童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          内村鑑三の代表的日本人

■ほかの人間がいなくても、西郷がいなかったら維新は実現しなかった

<本文から>
 ここでは、「革命での西郷の役割をすべて書き記そうとすれば、革命通史を書くことになる」と前置きしながらも、「ある意味で一八六八年(慶応四年、九月八日に明治と改元)の革命は西郷の革命だったと言えるかもしれない」と書いている。
 もちろん、革命という大事業が一人でできるわけはない。したがって内村鑑三さんも、この事業に携わった人びとが大勢いて、しかも西郷よりすぐれた人物もいたと正直に書かれている。
 西郷は経済計画には無能であって、内政については木戸孝允(桂小五郎)や大久保利通のほうが精通していた。また、革命後の和平の定着に関する職務には三条実美や岩倉具視のほうがすぐれていたとする。
 消去法的な考え方をすれば、ほかの人間がいなくてもこの維新は成立しただろうが、内村さんは「西郷がいなかったら絶対に実現しなかった」と断定される。それは革命のすベての出来事に対し、「西郷から始まり、西郷が方向づけしたと信じているからだ」と書かれている。
 原文ではこのあと、藤田東湖との出会いののち日本に起こったさまざまな事件に、西郷がどう関与していったかが書かれている。
 そして倒幕戟争のあと、幕府側の代表者である勝海舟との会見にくわしく触れている。
 会見した二人は愛宕山に登った。眼下に広がる江戸の町を見ながら、勝がぽつんと言った。
 「私たちが武器を戦わせるようなことになれば、なんの罪もないあの人たちが、私たちのせいで苦しむことになるだろう」
 このひと言が西郷の胸を打った。そして平和的な江戸開城が実現する。
 維新成立後、首府束京に出てきた西郷は政府の「参議」という要職についた。しかし同僚たちとは考えが違った。それは同僚たちがここにとどまろうとしているのに対し、西郷は「新しい出発点」と考えていたためである。
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■西郷が反逆した理由は、政府が自身の構想とかけ離れたものだった

<本文から>
 ここでは、冒頭から、「西郷の人生にとって惜しまれるべき最後の時代については、あまり述べる必要がない」と内村鑑三さんも書く。そして、
 「西郷が時の政府に背いて反逆者となったのは事実である。なにがこういった立場にかれを追いつめたのか、その動機についてはさまざまに推測されてきた。昔からの情の細やかさ≠ェ反逆側と結託した主な理由だというのがきわめて妥当な見解である」
 と書かれている。さらに、
 「西郷が時の政府に強い不満を抱いていたのは言うまでもない。しかし西郷のような思慮分別の備わった人間が、単なる恨みや憎しみのために戦争に向かうとは考えられない」
 とし、内村さんはその理由を、
 「反逆は人生の大きな目的に失望した結果だと主張するのは間違っているだろうか」
 と、ご自身の考えを提起されておられる。
 西郷自身の挫折した大目的というのは、おそらく実現した維新政府の有り様が西郷の考えていた構想とは大きくかけ離れたものだったということだろう。内村さんは、
 「敗れたあと城山で部下に首を討たせた西郷は、日本の歴史における最後のサムライ≠セったのではないかと思う」
 と結んでおられる。
 ちなみに、先般アメリカでトム・クルーズが主演し、日本から渡辺謙が参加した『ラストサムライ』という映画があった。消息通によれば、あの映画のテーマは「西郷隆盛と大久保利通の対立」に発想されたもので、渡辺謙が演じた日本の武将は西郷をモデルにしているのだと言う。
 そして題名のラストサムライ″ということばは、あるいはこの映画を監督したエドワード・ズウィックやそのスタッフが、内村鑑三さんの『代表的日本人』の内郷隆盛の部分を英語版で読んでヒントを得たのではないかという気もする。
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■戦後に否定された戦争中に書かれた人物伝記を読み直す

