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<本文から> ここでは、「革命での西郷の役割をすべて書き記そうとすれば、革命通史を書くことになる」と前置きしながらも、「ある意味で一八六八年(慶応四年、九月八日に明治と改元)の革命は西郷の革命だったと言えるかもしれない」と書いている。
もちろん、革命という大事業が一人でできるわけはない。したがって内村鑑三さんも、この事業に携わった人びとが大勢いて、しかも西郷よりすぐれた人物もいたと正直に書かれている。
西郷は経済計画には無能であって、内政については木戸孝允(桂小五郎)や大久保利通のほうが精通していた。また、革命後の和平の定着に関する職務には三条実美や岩倉具視のほうがすぐれていたとする。
消去法的な考え方をすれば、ほかの人間がいなくてもこの維新は成立しただろうが、内村さんは「西郷がいなかったら絶対に実現しなかった」と断定される。それは革命のすベての出来事に対し、「西郷から始まり、西郷が方向づけしたと信じているからだ」と書かれている。
原文ではこのあと、藤田東湖との出会いののち日本に起こったさまざまな事件に、西郷がどう関与していったかが書かれている。
そして倒幕戟争のあと、幕府側の代表者である勝海舟との会見にくわしく触れている。
会見した二人は愛宕山に登った。眼下に広がる江戸の町を見ながら、勝がぽつんと言った。
「私たちが武器を戦わせるようなことになれば、なんの罪もないあの人たちが、私たちのせいで苦しむことになるだろう」
このひと言が西郷の胸を打った。そして平和的な江戸開城が実現する。
維新成立後、首府束京に出てきた西郷は政府の「参議」という要職についた。しかし同僚たちとは考えが違った。それは同僚たちがここにとどまろうとしているのに対し、西郷は「新しい出発点」と考えていたためである。 |
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