童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          異才の改革者 渡辺崋山

■渡辺崋山は実際に農民に役立つ絵の依頼に喜ぶ

<本文から>
 「農民たちに新しい農耕具をつくらせたいので、それを図で示して理解させたい」
 と申し出られたときは、崋山の生命は躍った。つまり、
「自分の描く農耕具の絵が、農民たちの仕事の助けになれば、こんなうれしいことはない」
 と感じたからだ。いままで描いてきた絵は、どちらかといえば人物画とか花鳥画などの自然を扱ったものだ。つまり鑑賞画である。ところが大蔵永常が求めるのは、
 「実際に農民に役立つ絵」
 である。実用画だ。崋山はうれしかった。
「承知しました。その農耕具をみせていただきたい」
 と承知した。
 大蔵永常が農政指導者としてすぐれていたのは、次のような考え方を持っていたからだ。
・農家が富むことによって藩も富む
・農家が富むには、農作物の新しい開発をおこなわなければならない
・新しい農産品の開発は、「これしかできない」という固定覿念を持っていてはできない。他国でつくられた農作物も勇気を持って「実験栽培してみよう」という積極性がなければだめだ
・しかし新しい農作物の開発にしても、単に「やる気さえあれば何でもできる」という観念論ではだめだ。やはり道具が大事だ
・新しい作物をつくるには、その作物にみあった農耕具がある。そのため、諸国で使われている農耕具を可能な限り調べ、活用することが必要だ。そのほうがかえって労力と時間を省略できる
・自分は、諸国をあちこち歩いているので、「こういう農作物をつくるには、この地方ではこういう農耕具を使っている」ということをよく知っている
・それを、多くの地域の農民たちに示したい
 だから渡辺崋山に、
「この土地で、新しい農作物を栽培するため農耕具を図に描いていただきたい」
 と告げたのには、目的があった。大蔵永常は、
「田原の土地で、砂糖栽培と紙の製造をおこなってみよう」
と考えていたのである。
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■尚歯会は、もとは「どうすれば窮民を救済できるか」という集まりであった

<本文から>
 のちには、会員の一部から、
「尚歯会は、すべて崋山のこと蘭学にて大施主なり」
といわれるように、崋山が主宰者であって、その学識を慕って多くの憂国の知識人が集まってきた、といわれるようになる。が、もともとはそういう性格の会ではなかった。紀州藩の儒者遠藤勝助が、
「天保四年にはじまる全国的な飢饉の惨状を憂い、どうすれば窮民を救済できるか」
 という、「現実対応の集まり」であった。これに、渡辺崋山や高野長英たちが積極的に参加していた。しかし、
 「日本国内の飢饉をどうすれば解決できるか」
ということは、必然的に、
 「国際状況下における日本のあり方」
 に結びついていく。そのために、尚歯会はやがて、「日本の国防問題」を、主な議題とするようになった。そうなると、徳川幕府の中からもこの会に参加して、自分の見識を述べる者も増えてきた。
 この尚歯会の番外顧問格で参加していたのが、佐藤信淵である。経済学・農政学・国防学・宇宙学などの権威だった。つかえる田原藩の農業振興に熱心な崋山は、天保五(一八三四)年には、有名な農学者大蔵永常を藩の産業指導者として招いている。農民にわかりやすい農業指導書『門田の栄』を書いてもらって、その中に自筆の挿絵を加えて、
 「わかりやすい農業指導書」
 として、領内の農民に配布したこともあった。そして、尚歯会で知り合った佐藤信淵を、今度は天保八(一八三七)年に田原に招いた。「農地農政の講習会」を開き、藩士や多くの農民に公開講座としてその講義をきかせた。『経済要略≡経済総録』『経済要録』など、「国民経済に関する著書」が多い。
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■渡辺崋山は穏健で良識的な学者だった

<本文から>
″蛮社の獄″などという妙なネーミングをつけられているので、あるいは人によっては
 「渡辺崋山は、さぞかし過激な思想の持ち主だったのだろう」
 と思うかもしれない。しかしちがう。渡辺崋山はどちらかといえば、
 「穏健で良識的な学者だった」
 といっていい。絵も描いた。同時に、三宅家の家老でもあった。若いころは、
 「藩主の交替劇」
 で、旧藩主の血統を守るべく運動グループの先頭に立った。そういう正義感もあった。しかしだからといって、
 「すぐ二者択一を急ぐ短絡者」
 ではない。むしろ、
 「情報を基に、考えに考え抜いて、選択肢の中から最良と思うものを選ぶ」
 という慎重派だったとみていい。
 ぼくはこのごろ、いまの複雑化する社会の中の一隅に身をおいていて、
 「是か非でなく、どちらでもない第三の生き方」
 について深く考えるようになった。たとえば、宮本武蔵などはその典型だ。武蔵が生きた時代は、戦国時代が終わって江戸時代の初期に突入したころだ。
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■″蛮社の獄″は鳥居耀蔵の私怨から起こした″尚歯会撲滅″計画だった

