童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説・上杉鷹山 上

■冷メシ派登用

<本文から>
 (人が要る)
治憲は改めてそう思った。財政再建のための藩政改革は、ひとりではできない。協力者が要る。治憲の意図をよくのみこんで、手足のようにうごいてくれる人間が要る。
 しかし、藩にそういう人間が果たして何人いるだろう、また、どこにいるのだろう。何人かの家臣を庭の池のハヤやヤマべになぞらえたのは、治憲の独想である。まだ、直接魚たちと親しく接したわけではない。だから、その見立て方もまちがっているかも知れない。治憲のひとりよがりかも知れない。総体的に、米沢藩では、米沢本国の重臣群のカが絶対的で、江戸にいる家臣民は、何ごとにつけ、遠い米沢の重臣たちの意向を気にした。どんなこまかいことでも、まず、
「本国のご重職は、どのようにお考えになるだろう」
と鳩首した.本国の返事をもらってから、ことを決めた。江戸の藩邸では、自主的に何ひとつ決めることができなかった。江戸藩邸は、いまのことばでいうならば、米沢本国の遠隔操作の下におかれていたのである。
江戸藩邸の責任者である色部照長にしてもそうだった。色部は、治憲に対して、個人的にはまったくの忠臣だったが、こと政策決定となると、一存では決めなかった。必ず、
「本国の同職にも相談いたしまして・・・」
と、決断をためらった.
(これでは駄目だ)
 治憲はそう思った。
米沢藩は、本国も江戸も、開藩以来の形式主義、事大主義に毒され、いまだにその悪習がつづいている。どんなこまかいことにも必ず作法を設けてある。身うごきができない。しかも、もっと悪いことには、その作法はいちいち金の支出を伴った。それが、米沢藩の財政危機を加速した。そして、それにさからえば、たちまち藩組織内の村八分にあう。なかまはずれにされて、生きて行けないのだった。
(そういう慣習の中に生きている人間に、いくら改革を手伝えといっても、おそらく無駄だ)
藩政改革を実行するということは、まず改革にあたる者が、自分を変えることだ。自分を変えるということは、生きかたを変えることだ.かなりの勇気がいる。
(そういう勇気のある人間はいないだろうか)
 人物探しに熱中しはじめた治憲は、突然、そうか、と気がついた。
(逆に藩内でなかまはずれにされている人間に日をつけてみよう)
と思った。藩内の多数派、つまり金魚の群ではなく、狭い池の中を所狭しと泳ぐ少数派の魚を探してみようと思ったのである。

