童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          新撰組 山南敬助

■山南敬助は求めるものは決して得られないとあきらめている

<本文から>
  山南敬助は苦笑した。何度も沖田総司には語った話だ。
 少年のころ、あれは故郷の仙台でのできごとだった。自分の住む村の境にある山をこえた向うのまちに、山南敬助はなぜか一度行ってみたい、という願いを持っていた。山向うのまちに何か格別のものが存在するとでも思っていたのだろうか。
 その日、少年の山南敬助は、荷をはこぶ車に馬をつないで山を登りはじめた。そう高い山ではないので勾配はなだらかだった。時のところだけがやや急坂になった。馬は首をふりながら、軽い山南敬助の身体をのせて順調に坂をのぼって行った。このままなら、馬車にのったままで峠をこえられるかも知れなかった。
 時の稜線が見えてきた。空がくつきりと峠の向うにひろがっていた。その空の下に求めるまちがあるはずだった。山南敬助の胸ははずみはじめた。
 しかし−その胸のはずみかたは、決して憧れているまちにいま行ける、というよろこびに満ちたはずみかたではなかった。山南敬助はあのとき、
「まちには行けない」
 と、はっきり感じたのである。ということは、ちがう云いかたをすれば、
「峠はこえられない」
 と感じたのであった。
 つまり、峠は運命の壁のようなものであった。他人にはこえられるかも知れない。しかし、山南敬助にはこえられない何かを、あのとき山南敬助は、確信したのである。
 もう数米で峠の頂だというとき、車にむすんであった綱が切れた。馬はそのまま突っ走った。空の青さがひときわさびしく山南敬助の眼に映った直後、車はまっしぐらに坂をズリ落ちた。車が路肩を崩して谷へ落下する前に、山南敬助はとびおりた。けがはしなかったが、このとき、
 (おれが求めるものは決して得られない)
という諦念が勃然として心の一角に湧き、それは終生消えないつよさを持ってそこに降伏してしまった。
 以来、今日まで山南敬助は自分の半生に、この諦念をうちやぶる経験を事実として持たない。何かいいことがありそうな状況が訪れても、それは必ず手にする前に去った。いいことはつねに峠の向うの存在物であり、山南敬助は、いずれはズリ落ちる車の上にのっているのであった。そういうもどかしさとやりきれなさが、山南敬助の心の中に一個の桶を用意し、絶望がその都度一滴のしずくとなって、冷たく心の桶に溜るのである。
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■山南敬助は土方歳三が嫌いなので何を言っても肯定しない

<本文から>
  山南敬助が土方歳三の説を認めないのは、その説の″云い手″が土方歳三であったからである。
「いくらいいことを云っても、云い手があいつでは、おれは肯定できない」
 という、世間によくある議の中身クよりも去い手を重視する、というより″云い手″に拘わるという過ちを、山南敬助もおかしていた。
 だから同じことを云っても、山南敬助は伊東甲子太郎のことばなら一も二もなく受け容れたし、土方歳三のことばなら一も二もなく拒絶した。
 こういうことでは、もともと論議はすすまないことを、山南敬助は百も承知していた。しかし、こと土方歳三に関するかぎり、山南敬助は自分をとめられない。ひとことで云えば、現在、山南敬助は土方歳三がすっかりきらいになっていたからである。顔を見るのも嫌だったし、顔を見ればたちまちこっちの顔が白く硬ばるのだ。
 どうしてこんなになってしまったのかわからない。それに、おれほど自分にきびしい人間が、好き、きらいというモノサシで他人を選別するという、もっともしてはならないことをする、ということに、山南敬助は嫌悪を感ずるがどうにもならない。理屈では支え切れない感情の波の重さ、厚さであった。
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■新撰組の虚像が世間をのし歩いていた

