童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説・上杉鷹山 下

■改革の歩みは遅くても腹を立てず着実に前進を

<本文から>
  こういうバラバラな改革の進みかたに、竹俣当綱や荏戸善政、木村高広らは、もどかしいものを感じ、いつも歯がみした。
「藩内には、まだ、お屋形さまのいうことがわからないやつがいる」
 とか、
「一体、いつになつたら、藩士全員の気がそろうのだろう」
 とかの不満のことばが、城の詰所に集まると、必ず出た。しかし、そのたびに治憲は、
「あせるな」
 といった。そして、よく、
「立場を変えてみよ」
 といった。
「立場を変えてみよ、とおっしゃいますと?」
 率直な木村がきく。
「たとえば、私が藩士の立場に立ったとする。長年、この米沢にいて、一歩も他国の土を踏んだことがない。仕事のやりかたも、先輩や親たちが教えてくれた方法以外知らぬ。そこへ突然、見も知らぬ他家から養子に入った藩主がのりこんできて、改革を始めた……、それも、いままでの改革とはちがう。武士である藩士やその家族に、桑を枯えさせ、楢を植えさせ、漆を枯えさせる。新しい田も拓かせる。漆器もつくらせ、鯉まで飼わせる。これは一体何だろう。武士を幾、工、商の身分に落とすつもりなのか、そういう疑問は当然湧くだろう」
「ですから、お屋形さまは、そこを、民は国の宝だとおっしゃって、忍びざるの心、即ち民へのやさしさ、思いやりを説かれたはずです」
「そうだ、しかし、その考えが自分の血肉にならなければだめだ。血肉になるとは、自分で納得し、自分を変える勇気を持つことだ。新しい ″そんぴん″に生まれ変わることだ」
 それはあせっても駄目だ、無理をすれば抵抗だけが強くなる、バラバラでもどかしい、改革の歩みはおそい、と思うだろうが、いまは着実に前へ進むことが大事だ。その代わり、前へ進んだら決してあとへは退かぬことだ − 治憲はそういった。そして、
「旧来の考えを正しいと信ずる者は、それなりに自分を″そんぴん″だと思っているだろう。おまえたちも自分のことを新しい ″そんぴん″だ、と思っている。改革とは、その古い ″そんぴん″と新しい″そんぴん″の戦いだ。この戦いを通じて改革は進む。短兵急に腹を立てるな」
 そう説くのだつた。 

■「原料輸出」を「製品輸出」に変えた

<本文から>
治憲は、従来の米沢藩の、
「原料輸出」
を、
「製品輸出」
に変えた。それも、改革反対派から、
「お屋形さまは、武士に農工商同様のことをさせ、武士の家族にも同じことをさせている」
と、一部から批判されながらも、原料から製品に変える作業の労働力に武士とその家族を組み込んだ。
「民こそ国のカである」
 と念ずる治憲は、
「藩士は、その国の宝の汗とあぶらである年貢で養われている。徒食は許さぬ」
 という方針を立てた。
 いま、領内の開墾地や城下町の生産地には、かなりの武士やその家族が混って働いている。案外なもので、武士の妻は器用であつた。苧から晒をつくつたり、蚊帳にしたり、小千谷縮の変型版の米沢織を織るのも、実にうまかった。