■改革のためにまず自身の変革を要求する

<本文から>
 治憲は目の前に居る連中を見回した。
「あり体にいって、おまえたちは米沢本国の人間から、すべて色目でみられている。おまえたちに対する本国の人間の見方は、片寄ってはいるが、ある面で真実をいい当てていないとはいえない。もちろん人の世の中は、何をいっているかを大切にすべきであって誰がいっているかは問題ではない。しかし、人は悲しいものだ。必ずしも理屈通りにはいかない。やはり、誰がいっているかによって、大きく左右される。そこで頼みがある。おまえたちも少し自分を変えてほしい。貼られた色目の紙を片隅でもいいから自分で剥がせ。つまり自分を変えてほしいのだ。そうすることによって、頑な本国の連中もお字えたちに対する見方を変えるだろう。見方が変わってくれば、おまえたちがこれから作る案が生きてくる。ああ、あれほどかれらは変わったか、変わったかれらが作った案ならば、少しは読んでもためになるだろう、どれ、というようにおまえたちの作った改革案旨をとめるにちがいない。今のままでは、恐らくおまえたちがどんなに良い案を作っても、本国人はそっぱを向いてしまうだう。一顧も与えない。それが私は残念だ。だから、藩を変えるためには、藩人が変らなければなない。その藩人の中にはおまえたちも入る。もちろん、おまえたちだけに変われというのではない。私も自分を変えていく。つまり、自己変革は藩の変革のためにまず成し遂げなければならない藩人の義務なのだ。この点良くわかってほしい」
 この治憲のことばをきいて、木村高広は、密かに心の中で、
(何をいっているのだ。悪いのはわれわれではなくて、本国の人間だ。まず本国の人間が自分を変え
なければ、俺たちがいくら変えてみたってどうにもならない)
 と思った。
 その木村のきもちは敏感に治憲にわかった。治憲はこういった。
「おまえたちの中には、すべて悪いのは本国の人間であって、自分たちは少しも悪くない。したがって、まず変えなければならないのは本国人である。そうしなければ、いくら江戸にいる連中が自分を変えてみても、何の意味もない、と思う人間もおろう。しかし、それは堪えてほしい。それにこだわると何事も進まない。そしてそれにこだわることは、誰か大切な人々を忘れていることになる。誰か大切な人々とは、年貢を納める人々のことだ。私たちの生活の資を生み出す人々のことである。そういう人々の存在を忘れて、私たちが私たちの考えだけで争うことは、何の意味もない。だからまず気ついた方から自分を改めるより他に方法がないのだ。辛いことはよくわかる。しかし堪えてほしい。江戸の方から自分たちを変えて本国に乗り込んでいこうではないか」
 先制攻撃を受けてしまって、木村の心中は決して穏やかではなかった。しかし、一面、
(この若い殿様は、なかなか侮れない人だ。若いくせに、良く人の心を見抜く。これは、案外大物かも知れないぞ)
 と、思うのであった。そのことを思い出して、木材は、いま改めて、さっきの治憲のことばをみなに告げたのだった。

■藩政改革は藩政府を富ませるものでなく藩民を富ませるもの、愛と信頼の改革

<本文から>
 うけつぎて 国の司の身となれば。
  忘るまじきは 民の父母
藩主就任と同時に詠んだ歌である。そして、この歌がかれの藩主としての姿勢であると同時に、改革の目標であった。つまり、治憲は、
「藩政改革は、藩民のためにおこなうものだ」
 と、はっきり決めていたのである。
それは、いままで治憲のみたところ、幕府や他藩の改革は、国民や領民のことを忘れ、富むためや、またそのための権威を取旦庚すことに狂奔し、部下に対しても、
「何をやっているのだ」
 と責め立てるだけのように思えた。
 治憲はそれは駄目だと思った。だからかれは自分の改革は、その基底に、領民と藩士への限りない愛情を据えようと思った。かれは、
「徳」
を政治の基本におき、それを経済に結びつけようと考えた。かれは単なる倹約一辺倒論者ではなかった。
「生きた金」
は逆に借しみなく使う気でいた。何に使うかが問題だった。
要約すれば、治憲は、藩政改革の目的は、
「領民を富ませるためである」
 と明言し、その方法展開を、
「愛と信頼」
 でおこなおうとしたのである。
幕府や各藩の改革をみていて、それが必ずしも成功しないのは、この二つが欠けているからだ、と治憲は思っていた。
 治憲は、自分の藩政改革は、決して藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、むしろ、藩民を富ませるためにおこなうものでなければならない、と決意した。

■改革の3つの壁

<本文から>
 そう思うと、かれの胸は膨らんだ。つまり、藩政改革が、勤倹節約だけを主目標にした、じめじめした暗いものではない、むしろ全藩民が藩主といっしょになって、きぴしいけれども前途に希望を持つておこなう楽しい事業である、とさえ思うようになっていた。
 そして、
「そのための、灯は、藩主としての私が掲げなければならない」
 という責任を強く感じた。
 しかし、こういう理想は目に美しく、耳に快い。第一、藩士自身がこのことを理解し、全面的に納得しなけれぼならない。が、みたところ、藩には壁があった。治憲は、その壁も三つあると思った。
 三つの壁とは、
 1.制度の壁
 2.物理的な壁
 3.意識(心)の壁
である。

