童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説山本常朝 「朝葉」の武士道を生きた男

■不動明王のごとく

<本文から>
 「不動明王の周りに炎が噴き立っているのは、あれは不動の怒りであり憎しみでありいろいろな怨念だ。燃え盛る炎となって自分を包んでいる。しかし不動明王は、決してその炎で他人を焼こうとはしない。つまり、かれは自分の苦悩を世の中への対抗要件にして、おれがこれだけ苦労したのだから、おまえたちに仕返しをしてやるなどとは思っていない。この世の不正義を焼こうとしているのだ。
 つまり、自分自身に起こったいじけやひがみや怒りや憎しみを、不正義を焼く正義の心に変えてこの世に現れたのだ。おまえの場合はちがう。自分の受けた不当な扱いを恨みに変えて、世の中に報復しようとしている。
 同じ炎を燃え立たせていても、不動明王は公の精神をもって炎を吹き立てているのであり、おまえの方は自分という小さな我執に正当性を与えようとしてあがいているのだ。おまえがどんなに光茂さまや綱茂さまに忠節を尽くしたといっても、まだ自分を捨てきっていない。
 忠誠心の中に自分を完全に投入していない。自分に拘わる小欲がありありとみえる。そんなことでは不動の膝元にも及ばない。不動と自分を一緒にするなど大それたことだ。とんでもないことを考えるな。この小僧め」
 口をきわめて罵った。
 甚然和尚はもともと変わった人だと思っていたから、常朝は腹を立てない。しかし悔しかった。何もこんなに言柴をきわめて罵らなくてもいいではないかと思った。
 が、落ち着いて考えてみれば甚然のいうことは正しい。炎を吹き立てて怖い形相をしている不動明王をみて、「まさしくあの炎は自分だ」と思ったが、それは傲慢というものだ。自分を過大視しすぎる。たしかに甚然和尚のいうように不軌明王の足元にも及びもつかないのに、「自分のいまの心の状況は、この不軌の画像と同じだ」などといい切るのは、傲慢だ。
 

■人間は弱いが、最後まで貫き通すのが、正しい人間の生き様

<本文から>
山本常朝が石田一學から学んだことは、次のようなことだ。
・人間の意志は弱い。鉄の意志などというものはあり得ない。普通、
「信念を貫く」
とか、
「信念を保つ」
といわれるが、それは決してその人間が不動確固たる気持ちを貫き通せるということではない。二元である以上、いつも気持ちはグラグラする。ともすれば崩れようとする。その崩れようとする気持ちを抑え込み、自分が正しいと信じることをいかに保っていくか、その自己抑制の営みをいうのだ。
・従って、信じるということは意志の持続であって、そういう気持ちになったからといって、それを貫き通せるような人間はこの世に存在しない。人間はすべて弱い存在である。
・世の中は変わる。それに応じて、人間は生き方を変えなければならない。それがつまり自己変革ということである。しかしだからといって、常に変わる世の中に対応して、何が何でも自分を変えればいいということではない。変えなければいけないことと、変えてはならないことがある。変えてはならないことは、どんな世の中になろうと最後まで貫き通すのが、正しい人間の生き様なのだ。
山本常朝は石田一學からこういうことを学んだ。

■臣、臣たれば、君も君たれ

<本文から>
山本常朝が書いた『兼隠』は、決して無批判に、
「君、対たらずとも、臣、臣たれ」
などといっているのではない。常朝はむしろ、
「臣、臣たれば、君も君たれ」
 といっているのだ。つまり昔の武士の原点であった、
 ・人生意気に感ず
 ・あ・うんの呼収
 ・以心伝心
という美風をよみがえらせたかった。しかしそうなるにしても、
「まず、部下が部下らしくしなければならない」
というのがかれの主張であった。その主張を貫くには、
「部下も自己努力をしなければだめだ」
と考える。部下の自己努力というのは、
「そういう主張を口にできるような資格を自らつくり出せ」
ということだ。それを常軌は、
「自分の忠誠心を、露骨に口に出して表明するな。胸の中にジッと抑え込んで、主人が気がまで待て」
 ということてある。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