童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国一の孤独な男−山本勘助

■勘助の行雲流水的な生き方

<本文から>
  五十二歳にもなれば、いまさら若者のように一国一城の主になりたいなどという野望はない。また、
 「能力に応じた処遇をしてもらいたい」
 という期待もない。勘助は長年の修行で、″行雲流水″的な生き方を身につけていた。自分の期待が実れば実ったでいい。が、実らないからといってべつに落胆もしない。そういう感情の起伏は若い時代のことだ。
 (この年齢になれば、何が起ころうと自然に受け入れられる)
 と思っている。だから、だれが仕組もうと企もうと、自分が甲斐国の武田家に行くことはいわば、
 「天の命じた道」
 なのである。結局は、みんなからよってたかって邪魔者にされた形にはなるが、だからといってそれが自分に課された天の道であるなら、従容とその道を歩いて行くほかはない。荒修行を続けながら、この国の詰所を歩きまわっていて勘助が感じたのは、
 「どんな苦境におちいっても決して悪あがきはしない」
 ということである。置かれた立場を構成する条件をそのまま受容すれば、それなりに道は開ける。ばたばたして慌てるとせっかく見えかかった道もどこかへ消えてしまう。いままで何度そういう目に遭ったことか。この人生観は、体のあちこちに残っている傷跡が生んだものだ。勘助は肉体に八十敷か所も傷を負っている。しかしそれは合戦によって得たものではない。山中の荒修行によって、若や風雪がつけた傷だ。死ぬ思いもたびたびした。その傷の痛みを感ずるたびに、勘助の心の中に強い縄が縒られていった。その結び目は固く、おそらく死ぬまで解けることはないだろう。
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■信玄は民のために合戦し人材を登用する

<本文から>
(晴信様はおもしろいお館だ)
 と感じた。こんな大将に会ったのは初めてだ。しかし晴信の言うことは正しい。普通大将は、軍師(参謀)を置いておいて、合戦をはじめる前に必ず軍師の意見を聞く。したがって、主として合戦の作戦を立てるのは軍師だ。大将はそれに対し、承認したり否定したりする。大概は、
 「よし、その作戦で行こう」
 と決定する。どんなに軍師を頼りにしていても決定権は大将一人の固有の権限だからだ。ところが晴信の場合は違った。
 「作戦もおれが立てる。だから軍師は置かない。しかし、山本勘助よ、おまえはおれが作戦を披露したときには必ず賛意を示せ」
 ということである。つまり山本勘助は武田晴信の引き立て役をつとめろということだ。勘助は心の中で笑いながら、一人おもしろがった。そして、
 (言われたとおりにしよう)
 と思った。が、かれもしたたか者だ。聞いた。
 「お館のご意向に従いますが、一つ二つ伺ってもよろしうございますか」
 「ああ、何でも聞け」
  晴信は受けて立つ構えを見せた。気負いはない。しかしその構えの底には、
 (おまえには絶対に負けぬぞ)
 というような若武者らしい街気も見えた。勘助は聞いた。
 「そもそもお館は合戦をどのようにお考えでございますか」
 「三つの考えを持っている」
 晴信は即座に答えた。
「一つは、敵の状況を詳しく知り、これを分析する。そして、大事なことはすべて部下に知らせておく。二つ目は、合戦の勝敗は六分か七分を持って勝利とする。決して、九分、十分の勝ちを狙ってはならない。これは逆に大敗の原因になる。三つ目は、武士として四十歳前は勝つように心掛け、四十歳から先は負けぬように心掛けることが大切だと思っている」
 立て板に水を流すようにそう言った。勘助は聞いていて、
 (練りに練ったお考えだ)
 と感じた。思いつきでこんなことを言っているわけではない。しかしまだ二十歳をちょっと過ぎたばかりの晴信がこんなことを言うのには、いままでどれだけ膨大な量の軍略書を読み、それについて考えてきたか計り知れなかった。勘助は晴信の偉大さに驚いた。特に、
 ●作戦展開で重要なことはすべて部下に知らせておく
 ●勝ちは六分、七分をもってよしとし、九分、十分の勝ちは求めない
 という考えは、実に老成したものであって、若年者の考えではない。それだけでもこの武田晴信という大将が、いかに傑出したものであるかを物語っていた。最初に聞いた大将の功名について、晴信は、
 「人の目利すなわち人材登用と、国の仕置すなわち民への治政が大切だ」
 と述べた。これは突っ込んでいえば、
 「民の暮らしを豊かにするためにおれは合戦を行うのだ。そのために有能な人材を登用するのだ」
 ということになる。つまり合戦の目的は、
 「民のため」
 であり、その合戦も、
 「有能な人間によって行う」
 という道筋をきちんと立てている。小気味よかった。勘助の頭の中はすがすがしくなった。駿府時代にうごめいていた厚い雲が完全に裂け、上方から輝く陽光が射し込んだ気がした。こんな晴れ晴れした気分はいままで味わったことがない。勘助は、
 「このすがすがしさは、すべて晴信様の発する気(オーラ)に根ざしている」
 と感じた。勘助は聞いた。
 「お館の合戦・治国の要諦はいずこにございますか」
 晴信はにやりと笑った。こう答えた。
 「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し。侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
 「孫子でございますな」
 勘助はそう言った。晴信は領いた。そして、
 「風林火山。おれが合戦のときに掲げる旗だ。そしてこれがおまえの言う合戦と治国の要諦だ」
 そう言った。
 「風林火山」
 勘助は呟いた。そして、
 (まさに、このお館の気質をそのまま表している言葉だ)
 と思った。その勘助に晴信がさらに言葉を投げつけた。
 「山本、おれは人を用いぬぞ。人のわざを用いる」
 勘助は領いた。晴信が言うのは、
「おれにとって、人がいいとか立派だとかいうことは関係ない。能力だけが大事なのだという合理的な割り切った考えなのである。この朝、勘助は晴信から徹底的に、
 「武田晴信のすべて」
 を叩き込まれた。
■信玄が見誤った性格
甲府に戻ってからも、勘助は毎日のように晴信に呼ばれた。軍談や兵法の話だけではない。晴信は「人間論」も語った。
 山本勘助が武田晴信という若い大名に、底の知れない恐ろしさを感じたのは、ある日、晴信が勘助に語った次のような人間観であった。
 「わしはいままでしばしば人を見聞違えた。それが人材登用の面で大きな過ちを犯す結果を生んだ。いま気をつけている」
 そう言って、いろいろな種類の人間のタイプを並べた。つまり、晴信自身が、
 「見誤った性格」
である。
 ●隙だらけの人間を落ち着いた人間と見誤ったこと
 ●軽率な人間をすばしっこい人間と見誤ったこと
 ●優柔不断でグズな人間を沈着な人間だと見誤ったこと
 ●早合点するそそっかしい人間を敏捷な人間と見誤ったこと
 ●頭の働きがゆっくりしている人間を慎重な人間と見誤ったこと
 ●脈絡もなくべらべらしゃべる人間をさばけた人間と見誤ったこと
 ●ガンコな人間を剛強武勇の人間だと見誤ったこと
 「わしもまだ若年だ。至らぬ人間だからしばしば人を見誤る。大将としては恥ずかしいことだ。いまは気をつけている。おぬしも以前見たように、軍談を聞く子供でさえあのように反応が幾種類にも分かれる。人間とは複雑なものだ、な?」
 最後は共感を求めるように言った。勘助は領いた。
▲UP