■自分が改革の火種になり、そして藩士の胸に火種をつけてほしい

<本文から>
「実は福島から米沢への国境を越えて、板谷宿で野宿し、さらにその宿場を発って沿道の光景を見ながら、私は正直いって絶望した。それは、この国が何もかも死んでいたからだ。この灰とおなじようにである。恐らくどんな種を蒔いても、この灰の国では何も育つまいという気がした。だから今、領内に残っている人間たちの表情に希望がないのだ。それを私はよみがえらせねばならぬ。しかし、そんなことは私にはできない。私は、良い気になって今までおまえたちに改革案を作らせたが、しかしそれを受け入れる国の方が死んでいた。これは気づかなかった。私は甘かった。そこで、深い絶望感に襲われ、灰をしばらく見つめていた。やがて私は煙管を取って灰の中をかきまわしてみた。すると、小さな火の残りが見つかった。その火の残りを見つめているうちに、私は、これだ、と思った。これだというのは、この残った火が火種になるだろうと思ったからだ。そして、火種は新しい火を起こす。その新しい火はさらに新しい火を起こす。そのくりかえしが、この国でもできないだろうか、そう思ったのだ。そして、その火種は誰あろう、まずおまえたちだと気がついたのだ。江戸の藩邸でいろいろなことをいわれながらも、私の改革理念に共鳴し、協力して案を作り、江戸で実験をして悪いところを直し、良いところを残す、そういう辛い作業をやってくれた。そして今、その練りかたまった改革
案を持っていよいよ本国に乗り込もうとしている。そういうおまえたちの土とを思い浮かべたとき、おまえたちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。おまえたちは火種になる。そして、多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり藩民のことだ。それらの中には濡れている炭もあるだろう、湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、私の改革に反対する炭も沢山あろう。そういう炭たちは、いくら火吹竹で吹いても、恐らく火はつくまい。しかし、その中にも、きっとひとつやふたつ、火がついてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ。そのためには、まず、おまえたちが火種になってくれ。そして心まえたちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移してほしい。城に着いてからそれぞれが持ち場に散って行くであろう。その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸に火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を大きく燃え立たせるであろう。私はそう思って、今、駕籠の中で一所懸命この小さな火を大きな新しい炭に吹きつけていたのだ」
 すべてではなかったが、家臣団の多くは感動した。竹俣当綱が進み出ていった。
「お屋形さま、その火をいただかせて下さい」
「この火を?」
 治憲がきき返すと、竹俣はいった。
「その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に火を移します。そして、それを私は、お屋形さまがいう改革が達成される日まで、決して消しません。炭を消さないで、家に大切に保存致します。同時に、私の胸に燃えている火を、自分の持ち場に帰ってなかまの胸に移します。その火が乏しくとも、数がすくなくとも、万分の一なりともお屋形さまのお考えをこの米沢で実現させましょう」
 佐藤文四郎も同じ申し出をした。さらに同じような声が、同時にあちこちで起こった。家臣団は、治憲が持っていた炭火を受けとり、それを細かく割って、一人一人が新しい炭を用意し、火を移した。一つの火種が十にも二十にもなった。そしてそれぞれがまた新しい炭に移された。炭火は十倍にも二十倍にもなったのである。これが、雪の道に燃えた、新しい民富のための改革の火種であった。

■最初の失敗の原因を探る

<本文から>
「なぜ、失敗したか」
 という原因を、竹俣たちは、つぎのように分析していた。
一 改革の目的がよくわからないこと。
二 しかも、その推進者が一部の人間に限られたこと。
三 改革をおこなう政庁員全員にも、改革の趣旨が徹底していなかつたこと。
四 当然、改革の目的や方法が親切に領民に知らされずに、一方的に押しっけられたこと。
五 改革が進んで、幕府や藩が身軽になれば、当然領民の負担が軽くならなければいけがいのに、 逆に幕府や藩は増税をしたこと。つまり、四公六民という率であつた税を、五公五民、あるいは六公四民のように上げてしまったこと。
六 改革を進める官僚は、すべて名門出身の上位者であり、部下に対して、指示。命令としてのみ方法をおしつけたこと。改革される側の痛みに深い理解と同情を示さなかつたこと。
 政策的には、ほとんどの改革が、
「重農購商主義をとり、土民に勤倹節約だけを求めた」
 という点が根本的な誤りだった、ということを、竹俣たちは指摘していた。
 また、人材登用は誰しもいうことだが、実際には、藩上層部は、耳の痛いことをいう直言者を嫌がり、結局は口巧者にかこまれるのが、改革の目的が正しい場合でも、土民には誤解と非協力を誘発する最大の原因だ、と書いてあっだ。

