<本文から>
 九月三十日になって、町役所付属の牢に収容されていた五兵衛、要蔵、市兵衛、孫兵衛、喜助らは、ついに公事場の牢へ移された。調べはいよいよ厳しくなった。
 五兵衛が拷問されたかどうかはわからないが、要蔵や市兵衛、特に孫兵衛や喜助たちは、酷い目に遭った。度重なる拷問に音をあげた現場の監督たちはついに、
 「湖に投げ込んだのは石灰だけではありません。臭水とアイゴ油も投入致しました」
と白状させられてしまった。でっち上げだ。
 臭水というのは、越後近辺で取れる石油のことだ。しかし、アイゴ油というのはカラフト(サハリン)で扱われている油である。だから、これを聞くと取調べの役人は狂喜した。アイゴ油を使ったということは、そのまま銭屋が密貿易をしていたということになるからだ。国内で手に入れられる油ではない。
 そこで、役人は現場監督の自白書を持って、上層部のところへ走った。上層部も喜色を浮べた。
 「これで、銭屋の密貿易が実証できる。アイゴ油なら藩とは無関係だ」
 どいった。
 こういうことを次々と聞かされて、五兵衛は完全にまいってしまった。冬の最中である。暖房も何もない。ついに、十一月二十一日、銭屋五兵衛は牢の中で死んでしまった。
「無念だ……」
 というのが遺言だった。あらゆる思いが込められていた。
 医者は、
「死因は小便詰りである」
 と診断した。しかし、後々までもこの時の五兵衛の死は、
「毒殺されたのだ」
 と曝された。中には、訳知りの噂もあって、
「藩上層部に因果を含められて、五兵衛は自ら毒を仰いだのだ」
 という者までいた。
 牢死した五兵衛の遺体は、下級役人たちの手で塩漬けにされて、二石入りのカメに入れられた。カメに入れられた五兵衛には、一石一斗一升の塩がふりかけられた。
 しかし、遺体は家族には引き渡されずに、加賀藩の川上縮所に埋められた。縮所というのは、役所付属の牢獄のことである。
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■大野藩主・土井利忠の英断によって道が開けた弁吉達

<本文から>
 「しかし、何分にも加賀藩が百万石の面目をかけて、引き渡し依頼状を送って来た以上、これに対して全く応じないというわけにも行くまいと、鳩首していたところでございます」
 「それはもっともだな」
 利息も領いた。そして、一同を見渡しながらこう告げた。
 「今内山がいったように、山間の雄藩という名を高めたわが大野藩が、今度は海に乗り出し、それも北方交易でさらに角度の違う名を高めようと志している時期だ。海の百万石といわれた銭屋五兵衛の番頭が、身近なこの大野の城下町に逃げ込んで来たというのは、またとない幸運だ。ぜひとも、大野丸や大野屋の経営に使いたい。が、おまえたちの加賀藩に対する心配ももっともだ。そこで、こうしよう。おまえたちの手で、大野弁吉が本当に河北潟の埋立てに遠類したものなのか、それとも事実無根なのに、加賀藩があえてこの男に罪を着せようとしているのか、それを本人に聞いて確かめよ。もし大野弁舌が河北潟の埋立てに全く関与していないとわかれば、藩としてこの男を使おう。しかし、もし埋立てに関与していたとすれば、その時は残念だが諦める」
 重役たちは互いに顔を見合わせた。さすがだと感動した。
 利忠の裁断は見事だ。少年時代から、藩主としてすでに三十年近く藩政を執り行なってきた経験で、こういう問題に対してただちに的確な判断を下せるのだ。
 「なるほど」
 感心しながらも、しかし内山は念を押した。
「が、たとえこちらの手で大野弁吉が河北潟の干拓に関与していないとわかっても、それだけで加賀藩は引っ込みますでしょうか?」
「さあ、わからんな。しかし、引っ込まないようなら、加賀藩は今の時世に全く遅れているといわざるを得ない」
 利息は説明した。
「加賀藩が、この大野弁吉を執拗に追い回すのは、おそらく銭屋五兵衛が行なっていた密貿易の件が、弁吉のロから洩れはしないかと心配しているからだ。しかし、時世は変っている。阿部ご老中のご方針によって、日本国内では、次々と藩の境がなくなりはじめている。つまり、藩の境をこえて挙国一致しなければ今の国難に対処することができないからだ」
 利息の熱っぽい口調はつづく。
「おそらく俺の推測では、阿部ご老中は、メリケンともオロシャとも条約を結んで、やがてはどこかの港を開くに違いない。それが、世界の潮の流れなのだ。これに逆らうわけには行かない。そのことは、ずっと俺は口を酸っぱくしていって来た。そういう時代がすぐそこまで来ているのだ。加賀藩は、銭屋五兵衛に行なわせた密貿易の件を、幕府に知られるのをひどく恐れているようだが、幕府の方が、今はそんな詮索をしている畷がなくなっている。メリケンとオロシャにふり回されて、国としてどう対応するかが喫緊事になっている。阿部ご老中は、必ず日本の港を開く。そうすれば、日本も外国と頻繁に交易するようになる。密貿易という考え方は、自然消滅してしまう。海に国境はないということを、かつて本多利明殿は声を大にしてこの北陸の地を説いて回った。あのことばが今現実に奉るのだ。日本が、どんどん外国と交易を行なえば、もう海に国境はない。海に国境がなくなれば、密貿易という考えもなくなる。銭屋五兵衛は惜しいことをした。もう少し生き延びていれば、かれもあんなひどい目に遭わなかったはずだ。