■勘助に買われたサキの智恵

<本文から>
「薪はもっと安くなります」
「どうするのだ?」
「この辺の村里には林がいっぱいあります。倒れかかった古本もあります。あれをただでもらってきたら、燃料費はいらなくなります」
「そんなことができるのか」
「やってみます。ただ」
「ただ、何だ?」
「古木をもらった村には、新しい苗木を差し上げたいと思います。ですから、苗木を買うお金が少しいります。全くのただというわけではありません」
「苗木の代金など知れている。しかしおまえは随分と工面がうまいな」
 勘助が感心しているとサキはこう言った。
「志賀城では苦労しましたから」
「こいつめ」
 自分のお株を取られたので勘助は拳を固めてサキを打つまねをした。サキは飛び下がった。脇で猪太郎がキヤツキヤとはしゃいだ。サキは自分の案を実行した。手伝いに来る足軽の家族たちを連れて村々を歩きまわった。そして倒れかかった老木の持ち主に交渉してはその木をもらい受けた。理由を聞いて木の持ち主は、自分で木を倒し、さらに細かく切り砕いて薪にして渡してくれた。なかには、
 「重いから」
 と言って自分が背負って届けに来る者さえいた。勘助は呆れた。そこで勘助はサキにまた金の袋を渡した。
 「苗木の代金とおまえたちのご苦労賃だ。みんなにも分けてやってくれ」
 サキの才覚は、近所の武士の家に勤める連中の羨望の的になった。みんな、
 「山本様のところに奉公したい」
 と言い出す始末だった。勘助自身の支出が増えたわけではない。薪代もただ同様だったし、みんなにご苦労賃を払っても収支はべつに崩れたわけではなかった。そしていつのまにか、足軽の家族たちの魚や野菜の持ち帰りがなくなった。サキの知恵によっていろいろな家計上の工夫をするので、自分たちも気まずい思いをして魚や野菜を盗むようなまねをしなくてもすむようになったからである。みんな明るくなった。足軽の家族たちも、
 「山本様のおうちのお手伝いができて幸せだ」
 と言い合った。これが亭主のほうにも響いていく。初めのうちは勘助を新参者と思い、同時にまたその姿に対し蔑みの気持ちを持った者もいたが、次第にそんなものは消えた。いまでは二十五人の足軽は心から山本勘助を尊敬していた。それは山本勘助が新参のせいもあるだろうが、勤務年数が重なってきても、決して自分個人の立身出世を願うような色が全くなかったからである。
「うちの隊将はめずらしい人だな」
 足軽たちはよくそんな噂をした。
「家中では立身出世競争が盛んで、往々にして人の足を引っ張ったりするものなのに、山本様は絶対にそんなことはしない。お館への忠誠心一本やりだ。本当に立派だなあ」
 評判がいい。金丸佐平がある日ぶらりとやって来て言った。
「隊将、女房をもらわなくてもいいんですか」
「べつにいいよ。なぜだ?」
「いや、夜がご不自由ではないのかと思いましてね。うちの女房も心配してます。初めはおサキをこの家に入れたとき、そういうこともさせるのかと思っていたんですが、どうもそうでもないらしい。どういうおつもりですか」
 「どういうつもりもなにもないよ。おれはおれだ」
 「お困りになりませんか」
 「ないよ」
▲UP