■反対派の重役陣は自分に適合しないものは全て適とした

<本文から>
 重役陣の不満は治憲に対してだけではなかった。むしろ、現在、藩政をとりしきっている竹俣、荏戸、木村などの治憲の側近群に強い不満を持っていた。
 それは、
○竹俣たちが、米沢に生まれ育ち、上杉藩の慣行をいちばんよく知っているにもかかわらず、そのことを治憲に教えず、逆に治憲のしきたり無視、形式破りにすすんで協力していること。
○このことは、考えようによれば、治憲よりも罪が重いこと。つまり、何も知らない治憲をおだてて、竹俣たちが藩政を思うように操っでいること。
○竹俣たちは藩の人事を勝手気ままにおこない、自分たちのなかまだけを重用し、反対派はすべて左遷したこと。
 というようなことであつた。特に、仕事よりも、人事に対する不満は、組織人を狂的な次元にまで追いこむのは、何も現代だけのことではない。身出世欲は、人の世に組織が組まれて以来、普遍的な欲望で、中には、そのためだけに生きてい人あ間もいる。いや、そのほうが多いのだ。そのために、ひとを誹誇し、足をひつぱり、よくなけ噂を流す。
 人間のかなしい習性は、自分をたかめる、という方法でなく、ひとをひきずりおろせば自分とおなじ位置にきた、という錯覚の中に生きることだ。自分が向上せずに、ひとをひきずりおろしても、それは決して、自分が上昇したことにはならないのだが、出世欲にかられた亡者たちは、性こりもなく、その方法をとる。
 七人の重役もおなじであった。かれらは、まず自分を変えてみる、という努力を怠り、いまのままの自分に適合しないものはすべて敵だ、という信念にこりかたまっていた。
 遠くが見えず、目前のことに血まなこになっていた。
 七人の重役は、謀議をつぎのようにまとめた。
○治憲が今日までおこなってきた改革は、すべて失政として批判する。具体的にその例をあげる。
○こんご、藩政の主導権は重役陣に渡させる。治憲は、重役の決めたことにただ判をおせばよろしい。よけいな口出しは一切しない。
○竹俣、荏戸、木村などは役から退け、しばらく休職させる。人事については、重役たちにまかせ治憲は、承認だけすればよろしい。
 そして、
○もし、この案を治憲がのまないならば、重役陣は実態を幕府に訴える。そして、治憲を隠居させる。あるいは養子縁組を解除して高鍋(治憲の実家)に追いかえす。
 つまり、ことばをかえれば、
「われわれのいいなりになるか、それとも、藩主の座を去るか、どつちか選べ」
 ということである。
 この強硬策を実行するために、重役たちは、
○あくまでも七人は結束すること。
○治憲に談判する日は、竹俣たちを偽わって登城させないこと。
 等を決めた。