<本文から>
 この本を選んだのには理由がある。最初に書いたように、わたしはたとえば二宮金次郎に対し、小学校の教師が、「この銅像になっている金次郎少年は、この学校からも多くの子どもを戦場に送り出した張本人だ」と言っていることに腹を立て、相当な疑いを持った。
 そこでわたしは、「そうであるなら、逆に戦争中に書かれた人物伝記を読み直してみよう」と思い立った。当時は「大政翼賛」が叫ばれ、戦争遂行のための国策に協力することが善とされ、これに反対することはすべて悪とされた。おそらく日本産業報国新聞社が発行した『史伝上杉鷹山』も、鷹山の農業振興と期待される人物像の育成に力点が置かれたのだろう。
 ところが戟争中に刊行されたほかの出版物についても同じだと思うが、必ずしも著者たちは軍部や政府の言うことを鵜呑みにしてはいない。よく使う手だが、「序文」や「おわりに」という箇所でわずかに国策協力の姿勢を示してはいるが、本文はまったく違う場合がある。
 この『史伝上杉鷹山』についても同じことが言える。この本に書かれているのは、戦争遂行のための鷹山伝ではない。むしろ、「人間愛に満ちた鷹山のヒューマニズム」がテーマであり、同時に「地域における理想郷づくけには、なにが必要であり、そこに住む人間はなにをすべきか」ということが力強く善かれている。言ってみれば、現在しばしば問題になる、「真の地方自治はいかにあるべきか」という。
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■二宮は「報徳仕法」を提唱

<本文から>
「報徳仕法」を提唱した。
 報徳仕法の三本柱は、
 一、分度
 二、勤労
 三、推譲
 である。つまり、
 −収入にあわせた生活設計を立てる。
 −一所懸命に働く。
 −働いて得た利益のうち分度を超えるものはほかに差し出す。
  という考えだ。
  これを行えば、差し出された側は必ず、「恩を感じて、その徳に報いようという気持ちを持つ」ということである。
 この「推譲」のもとになった「譲る」という考えは、上杉鷹山の師であった細井平洲の説くところでもあった。鷹山に請われて平洲が米沢藩の藩校に興譲館という学校名をつけたのも『大学』に拠っている。
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■三百年経ても敬意を表される藤樹

<本文から>
 ここで内村さんは、藤樹の信仰心について語る。藤樹が無神論者でなかったことは、この国の神々に示していた深い敬意からも明らかだ。ただし藤樹の信仰は、さまざまな「願掛け」とはまったくかけ離れたものだった。かれが願ったのは正しくありたいということ、それだけだった。
 だからと言って藤樹は決して不幸であったわけではない。満ち足りた生活を送っていた。慶安元年(一六四八年)の秋、四十歳になった藤樹は、その人生にふさわしい臨終の時を迎えた。かれは門弟を呼び集めて、「私は逝くが、私の道がこの固から失われぬように見ておいてくれ」と言って世を去った。
 数年後、かれの住まいだった家は村人たちによって補修され、今日まで保存されている。中江藤樹の名を冠した神様も祀られ、かれを偲んで年に二回の祭りも行われている。
 藤樹の墓を尋ねると、村人が案内をしてくれる。村人は必ずと言ってよいほど儀式用の装束を肩からまとっている。
 村人たちに、なぜ三百年も前に生きていた人物にこれほど敬意を表するのかと尋ねてみてもらいたい。かれらはつぎのように答えるはずだ。
 「この村でも近在の村でも、父親は息子にやさしくし、息子は父親に孝行し、兄弟は互い に慈しんでいます。家では怒声が飛び交うこともなく、みなが柔和な面持ちで暮らしています。これもすべて藤樹先生の教えとその後の影響のおかげです。私たちはみな、先生の名前を感謝の気持ちを込めて崇敬しています」
 内村さんは、「いまの私たちは太鼓を叩いたりラッパを吹き鳴らしたり新聞藍口を打ったりして他人に影響をおよぼそうとするが、真の影響力とはなんであるのか、この人物から学ぶべきだ」とピシッと警告を発しておられる。そして、「バラの花が臼分の香りを知らない以上に、藤樹は自分の影響力を意識していなかった」と結んでおられる。
 藤樹自身、「真の聖賢は自己宣伝をしないから決して世に現れない。したがって世の中に名前の知れわたった者など聖人の数に加える必要はない」と語っている。
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■身ひとつで布教を始めた日蓮を畏怖した内村

