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<本文から> 初代の県令鍋島直彬が置かれていた状況は、まさに「対清問題」が、日本政府並びに沖縄県にとって最重要問題であった、このような時期であった。
しかし二年間の在任期間に、この間題は解決しなかった。依然として、沖縄県の重い政治問題として靖国問題はその基底に流れていたのだ。そして、上杉茂憲はそういう難しい時期に二代目の県令として着任したのである。夫人を連れての沖縄行であった。
ところで、前任県令が引き継ぎのときに上杉新県令に語った、
「琉球に巣食う旧慣温存」
とは、いったいどういうことなのだろうか。
漠然と「旧慣温存」と言われても、その実態がよくわからない。しかもその旧慣温存によって島民がどういう被害を受けているのか、そのあたりも把握する必要がある。茂憲は、県令として県政を行なう前に、
「沖縄県民の生活実態をこの目で把握しよう」
と考えた。
そのためには、沖縄本島や先島と呼ばれる離島へ渡って、島民の生活実態をつぶさに見る必要がある。
茂憲はそう気持ちを定めると、島民からどういう項目を聞くかを考えた。茂憲には強力な補佐役がいた。池田成章である。
池田成章は旧米沢藩士で、茂憲とは子供のときからの学友だ。池田は藩校興譲館の助教をしていたこともあり、また茂憲の成人過程においてずっと側役を務めてきた。
したがって二人は、いわば"あ・うんの呼吸″(「あ」は吐く息、「うん」は吸う息)の仲だった。
茂憲が沖縄県令に任命されると同時に、池田も内務省准奏任御用掛・沖縄県在勤を命じられた。もちろん茂憲の希望人事だ。米沢における主従関係を、そのまま沖縄にもちこんだのである。月俸は八十円だったという。そしてすぐ沖縄県権少書記官に任命される。
さらに翌十五年(一八八二)の一月二十五日には、判事を兼務することになる。
茂憲が沖縄県令に任命されたとき、これをめでたいことだと言って祝ったのが、上杉家の相談人たちだった。
上杉家には相談人というのがいて、小森沢長政・小田切盛徳・宮島誠一郎・中候政恒らがその任に当たっていた。
この相談人たちは茂憲に「沖縄へご赴任になったら、こんなことにお心を用いてください」と言って建議書を提出した。それによると、
・県民の撫他(県民を愛すること)や教育に費用を惜しまないこと
・ことを処するときには熟慮の上にも熟慮を重ね、しかも勇断を忘れないこと
・信義を重んじてけっして朝令暮改に陥ることのないようにすること
などであった。これを読んだ茂憲は、
「まるで、鷹山公が細井平洲先生から受けた心構えのようだな」
と笑った。相談人たちも笑った。その通りだったからである。すでに茂憲の供をすることに決まっていた池田成章も脇にいたが、一緒に笑った。というのは、池田自身がすべてのことについて、
「鷹山公精神に則ろう」
と、いつも公言していたからである。
言ってみれば、米沢藩の名君と言われた上杉鷹山の精神は、まるで池田が一人で引き継いでいるような空気だった。
もちろん相談人たちもそのことをよく知っている。特に宮島誠一郎は池田とは親しく、幕末の一時期、江戸で一緒に暮らしたこともある。
相談人たちの献言は、一言で言えば、
「沖縄県令におなりになっても、上杉鷹山公の精神をお忘れなく」
ということなのである。茂憲は了承した。
したがっていま、
「沖縄県で何を調査するか」
ということの基本のところにおいて、相談人たちが告げた「鷹山公精神を忘れずに」ということは大きな指針になった。 |
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