■重役処分に感情ではなく、手続きを踏む

<本文から>
治憲も心を決していた。
(七人の重役は、このままにはすませられない)
と思った。
しかし、治憲は慎重だった。いきなり七人を罰すれば、
「ああ、お屋形さまはついに先代さまのご威光を借りて、報復に出てきた」
といわれる。そういわれないために、
(手続きを踏もう)
と治憲は考えた。しかも治憲は、
(この事件を、私の考えていることを、全藩士にわかつてもらうための契機に使おう)
 と考えた。
 ”火種″を合ことばに、治憲の考えに同調し、協力する者がいるといっても、まだ少数だ。主流派にはなつていない。藩の大半は保守的であり、むかしの考えやしきたりにしがみついている。だから”火種”組に対する反感やいやがらせは多い。七人の重役のせがれたちはその典型だ。
 この日の重役の強訴は、未明から正午まで、およそ七、八時間にわたっておこなわれたが、重定にけられて退去した重役たちは、そのまま出仕してこなかつた。自邸にこもつて、外へ出ない。これだけでも大罪である。罰してもおかしくはない。が、治憲はそうしなかった。手続きを踏もう、と決めた治憲は、その手続きを着実に踏んだ。
 治憲は、自分の使者として、しかるべき者をそれぞれの邸に向かわせた。そして、
「治憲の頼みである。どうか出仕してほしい」
 という依頼の手紙を渡させた。
 七人は一様にせせら笑い、治憲の手紙を破り捨てた。須田と芋川は、それだけでなく、
「われらの言をお用いにならなければ、ただちに江戸に出て、幕府に直接お屋形の失政を訴え出る、と申しあげろ」
 と使者にいった。
 実をいうと、使者は治憲から、あることを七人にたしかめよ、という密命を受けていた。あることをたしかめよ、というのは、七人の重役が建言書を出すときに告げた、
「ここに書かれていることは、われわれだけでなく、全藩士の意見です」
 といった、その”全藩士の意見”というのが本当かどうかということであった。
 七人は昂然と、
「あたり前だ。書いたことは全藩士の考えだ」
 と、ためらいもせずに使者に答えた。使者はそのままを治憲に報告した。
 城中では、この日の午後からかけつけた竹俣、荏戸、木村をはじめ、偽の指示で登城をとめられて
いた近習たちが、
「お屋形さまの命令だなどと、嘘をついて、まったくけしからん重役どもです」
 と、激昂していた。そして、治憲に、
「即刻、ご処分を」
 と迫った。治憲は、まじめな顔で、
「きもちはわかるが、逸るな。感情で人を裁いてはならぬ」
 となだめ、
「しかし、このたびは私もこのままにはすまさぬ」
 と、厳然とした態度で告げた。いままで一度もみせたことのないきびしい態度なので、側近たちは顔を見あわせた。そこへ使者が戻ってきた。
 治憲は、使者にみんなの前で報告をさせた。それも治憲の考えている手続きのひとつであつた。治憲は、七人の重役を処分するについても、そこに行きつくまでの手続きをあきらかにして、全藩士に示すことが必要だと思っていた。
 それには、自分のやることの一切を公開するのがいちばん手っ取り早いと考えた。だから使者が十人の重役とおこなってきたやりとりも、自分ひとりがきくのではなく、まず、側近群にもいっしょ聞きかせたのである。

■藩士公開の場での意見は、身分のひくい層ほど、治憲を支持していた

<本文から>
「昨日の意見に相異ございません。一夜明けても、決して考えは変わっておりません」
 といった。治憲は大きくうなずいた。不覚にもその目に涙が湊んでいた。治憲は嬉しかつた。なぜ嬉しかつたのか。改革を実際に推進する現場から、まず賛成の声があがつたからである。そしてその現場の声が、中級藩士を動かし、さらに上級藩士を動かしたことに治憲は感動したのだ。改革は何といっても現場が軸になる。その現場がよく理解せずに、ぶすぶす燻ったまま、ただ上からの押しつけだけで、仕事をさせられれば、決して納得した仕事ぶりは期待できない。不満が湧き、不平が湧き、それはいずれくすぶって火が付き、狼煙となつて別な方向で炎をあげるだろう。治憲がいちばん心配していたのは、そのことであつた。
 しかし、昨日の柏木伊賀の発言は、みごとにその不安を消した。現場の藩士たちは、治憲の改革を文字通り支持していた。身分のひくい層ほど、治憲を支持していたのである。それが治憲には何よりも嬉しかつた。治憲は、米沢に入って、初めて自分と心の通い合う同志を得たような気がした。それは、藩主と藩士の主従関係ではなかった。民のために、藩を富まそうとする、志を同じくする同志であつた。同志的紐帯が、この日、形に現われてはつきり結束されたのである。

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