童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          上杉鷹山の戦略と発想

■改革案を示し、方法論は実際に土地を知るものに協力させる

<本文から>
  改革の例を幕府や諸藩に求めてくれ。成功した例、失敗した例を事例としながら、われわれはよく吟味しょう。そして、当藩にあっては、必ず実効の上がる改革案をつくろう。ただ、一つだけ頼みたいことがある。それは、改革はけっして、私やおまえたちの、つまり藩主や藩士のために行なうのではなく、藩民のために行なうのだ、ということをはっきりさせたい。
 つまり藩政改革は、藩民が富むために行なうのであって、藩主や藩士が、ぜいたくをするために行なうことではけっしてない。このことをはっきり改革の礎石として据えてくれ。
 それに、間引きを禁止し、病人や年寄りを労り、子どもをよく導き、また米沢の地に遺した産品を振興することに努めたい。要は、自力で財政を再建したいのだ。それには、ただ借金だけをすればよいという妨息な考えほ捨てよう。どうか頼む」
 打てば響くという言葉がある。グループは、治憲の意図を正確に理解した。そして、それは同時に、彼ら自身がいままで討議し、こうしたほうがよい、と思っている改革案に一致していた。だから、治憲と彼らの間に、考え方の差はそれほどなかった。
 ただ、方法論の展開については、長年のキャリアと、また米沢という土地を実際に知っている彼らのほうが、治憲よりも一歩先んじていた。それが、また、治憲の期待するところでもあった。若くて、米沢という土地を知らず、また、そこに住む人々の気持ちも知らず、産品のなんたるかも知らず、また藩士たちに会ったこともない治憲は、そういうハンディキャップが自分にあることを十二分に知っていたのである。
 だから、自分の意図をよく理解し、方法論として、自分のハンディキャップを克収してくれる協力者を求めていたのだ。それが得られた。竹俣を中心にしたグループは、実際レベルでの改革案をどんどんつくった。治憲は、それを江戸で実行した。 

■改革の火種

<本文から>
「火種ですね?」
 これを聞くと、驚いたように治憲は二人の類を見た。二人は、目を輝かせて、じつと治憲を見つめていた。その目が語ってていた。何かを訴えていた。治憲は、その瞬間、
 <そうか!>
 と悟った。その表情の変化を、竹俣と佐藤は敏感に見抜いた。そして、にっこり笑った。治憲は、二人に笑い返し、すぐ、
 「みなに、ここに集まってもらってくれ。話したいことがある」
といった。家来たちが集まって来た。江戸藩邸では、治憲に反感をもっていた者も、さすがに、雪の峠で野宿をする若い藩主の姿には、胸を湿らせていた。ああすまないな、という思いが、それぞれの胸にあった。自分を囲んだ藩士たちに、治憲は静かに語りかけた。手に灰皿を持っていた。
 「寒いところを宿にも泊められず、まことにすまぬ。やがて夜が明けるであろうから耐えてくれ。ところで、おまえたちに頼みたいことがある。私ほ、この板谷時に着いたとき、あまりにも荒れた宿場の婆に、じつは呆然とした。いま、手にしているこの灰皿の灰のように、この宿場は冷えきっていると思った。そして、この宿場に代表されるように、米沢の土地もおそちく冷えきっている。この国に住む人は、希望もなく、毎日を惰性で送っているのにちがいない。
 私は、一瞬、この灰を見たとき、この灰と同じこの国では、何も育たず、また何もできないと思った。自分の若さや、能力の不足が悔やまれ、いっそ、江戸に戻りたいとも思った。が、その灰のなかを、何の気なしにかき回してみた。すると、この灰のなかに、火の残りがあった。それを見て、竹俣と佐藤が、私に、意味ありげな顔をした。私はその意味を正確に培った。
 二人がいいたいことは、こういうことではないかと思う。
 まず、私に火種になれと彼らはいっているのだろう。どんなに冷えた土地でも、火さえあれば、やがては、火と火が結び合って、大きな炎になっていくにちがいない。燃えなかった土地が燃えるようになるのだ。冷えきった土地に温もりが廷るのだ。それができるのは私以外ない。できるというのは、そうなることが私の責任だということだ。
 私は、この小さな火のようになろうと思う。まず、私が火種になる。どうか、おまえたちも、米沢に入ったら、城の持ち場持ち場で、火種になってほしい。そして、部下の何人かに、その胸の火を移してほしい。おkらく、部下のなかには、すぐには火を受けとめる者も少なかろう。
 しかし、根気強くこのことを続けたい。われわれの火種で、新しい火をおこそう。この米沢の地に」
 切々と語る治憲の姿に、多くの家臣たちが感動した。そして、自分たちも火種になろうと心に決めた。彼らは、治塞から小さな火種を受け取ると、それを新しい火に移した。フーフーと吹くと、黒い炭が赤く準え上がった。その炭を、さらに他の黒い炭に移した。次々と火がおこった。そうしておいて、彼らの一人がいった。
 「お屋形棟、お屋形棟がおっしゃったのは、こういうことですね?」
 治憲は、にっこり笑って穎いた。
 「そのとおりだ、城に行ってもそれと同じことをしてくれ」
 ぉぅ! という喚声が上がったような気がした。治憲は、入国第一歩、荒涼とした板谷時の宿場で、はじめて君臣の気持ちがもっと広がりをもってつながったことを知った。治憲一行は、翌朝、力をこめて絹沢への道を下って行った。