<本文から>
 しかし、この事件が、まもなく起こる、
 「蛮社の獄」
 の大きな原因になったことはたしかだ。それも、鳥居のこの測量問題における、
 「私怨」
 が動機だ。世の中で起こるさまざまなできごとに対し、
 「人間を行動に駆り立てるのは、愛よりも憎しみのほうがパワーがある」
 とみる人がいる。ある場合には当たっている。というのは、鳥居耀蔵がまさしくそうだったからだ。かれがいろいろなことをおこなった動機はすべて、
 「怨み・憎しみ」
 であって、決して相手に対する愛ではない。鳥居のような性格を持った人間がいたことは、尚歯会メンバーにとっては非常に不幸であった。
 鳥居耀蔵は、浦賀測量事件の怨みを忘れなかった。測量終了後、江川太郎左衛門が使った内田と上田のふたりについて、綿密な調査をおこなった。わかったことは、ふたりが高野長英の門人であり、長英の推薦によって渡辺崋山がこれをさらに、江川太郎左衛門に推薦したことがわかった。
 「そういう段取りだったのか」
  鳥居耀蔵はほくそ笑んだ。名の出た連中のすべてが尚歯会のメンバーだったからだ。
 「おのれ尚歯会め」
 憎悪と復讐の怨念に燃える鳥居はまさに蛇になった。そして尚歯会はその蛇に睨まれた蛙だった。鳥居耀蔵は心を決めた。それは、
 「この際一挙に尚歯会を叩きつぶしてやる」
 という企てだ。執念深い蛇に睨まれた蛙として、尚歯会の存在は風前の灯に変わった。そして、真っ先に血祭りにあげられたのが渡辺崋山であった。スパイ政治の好きな鳥居は、ひそかに尚歯会に花井という腹心を加入させた。そして花井から得る報告によって、
 「尚歯会撲滅」
  の計画を立てた。渡辺崋山弾圧の日はまもなくやってきた。天保十(一八三九)年五月十四日、渡辺崋山は突然江戸町奉行所に出頭を命ぜられた。すぐ揚がり屋(武士が収容される牢)に入れられた。そして、自宅の捜索を受けた。このとき役人は、崋山の蔵書・往復書簡などを長持いっぱいに詰めて持ち出した。
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■『憤機論』を根拠に逮捕されるが恩師らが老中に陳情した

<本文から>
 『憤機論』
 は、鳥居耀蔵をよろこばせた。いままでの失敗を全部帳消しにしても、なお余りあるような収穫であった。崋山はあきらかに、このメモの中で、幕府を批判している。それだけではない、
 「本来なら、幕府の学問的よりどころとなる儒教の唱え手である儒臣がものの役に立たず、処世法にばかりうつつを抜かしていて、肝心なことをなにもしない」
 という指摘があった。これは鳥居耀蔵にすれば、自分の生家である幕府の大学頭際に精神的な助言をすべきは儒臣(儒学をもって幕府に仕える学者)なのだが、この儒臣がまた志が低く、堕落し切っている。いったいどうすればいいのだろう」という意味にとれる。鳥居の胸に怒りの火が吹き上がり、それが炎となって燃え上がった。
 「渡辺のやつは、絶対に厳罰に処さなければ気がすまない」
 と公的なものだけではなく、私的な怨念もわいた。いまでもそういう人間がいるが、いったん、
 「こいつは悪いやつだ」
 と思いこむと、なにがなんでも悪人にしないと気がすまないタイプの人がいる。鳥居がそれだった。したがって、
 「こいつは悪いやつだ」
 ということを証拠立てるようなものはどんどんとり入れる。が、逆に、
 「こいつは悪くない」
 というような証拠があると、これは握りつぶしてしまう。こういう人間に狙われたら本当に恐ろしい。
 つまり、
 「先入観や固定観念によって、人間をきめつける」
 というタイプだ。鳥居耀蔵は、幕府権力の代弁者だから余計恐ろしい。渡辺崋山は悪いやつに睨まれたのである。
 渡辺崋山の取り調べは長引いた。その間に崋山は下痢を患った。これはつらい。
 そして、崋山が取り調べられている間に、おなじ尚歯会のメンバーであった小関三英が自殺した。三英は、あまり気が大きいほうではない。そのために、崋山と高野長英の逮捕のことをきくと、頭を抱えこんだ。
 「まもなく、自分にも捕縛の役人がやってくるにちがいない」
 と思いこんだ。鳥居は、小関三英など問題にしていなかった。かれが狙っているのはあくまでも渡辺崋山ひとりだ。ところが、崋山の調べが思うようにすすまない。それは、崋山の恩師や知己などが、陳情団体をつくって、直接老中の水野越前守忠邦に歎願書を提出したからである。崋山の師松崎懐堂が先頭に立って、多くの崋山の知友・門人たちが署名した連判状をつくり、
 「渡辺崋山は、決してそんな人物ではありません。どうかご宥免願いたい」
 と願いつづけた。松崎懐堂はすでに高齢だったが、幕府でも老中をはじめ諸大名が言おいている老学者だ。その悌堂が先頭に立って、崋山の宥免に奔走しているのだから、老中の水野も考えざるを得なかった。そんなときに、もうひとりの標的だった高野長英が自首した。
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■在所において蟄居を命ずるという判決

