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<本文から>
(人が要る)
治憲は改めてそう思った。財政再建のための藩政改革は、ひとりではできない。協力者が要る。治憲の意図をよくのみこんで、手足のようにうごいてくれる人間が要る。
しかし、藩にそういう人間が果たして何人いるだろう、また、どこにいるのだろう。何人かの家臣を庭の池のハヤやヤマべになぞらえたのは、治憲の独想である。まだ、直接魚たちと親しく接したわけではない。だから、その見立て方もまちがっているかも知れない。治憲のひとりよがりかも知れない。総体的に、米沢藩では、米沢本国の重臣群のカが絶対的で、江戸にいる家臣民は、何ごとにつけ、遠い米沢の重臣たちの意向を気にした。どんなこまかいことでも、まず、
「本国のご重職は、どのようにお考えになるだろう」
と鳩首した.本国の返事をもらってから、ことを決めた。江戸の藩邸では、自主的に何ひとつ決めることができなかった。江戸藩邸は、いまのことばでいうならば、米沢本国の遠隔操作の下におかれていたのである。
江戸藩邸の責任者である色部照長にしてもそうだった。色部は、治憲に対して、個人的にはまったくの忠臣だったが、こと政策決定となると、一存では決めなかった。必ず、
「本国の同職にも相談いたしまして・・・」
と、決断をためらった.
(これでは駄目だ)
治憲はそう思った。
米沢藩は、本国も江戸も、開藩以来の形式主義、事大主義に毒され、いまだにその悪習がつづいている。どんなこまかいことにも必ず作法を設けてある。身うごきができない。しかも、もっと悪いことには、その作法はいちいち金の支出を伴った。それが、米沢藩の財政危機を加速した。そして、それにさからえば、たちまち藩組織内の村八分にあう。なかまはずれにされて、生きて行けないのだった。
(そういう慣習の中に生きている人間に、いくら改革を手伝えといっても、おそらく無駄だ)
藩政改革を実行するということは、まず改革にあたる者が、自分を変えることだ。自分を変えるということは、生きかたを変えることだ.かなりの勇気がいる。
(そういう勇気のある人間はいないだろうか)
人物探しに熱中しはじめた治憲は、突然、そうか、と気がついた。
(逆に藩内でなかまはずれにされている人間に日をつけてみよう)
と思った。藩内の多数派、つまり金魚の群ではなく、狭い池の中を所狭しと泳ぐ少数派の魚を探してみようと思ったのである。 |
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