<本文から>
−故郷にはねつけられた日蓮は、「学ぶにはふさわしい場所ではないが、真理を普及するにはふさわしい場所だ」と考え、鎌倉に向かった。そしていまも残る松葉ケ谷≠ニ言われる地に小さな草庵を建てた。現在、日蓮宗の信者は膨大な数にのぼり、しかも教場としての寺もおびただしく建てられている。内村鑑三さんは、「しかし、その最初はこの小さな草庵から始められたのだ」と説く。
 −身ひとつで布教を始めた日蓮は、建長六年(一二五四年)に最初の辻説法を開始した。当時の執権は北条時頼である。布教開始のときの日蓮の立場を、内村さんはご自身が信奉するキリスト教関係と比較する。
 キリスト教も日本でこのように始まったのだろうかと疑問を投げ、ミッションスクール、布教教会、金銭の手当て、人的支援などをあげ、「偉大な日蓮にはなにもなかった。彼はたった一人で始めたのだ」と日蓮の姿勢に畏敬の念を抱く。
 故郷では自説に対してすさまじい反抗と非難の声が湧き起こり、虐待された。常識的な人びとは、「鎌倉の執権は禅を崇拝しておられる。その信仰を悪し様に言うのはよくないのではないか」と非難した。これに対し日蓮は、
「私はホトケの使者である。世の中や人びとを恐れていては、その職を全うできない」
 と言い切った。
 一六年間、辻説法を続けた結果、やがて日蓮の主張は人びとの注目を引くようになった。門弟も増えた。幕府の要職にある者や、中には将軍家の近臣までやってきた。そうなると、「鎌倉全体が日蓮の影響下に置かれてしまう」という危倶が起こり、建長寺住職の道隆、光明寺住職の良忠、極楽寺住職の良観、大仏寺住職の隆観ら、大きな影響力を持つ高僧たちが集まり、日蓮の主張を弾圧するための協議を始めた。
 −日蓮には宗教を超えた特別な主張があった。それが『立正安岡論(国家に平和と正義をもたらすための論)』である。この中でかれは、「外国が必ず日本を襲ってくる」と明言し、そのことはお経の中にすでに書かれていると告げ、「救済法は室向の緯典である法華経をこの国全体で受け入れることである」と言い切った。これはかれの、「自宗か他宗か選択せよ」という、他宗に対する宣戟布告であった。
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■国家的見地から「日本国の危機管理をどう行えばいいか」という発想に立って布教したのは日蓮だけ

<本文から>
 最後まで書くことをためらったのが日蓮だ。正直に言って、「手が出ない」と思っていた。さらにわたしをためらわせたのは、日蓮に対する信仰団体の多さであり、属する人びとのおびただしさだ。
 「そういう人びとが、わたしの日蓮を読んだらどういう感じを持つだろう」
 というためらいがあった。
 「そんなことを気にする必要はない。あなたの日蓮を書けばいいのです」
と叱咤激励し、わたしに日蓮を小説化させたのは、ある編集者である。
 いままでに書いた四人の人物もすべてそうだが、わたしの基本的態度は、「その人物とアップ・トウ・デイト (今日的)な関わり」だ。だからある意味では歴史小説とは銘打っていても、実態はホットな現代小説を書いていると言ってよい。
 現代の日本が遭遇している状況は、日蓮が生きた時代とよく似ている。内紛、外圧、日本人として生きる価値観の喪失−−この小説の主題の一つは、「もし日蓮が生きていたら、この国家的・国民的危機にどう対応するか」ということであった。外圧(現在は特に経済政策)、政治家の腐敗、この国をどうするかの理念の喪失、非行少年を善導しえないオトナの無力さ、そして自然災害など、日蓮が生きていたころのもろもろのマイナス現象は、そのまま現代にオーバーラップする。
 こういう状況下に生き、苦しむ、「迷える子羊(民衆)を救いたい」という念願は、鎌倉時代に新しく起こった新興宗教の特性である。そのため宗祖たちの説法は、それまで貴族や権力者の独占物だった宗教の対象を広く民衆に向けたのである。
 そして、国家的見地から「日本国の危機管理をどう行えばいいか」という発想に立って布教したのは、日蓮だけだ。そのためにタイトルもあえて『国僧日蓮』とした。国僧というのは、「ナショナルな立場に立ってこの国のありようを考え、国民に警鐘を鳴らす」という意味だ。日蓮はそういう存在だった。
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