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<本文から>
五十二歳にもなれば、いまさら若者のように一国一城の主になりたいなどという野望はない。また、
「能力に応じた処遇をしてもらいたい」
という期待もない。勘助は長年の修行で、″行雲流水″的な生き方を身につけていた。自分の期待が実れば実ったでいい。が、実らないからといってべつに落胆もしない。そういう感情の起伏は若い時代のことだ。
(この年齢になれば、何が起ころうと自然に受け入れられる)
と思っている。だから、だれが仕組もうと企もうと、自分が甲斐国の武田家に行くことはいわば、
「天の命じた道」
なのである。結局は、みんなからよってたかって邪魔者にされた形にはなるが、だからといってそれが自分に課された天の道であるなら、従容とその道を歩いて行くほかはない。荒修行を続けながら、この国の詰所を歩きまわっていて勘助が感じたのは、
「どんな苦境におちいっても決して悪あがきはしない」
ということである。置かれた立場を構成する条件をそのまま受容すれば、それなりに道は開ける。ばたばたして慌てるとせっかく見えかかった道もどこかへ消えてしまう。いままで何度そういう目に遭ったことか。この人生観は、体のあちこちに残っている傷跡が生んだものだ。勘助は肉体に八十敷か所も傷を負っている。しかしそれは合戦によって得たものではない。山中の荒修行によって、若や風雪がつけた傷だ。死ぬ思いもたびたびした。その傷の痛みを感ずるたびに、勘助の心の中に強い縄が縒られていった。その結び目は固く、おそらく死ぬまで解けることはないだろう。 |
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