<本文から>
 あの天王山頂での衝撃を、山南敬助は忘れない。屠腹した真木和泉以下十七名の死体が、死んでいながらそのまま立ち上って新撰組に向ってくるような気がした。魂晩などというものを山南敬助は信じなかったが、あのときだけは、死んだ尊壊浪士たちの死霊の存在をはっきり感じた。
 そして−赤穂浪士の芝居まがいのデンダラ羽織を着て、そういう死霊の群を追いつめて行った新撰組に籍をおいていることが、何か恥じ入る思いだった。
 京都市中のど真中をほとんど燃えつくすという火の中で、いやな噂が流れた。
 「新撰組が、火災のドサクサにまぎれて、京都六角牢に入れられていた尊嬢派の志士を、全部首を斬ったり、槍で突き殺した」
 というのである。
 時期的に、このころは新撰組は九条河原に布陣したり、御所にかけつけたり、天王山を襲ったりしているのだから、現場不在は立証されるのだが、人の噂というのはおそろしかった。
 「人が斬られた」
 といえば、何でも新撰組のせいにされてしまうのだ。
 この噂をきいたとき、山南敬助は一瞬、
 (留守隊が斬ったか)
 とハッとした。しかし、池田屋のときとちがい、こんどはほとんどの隊士が出陣し
 ている。そんなことはできるはずがない。
 とはいうものの、山南敬助がいくら、
 「ちがうぞ、それはちがうぞ」
 と叫んでみても、すでに新撰組の虚像がいよいよはっきりした形をとって、世間をのし歩いていることは事実であった。すくなくとも、いまのようなことをつづけるかぎり、
 「新撰組は、尊嬢派志士の弾圧集団だ」
 という印象は、歴然としていた。
 「おれたち新撰組も攘夷集団だぞ」
 と云ってみても、ご冗談を、とわらい去られることは目にみえていた。尊壊派自体、
 「壬生浪の奴め」
 と、あらゆる場所で憎悪のこえを湧きたたせていた。禁門戦争でさえ、新撰組の池田屋斬りこみが直接の起爆剤になっていたのだ。尊嬢派と新撰組とのあいだにできた亀裂はどんどんひろがっていた。そして、それがとびこえることができないまでに決定的になってしまうのは、もう、時間の問題であった。
 新撰組は会津藩の指示で天王山頂に真木和泉たちの墓を立てた。墓には、
 「長州賊徒の墓」
と書かれた。山南敬助は、
 「攘夷の徒の墓」
と書きたかったが、容れられる意見でないことは百も承知していた。
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■山南は土方は攘夷が実現できないことに絶望したことに気づく

<本文から>
「だからさっき云ったろう、攘夷は幻だって。勝てっこねえんだよ、異国には…」
突然、ああ、そうだつたのか、と山南敬助は、もっと深いところで土方歳三のことばの意味を理解した。やっと気が.ついたのだ。
 (土方は攘夷が実現できないことに絶望したのだ!)
 と感じたのである。
 (土方は、おれよりも、もっと本気で壊夷を考えていたのだ。しかし、薩摩や長州の外国との戦争をきいて、とうてい勝てぬことを知った。それが土方にとって、どんなに口惜しく情なく、そして地団駄ふむようなものであったかを、おれは微塵も考えたことはなかった!)
 山南敬助が、
 「攘夷」
 と云い出すたびに土方歳三は反対した。椰緑もした。執拗にさからった。その本心は、土方歳三は自分の胸の底で、誰よりも強く、
 「攘夷実現」
 を考えていたからなのだ。
 (これは気がつかなかった!)
 おそらくこのことは山南敬助以外誰も気がついてはいない。しかし、山南敬助が感じたことははずれてはいない。それは自分をみかえしている土方歳三の眼付きでわかる。
 (……)
 山南敬助は土方歳三をみつめつづけた。
 (土方君、知らなかったよ)
 (そうさ。おれは口には出さねえからな)
 (なぜ、おれだけにでも云ってくれなかったのだ)
(云ったところでおなじさ。日本に攘夷はできねえんだよ)
 眼と眼で、山南敬助は土方歳三とそう語りあった。
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