<本文から>
 こういう複雑な絡み合いのある政治情勢の中で、渡辺崋山が江戸町奉行筒井和泉守政憲から判決の申し渡しを受けた。筒井が渡辺崋山に下した判決は、
 「在所において蟄居を命ずる」
 というものであった。崋山は、
(おそらく生命はあるまい)
 と切腹を覚悟していたので、これにはホッとした。筒井は大坂町奉行をつとめたときに、大塩平八郎を信頼した。職務上、崋山とおなじように、かれも大塩平八郎が蜂起するときにばらまいた、
「なぜ反乱を起こすのか」
 という趣意書を手に入れていた。鳥居耀蔵によれば、
「渡辺崋山は、その趣意書に賛同している。あるいは、大塩の乱の一味かもしれない」
 といっていたが、筒井は笑い捨てた。かれは崋山をよく知っていた。
「渡辺さんが大塩の趣意書に関心を持ったとしても、それはなぜこういうことが起こるのかという探求心のあらわれであって、決して同調するものではない。渡辺さんは、藩や幕府に忠実な武士だ」
 と部下たちに告げていた。だから判決を下したときも渡辺崋山に対しては同情的で、
 「こういう結果になって、すまないと思っています」
 と逆に謝罪した。水野や鳥居のからむ複雑ないまの状況のなかで、この判決が筒井にできる精いっぱいの厚意だった。崋山はおどろいて宙で手を振った。
「とんでもございません。わたくしの不心得によって、お奉行にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
 と丁重に詫びた。
 いっぼう、高野長英に対する判決は、
 「永牢を申しつくる」
 というものであった。永牢というのは、
 「死ぬまで牢獄につないでおく」
 というものである。現在でいう「無期懲役」のことだ。長英はびっくりした。かれにすれば、
 「おれのやったことは、渡辺先生とそれほど変わりはないではないか」
 という認識がある。にもかかわらず、渡辺先生が故郷で蟄居になり、自分は死ぬまで牢につながれるというのは、
 「やはり身分の差のせいだ」
 と改めてこの世の制度のきびしさを知った。
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■崋山は切腹した

<本文から>
 母が先生の襟を開いて見ますと、腹にまいた白い布に赤い血がにじみ出ていました。武士らしく腹を切って、みずからのどへ止めをさした最期です。
 『立派でした……』
 母の日に涙が一ばいたまっています。
 天保十二(一八四一)年十月十一日のことで、崋山先生は四十九才でした。
 母とたかは親せきの人にも立ちあってもらって、先生の部屋をしらべてみますと、先生の書きおきが見つかりました。たて長の白い画絹に、
 『不忠不孝渡辺登』と、大きく書き、そばには小さい字で、
 『罪人石碑相成サルヘシ 因テ自書』
 と書いてあります。これは、罪人のことだから、墓石をたてることはできないであろう。それで墓石のかわりに自分で書いておいたという意味です」
 情景の意が尽くされていて、加えるものはなにもない。また余計な推測で書き加えるのは崋山の霊に対しても申しわけない。崋山が自殺した物置小屋というのは、かれが田原藩の農政改革のために招いた大蔵永常が砂糖を実験製造していた小屋であった。崋山の遺書、
 「不忠不孝ゆえ墓碑無用」
 という意味のことを書いた一文は、痛切な響きをもって胸に迫る。
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