 そこで、おまえたちはとにかく大野弁吉に接触し、かれが河北潟の埋立てにかかわりを持ったかどうかだけを確かめろ。かかわりがないとわかれば、すぐわが藩の仕事に参加させよう」
「しかし、弁吉がたとえ河北潟の埋立てにかかわりないという申し立てをしても、それが虚偽の申し立てである場合は、わが藩の責任になりますが?」
 利息は叱りつけるようにいった。
「馬鹿なことをいうな。もっと人間を信じろ。弁舌は海で生きてきた男だ。聞くところによれば海の男は絶対に嘘はつかぬという。俺は、弁吉が自分でかかわりがありませんといえば、それを信用したい。そうでなければ、大切な船を預けたり、商会を預けて、藩の商売を任せるなどということはできない。まかり間違っても、加賀藩の領域にまで手を伸ばして、裏を取るようなことは止めろ。大野弁吉の申し立てだけを信ずるようにしろ」
 内山たちは黙した。
 改めて、主人の土井利忠の考えに感動したからである。利忠は純粋だ。確かに利忠がいうように、ひとりの人間を信ずるのでなければ、藩の重大政策である大野丸の運航や、大野屋支店の開設や、その経営を任せるなどということはできない。
 内山たちは、改めて顔を見合わせた。そして目で、互いに、
 (俺たちより、殿様の方がよっぽど人間が上だ)
と頷きあった。
 利忠が″山間の雄藩主″と呼ばれ、今メキメキと名を上げているゆえんだ。
 山の雄藩大野藩が北方交易を行なうことで、日本の大名家に、新しい鐘の音を響かせようと、主人利忠は激しく情熱の炎を燃やしている。
 そう思うと、自分たちも、殿様に負けてはいられない。殿様の志が、一日も早く実現するように、俺たちも結束して努力しようと決意するのだった。
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■大野丸によって旧銭屋五兵衛の乗組員の夢が叶う

<本文から>
 安政の大獄で、自分に反対した輩を一掃したことが、井伊の自信を強めていた。
 幕政改革派は全滅した。
 その間、越前大野藩はまるで時代の流れとは無縁のように、自藩の企てを着々と実行していた。
 一時は、三岡八郎の貯策によって、越前大野藩の志は大きく挫折させられた。
 特に、北海道の開発については、幕府が邪魔をした。当時、幕政に大きな発言権を持ちはじめていた松平慶永は、三岡八郎たちの意見によって、これを承認させなかったからである。
 ところがその松平慶永が隠居させられた。越前藩は大きく後退した。幕府の政治から退かされた。状況は越前大野藩に有利になった。藩主土井利忠の強い要望によって、北海道に代って北エゾの開発権を得た。
 大野丸に乗った越前大野藩士や、一般から応募した有志が次々と北エゾに渡って行った。
 北エゾ開拓の総督には内山陸佐が命ぜられた。開拓の屯田司令は早川弥五左衛門、大野丸の船長は吉田拙蔵である。案内は大野弁吉を筆頭に旧銭屋五兵衛の船の乗組員だった。船には大野藩士十余名、開拓のための先発の領民が二十余人乗っていた。一大壮図である。
 弁吉は出発する時、自派の乗組員に、
 「これで銭屋の旦那の夢が実現できる」
といった。皆額いた。
 大野丸は洋式帆船というだけでなく、備えた装備もすべてヨーロッパ製の物だった。晴雨計もフランスのゲイデイが発明したアネロイドが使われ、これほ世界でも最新の物だった。
 日の丸と沢演(おもだか)の旗をかかげた大野丸は、堂々日本海を往復した。北エゾの基地にしたのは、北緯四十九度近くの鵜城である。開拓総督の内山はここ上陸し、開拓士民の指揮をとった。北海道では箱館港に中継基地を設けることを願い出、許された。
 藩地に近い港としては、三国港は越前藩や加賀藩など錯綜して面倒なので、敦賀港に変えた。北方交易は弁吉の独壇場だ。北エゾ・箱館・敦賀の間を、大野丸は何度も往復した。そしてその度に多くの富を越前大野にもたらした。藩はその中からかなりのものを幕府に献じた。
 幕府もさすがに、そのひたむきな努力には心をやわらげた。
 「越前大野藩は本気で日本の国富を考えている」
と評価した。
 北方交易はけっこう富をもたらしたが、北エゾ開拓は思うように行かなかった。金食い虫で莫大な資金が投入された。次第に行き詰った。同情した幕府は土井利忠を江戸城に呼んで、
・北エゾの開拓地は大野藩領として与える。
・助成費は出せないが、代りに大野藩の幕府への手伝い(工事などの負担)は一切免ずる。
 と通告した。破格の扱いである。
 しかし残念なことに、文久二年(一八六二)に藩主利忠が隠退し、元治元年(一八六四)六月に内山陸佐が死ぬと、この壮挙も次第にかげりがさした。そしてこの年八月に、根室沖で大野丸が座礁破砕してしまった。
 大野藩は痛手に屈せず事業を継続したが、北エゾ経営だけは思わしくなかった。慶応四(明治元)年三月、大野藩はついに北エゾの藩の領地を新政府に献上した。
 しかし海から遠い山間の雪国藩が、幕末維新の動乱期に国境のなくなった海を帆走し、まだ所属未定のサハリンを開拓した勇気ある企ては、大きな標塔を北方にうち立てたのである。
 大野弁吉はこの仕事の手伝いをした。兵六たち若者は、正式に大野丸の乗組員となって活躍した。
 大野丸の手伝いをするようになってから、弁舌は住居を加賀の大野に移した。女房お浦の故郷に戻った。
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