■竹俣当綱の堕落

<本文から>
 それまでの竹俣は、名臣として治憲の改革を助け、縦横に才略を活用して、きびきびと改革を進めた。農政指導だけでなく藩が抱えていた莫大な借財を、何人もの商人に頼みこんで、返済を延ばしてもらったり、植樹のための資金を提供してもらったり、漆、桑、槽などの大規模な植樹計画を立てたのもかれであったし、実行したのもかれであつた。細井平洲招請にもかれは労を惜しまなかった。つまり耕田、殖産、蓄米など、いちじるしい業績はすべて竹俣のものであつた。人々は竹俣を称讃した。
 そして竹俣も人に賞めつづけられているうちに、次第に自分の功に酔った。竹俣も人間であつた。
 どんなに優れた人間にも、好事魔多しというたとえがある。まして権力は魔ものである。権力に永く馴れていると、知らないうちに人間は堕落する。
 竹俣当綱も堕落した。竹俣当綱は治憲の信頼を一身に受けて、江戸藩邸のときから改革案の作成に加わり、本国にあつて執政に命ぜられ、改革の推進を殆んど一身に背食った。竹俣はおどろくべき才人であつた。農業指導、地場産業の振興、財政運営、藩士の教育など、とにかく藩政のあらゆる面に才能を持っていた。治憲の考えていることをピタッ、ピタッと実行に移した。成果もあげた。
 こういう状況を見ていると、見ている者の問に、予想もしなかった考えが生まれてくる。藩内の人間は、
「他家からおいでになつた若いお屋形さまは、竹俣さまを信頼しておいでになる。すべて竹俣さまにおまかせだ。これからの政治は、竹俣さまの指のさすままにおこなわれる。竹俣さまこそ新しい権力者である。すべて竹俣さまにお願いしなければ、ことは成らないし、またすべて竹俣さまにお願いすればことは成る」
 というように、思った。
 だから、竹俣に取り入ることが人事の上で有利になり、また商人や富農は、商売がうまくいく、と思った。改革に熱がなく、ただうまく立ちまわって立身出世を願う侍や、儲け主義だけに生きる商人から見れば、改革も単に権力者が交替しただけだ、という皮相的なできごとでしかなかった。
 こういう藩士には藩人事を左右する実権はすべて竹俣にあるように見え、
「出世するためには、まず、竹俣さまのお覚えをよくしなければ」
 と先を争って竹俣のところにあいさつに行く。あいさつに行くというのは、品物や金を持って行くということだ。

■竹俣当綱は改革を早めるために古いしきたりを復活させた

<本文から>
 竹俣は、その古さにひきずられた。ということは、竹俣にもそういう古さが残っていたということである。
(お屋形の目的を早く実現するのには、この方が早い)
 と思ったのだ。目前の現実に即応して、改革理念の遠大さを忘れたのである。
 現代に即していえば、それは、
○社会状況の変化で、所属企業に何がもとめられているのかを知り、
○そのニーズに応えるには、いまの企業目的や組織や社員の意識が、それでいいのかどうかを反省し、
○それをどう改革して、上を補佐し、下を指導するか、
ということを、自分で的確に把握することである。
それが、トップ側近の補佐役の責務だ。
竹俣当綱は、そういうことを知りながら、あせって、つい、古いしきたりを復活した。しかし、歴史がそれを認めなかった。歴史の進みぐあいを知る治憲は、
(私が処断するのではない。歴史が処断するのだ)
だから竹俣を処断したのである。
 といいながら。 

■鷹山の藩政改革が成功したのはすべて「愛」

<本文から>
 世の中が湿っぽく、経済が思わぬように発展しないと、人々は、どうしても他人を責めたり、状況のせいにしたりすることが多い。しかし、鷹山はそれを突破した。鷹山の藩政改革が成功したのは、すべて、
「愛」
 であつた。他人へのいたわり・思いやりであつた。藩政改革を、藩民のものと設定し、それを推進する藩士に、限りない愛情を注いだ。痛みをおぼえなければならない人々への愛を惜しまなかった。その優しさが、北風と太陽の例ではないが、人々に厚い心の綿入れを脱がせた。それも自発的にである。綿入れを脱いで、身軽になつた米沢藩の人々は、士といわず町人といわず農民といわず、鷹山の改革に協力して勒んだ。それは、改革に協力することが、自らも富むことにつながっていたからである。
 そしてそれは、富むだけでなく、他人を愛する心を復活させた。鷹山が蘇らせたのは、米沢の死んだ山と河と土だけではなかった。かれは、何よりも人間の心に愛という心を廼らせた。それをのぞいては、どんなにりっぱな藩政改革も決して成功はしない。鷹山の治績は、そのことを如実に物語っている。そして、それは徳川幕府による三大改革が、特に白河楽翁といわれた名君の松平定信の寛政の改革と、水野忠邦による天保の改革が、余りにも明確に失敗した例にはってもはかり知れるであろう。
 名宰相といわれたこのふたりは、幕臣に対しても、民に対しても愛情を欠いていた。それが改革を失敗させた主因である。鷹山は、その轍を踏まなかった。

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