■藩主と藩士は、民の僕である

<本文から>
 治憲は、改革を進めるには、ただ城の士がちだけが一緒懸命やっても、その成果は上がらないと思っていた。彼が、
 「藩政改革は、城にいる藩主や藩士のために行なうのではない。藩民を富ませるために行なうのだ」
 といったのは、ただ、藩士が藩民に奉仕することだけをいったのではない。それなりに。藩民のほうも、自覚して協力しなければだめだという考えをもっていた。
 つまり、治憲が目ざす藩政改革は、藩士とか藩民とかの区別なく、米沢に住む人間が一体となって、全員協力しなければ、成功しない、と思っていたのである。米沢に住む人間全部をというのは、老若男女を問わなかった。治憲は、それを、まとめてこういう考えをもっていた。
 一、自助
 二、互助
 三、扶助
 この三助の三位一体を展開しなければ、藩政改革は成功しないと思っていた。現代流にいえば、自助というのは、自分が自分を助ける、つまり自己努力を精いっぱいやるということである。互助は、いまでいえば、コミュニティー(地域)と、そのコミュニティーにおける隣人愛のことだ。互いにもっと助け合え、ということである。
 三番日の扶助は、年貢を使って、福祉サービスをするということだろう。
 こういう考えでもわかるように、治憲は、
 「藩主と藩士は、民の僕である」
 という公僕意識をもっていたことは事実だ。が、それと同時に、
「藩民もまた、藩政府に対して何ができるか、その努力をすべきだ」

■白河方式との違い、下からの意見の聞き方にも差

<本文から>
 下の者の意見の聞き方にこういう差が出たということは、二人の生い立ちや置かれた立場による。上杉鷹山は先にも述べたように、
 一、日向(宮崎県)高鍋藩主秋月家の出身である。秋月家は三万石の大名だった。
 一、それが縁あって米沢十五万右の上杉家の養子藩主になった。
 一、家を継いだときは十七歳である。若い。
 一、米沢の実態をまったく知らない。部下である藩士たちの顔もまったく知らない。藩士のほうも鷹山など知らない。
 一、上杉家は名門である。これに対して秋月家は九州では名門ではあったが、それほど知られた家ではない。
 いってみれば、養子に入った上杉鷹山はハンデだらけであった。これに対して松平定信は、
 一、八代将軍徳川書家の孫に当たる。
 一、白河藩松平家という名門の養子藩主に入った。
 一、白河藩主としての実績は天下に名だたるものであり、すでに「名君」の名をほしいままにしていた。
 一、その名君ぷりが国民的期待となって、汚職政治家田沼意次を追放し、そめ後釜として老中首座(総理大臣)になった。
 一、江戸幕府で仕事をする同僚大名や、部下たちも松平定信の名声はよく知っていた。
 こういうようにハンデだらけの上杉鷹山に比べれば、松平定信はすでに寛政の改革を展開する以前に、その条件がほとんどそろっていたのである。こうなると下の者の意見を聞くといっても、前に揚げた「だれから聞くか」「どういうふうに開くか」ということはおのずから定まってくる。
 ハンデだらけで何も予備知識のない上杉鷹山は、必死になって米沢藩に関する一般的情報を集めなければならなかった。それに対して松平定信のほうは、すでに白河藩における藩政改革の実績がある。それに国民も、
 「白河方式によって日本国政を浄化してほしい」
とはっきり告げている。定信の場合はその路線にすぐ乗れた。だから彼の場合は、
 「国民の期待に沿うような幕政を行なうための意見を聞く」
 ということになる。

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