童門冬二著書
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          海の街道・上

■大野藩では藩主あげて病院開設を行った

<本文から>
 人は誰でも、日常の生活の繰り返しの中で、無意識の内に自分の中に垣根を作ってしまう。その中で、自足し、安心を得ようとする。それを外から乱されることを嫌うようになる。
 それは一見居心地の良さを自分に植えつけるが、外に向かって発展しようとする活力をも押し殺してしまう。
 こうした、自分を埋没させる心の垣根を取り払う必要を、利忠は何より重んじているようだった。
 利忠は、計画を単なる絵に描いた餅に終わらせないために、始終口にすることばがあった。そのひとつは、
「とにかく勉強しろ」
 ということだ。そしてもうひとつは、
「それぞれ自分の得意な分野を担当しろ」
 ということだった。決して強要はしない。
 土井利忠は、武士たちが議論し、合意を得れば、それを重んじた。今風にいえば、
「何でも思い切ってやれ、責任は俺がとる」
 という頼もしいトップだった。
 計画の割り当てが決まった。藩校明倫館の開設準備は、内山七郎右衝門の弟隆佐が当ることになつた。隆佐は、自分の補佐役として何人かの藩士を抜擢した。利忠は、学校準備に約五百石の資金を与えた。
 利忠は、
「開設する学校では、一人の学者の説に偏ってはならない。あらゆる学者の説を学び、その長所・短所を議論しろ。幕府が禁止していた医学・異説もどんどん取り入れろ」
 と命じた。
 内山隆佐以下藩校明倫館の開設準備担当者たちは、この利忠の力強いことばに、思わず目を輝かせて顔を見合わせた。利忠はまた、
「有益な書物は、価格を心配することなくとにかく注文せよ」
 と命じた。
 やがて明倫館に集められた書物は、たちまち三千冊をこえた。
 種痘の実施と病院の開設は、医者の土田竜湾、林雲渓らが担当した。これらの医師は、大坂の緒方洪庵の適塾に入学させられた。ここで洋医学を学んだ。実をいえば、土井利忠は、自分の息子土井利和を天然痘で失っていた。この時痛恨の思いをした。かれの心は広かった。領民が自分の子を失う悲しみに思いを馳せた。
「いたいけな幼児の医療が行き届かなくては藩主たる資格がない」
 かれはそう考えた。そこで種痘の研究を命じた。やがて、嘉永三年に林雲渓は自分の家で種痘の実施を試みはじめた。翌四年には城下一番町に施術所を開設した。利忠は、
「試みの結果がよければ、領民には全て種痘を強制せよ」
 と医師たちに命じた。かれにすれば、自分の子利和などが死んだことは、全て「非命の死に陥ること」であった。これを助けるためには、
「幼い時に、必ず種痘を義務づける」
 ということを、徹底しようとはかったのである。
 大野藩は、城下一番町上大手見付に、済生病院を開設する。そして、適塾で学んだ土田竜湾や高井玄俊を、病院総督に任ずる。病院を開設した趣旨は、
・藩主利忠公の、何よりも人命を重んぜられる主意による
・貧しい者の中には、薬代の調達のできない者もいるが、こういう者に、特別のはからいを受けさせる必要がある
.藩内でもまだ俗医偽薬を信じ、自分を死に招く者も少なくないので、これを見捨てておくわけには行かないこと
 の三点だ。
 病院開設の構想や種痘実施計画を明らかにすると共に、藩では、今まで放置してきた医師や薬屋のいい加減な診断や、調合を一切禁じた。
「大野藩民は、病気になつた時は必ず病院で診断を受けなければならない。そして、病院で調合した薬を受けるようにする」
 ということを徹底した。

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