■臆病武士と言われた岩間のメンテナンス上手

<本文から>
「信濃国の治国の方針を中途半端にしたまま突入したのが、今回の敗因の大きな原因である」
 ということだと思った。普通の大将ならこんなことは言わない。負け惜しみを言うだろう。そして敗北後さっさと甲府に引きあげたに違いない。しかし武田晴信は二月十四日の敗戦後、およそ二十日近くもあの千曲川の畔に座り続けたのである。会議を閉じる前に晴信は最後にこう言った。
 「しかし、今度村上勢に敗れたのはもう一つ大きな敵がいたためだ」
 大きな敵とは何だろう、隊将たちは一斉に晴信を見た。晴信は突然あっはっはと高く笑った。そしてこう言った。
 「雪だ。あの大雪がわれわれを破ったのだ。これからは信濃に攻め込むときは気をつけよう、な」
 な、と念を押した。みんなも笑った。敗戦後、初めて武田家中が上げた笑い声であった。晴信軍が躑躅ケ崎の館に戻ったのは三月二十六日のことである。例によって、みんなから一時期″臆病武士″とばかにされていた岩間大蔵左衛門が、とくとくとして門の前まで迎えた。留守中にかれが指揮をした使用人たちも揃って頭を下げた。岩間大蔵左衛門は当然、今度の敗戦を知っている。しかしかれはいまでは、現代でいう″メンテナンス″の達人だったので、晴信が留守の間は館の管理の監督者になっていた。館内を掃除しピカピカに磨き上げ、そして塵ひとつ落ちていない状況に毎日保つよう使用人たちを叱咤激励した。その成果が上がって、今度も躑躅ケ崎の館は輝いていた。晴信はその状況を見ると岩間に目をとめ、
 「岩間、また館をきれいに磨きたてたな」
 とほめた。岩間は顔を赤くし、しかしうれしそうに頭を下げた。
▲UP

■キツツキ戦法は信玄自身の作戦

<本文から>
 ●別軍がキツツキのように妻女山の上杉軍を攻撃する
 ●驚いた上杉軍はそのまま山を下って渡河し、川中島に退く
 ●それを待ち受けていた武田本軍がこれを繊滅する
 という戦法であった。この合戦におけるキツツキ戦法は、
 「山本勘助が立案したものだ」
 といわれるが、筆者はすこし首を傾げている。というのは武田信玄が山本勘助をいわゆる″軍師″として合戦で活用した実績があまり発見できないからだ。それにこの本でしばしば書いてきたように、信玄そのものはあまり軍師の存在を重要視しない。自分に軍師的才質があると思っているから、このときもおそらく信玄自身が立てた作戦ではなかったろうか。しかしこの作戦は失敗する。それは上杉謙信のほうが一枚上手だったからである。謙信は妻女山からじつと海津城の動きを見ていた。突然海津城から煙の柱が何本も立ち上った。謙信は脇の者に言った。
 「武田軍が動くぞ」
 「なぜですか」
 「煙がいっせいに上った。あれは飯を炊いている煙だ。やつらは飯を食った後必ず動く。場合によってはここへ来るかもしれない」
 「ここへ7」
 部下はびっくりした。謙信は領いた。
 「キツツキ戦法だ」
 そう告げて謙信は、にやりと笑った。そして、
 「その手は食わぬ」
 そう言うと、ただちに全軍に命じた。
 「川を渡って川中島に出る」
 この後の上杉軍の行動が、のちに頼山陽の有名な詩に歌われる″夜河を渡る″ということになる。しかし、翌九月十日は、未明から川中島一帯に深い霧が立ち込めはじめた。武田軍は信玄が命じたとおり、二軍に分かれ行動を起こした。別軍の大将は高坂日日信がつとめた。昌信は張り切っていた。山本勘助は信玄の供をして本軍に加わった。高坂は勘助に言った。
 「山本殿、場合によってはこれが今生のお別れになるかもしれません」
 「うむ、おぬしの活躍を祈る」
 「山本棟もどうか武運のお強きを」
 「おぬしもな」
 二人はそう言って別れた。
▲UP

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