童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          上杉鷹山の経営学

■米沢藩では耳が痛いことを言うと左遷した

<本文から>
  木村丈八という男がいた。硬骨漢である。学問が深かったが、学問が深いだけに、曲がったことが大嫌いだった。だから歯に衣着せずに、常に苦言を呈した。鷹山に対しても同様であった。しかし、木村は、多少他人の言うことに対して、シラケたりそっぽを向くことがあった。頭が鋭いので、他人の言うことが時に馬鹿馬鹿しく思えるのである。馬鹿馬鹿しく思えると、たちまち態度に出す。
 ある時、鷹山が自分が感じたことを側近たちに話した。竹俣以下皆なるほどという顔をして聞いていたが、木村だけがそっぽを向いた。鷹山は、話を終えて、一人になると、そっと木村を呼んだ。
 「さっき、お前は私の話を聞きながら、そっぽを向いた。なぜか」
 木村は鷹山をまっすぐに見て臆せずに答えた。
「確かに私はそっぽを向きました。それはこういうことです。得てして、偉い人は、立派なことを言います。そして、何でも思ったことを言ってほしいとおっしゃいます。その何でも言ってほしいということの中には、自分の耳に痛いこと、つまり批判でもよいから言えというようなことがあります。私はかつて、そういうことばを真に受けました。真に受けて、藩公に直言しました。藩公は初めはコニコして聞いていらっしゃいましたが、やがて段々表情が変わり、ついには目に怒りの色が浮かびはじめました。その場はそれで済みましたが、やがて来たのは私に対する左遷の命令でした。
 その時私は悟りました。偉い人が、何でも言ってみろと言うのは、実はうそだと。本当は耳に快い誉めことばばかりが欲しいのです。それなのに、何でも言ってみろということを真に受けて、耳に痛いことを言った私はバカでした。たちまち怒りに触れて左遷されるということを、私は身をもって知ったのです。
 だから、今日あなたがあんな立派なことをおっしゃっても、私は信じません。どうせあなたに耳に痛いことを言えば、私を左遷してしまうでしょうから」
 これを開いて席山は、すぐ言い返すことをしなかった。心の中で、
 (この男の言うことは一面の真理だ。恐らく、今までの米沢藩では、そういうことがしばしばおこなわれたのであろう。そのことが木村の心を頑なにしたのだ。木村は真面目なだけに、そういうことに怒りをおぼえているのに違いない。しかし、こういう真面目な男が、本当のことを言わなくなるような藩はおしまいだ。何とかしてこの男に本当のことを言わせるようにしたいものだ)
 と思うのであった。
 志賀八右衛門は、どちらかと言えば柔軟な平凡な男であった。よく自分のすることを弁解した。それに、人から何かを言われても、
 「それは無理だ。到底出来るものではない」
 と言うのが常であった。やる前に、まず出来ないということを強調するのである。
 ある時鷹山は、志賀に言った。
 「なぜ、お前は、そのように常に出来ない出来ないと言うのか。また自分のことについて、弁解がましいことをくどくどと言うのか」
 この間いに対して、志賀はこう答えた。
 「私は、人間には誠意があるということを信じております。すなわち、真心さえあれば、多くのことを語らなくても、人は自然に分かってくれるものだと信じておりました。
 しかし、米沢藩ではそうではありません。真心を持っていても、黙っていると、黙っていることを良いことにして、人々はあらぬことを言いたてます。私の過去がそうでした。私は多くを語らず身をもって、行いをもって示すことを信条としてきました。言葉は多く費やしませんでした。誠意さえあれば、自分の行動から人々はこの誠意を分かってくれると思ってきたからです。しかしそうではありませんでした。米沢本国の人々は、私が黙っていることを良いことに、私について種々噂をたてました。その多くは私の全く身に憶えのないことでした。ある日、そのことを知った私は、びっくりいたしました。私とは全く縁のない私が、一つの虚像として他人の間を歩いていたからです。私の実体はそんなものではないと痛憤しました。
 そこで、噂を開くたびにその噂が広がっている場所にとんで行って、そうではない、私はそんなことはした憶えがない、またそんなことを言った憶えもない、私が本当にしたことはこうであり、私が言ったことはこうである。

■鷹山は幕府の改革に足りなかった優しさといたわりと思いやり理念にした

<本文から>
 この状況と経済の中から、若き鷹山は独特な改革案を考え出したのであった。
 鷹山は、かつての将軍吉宗や宰相水野忠之による享保の改革や、最近の宰相松平定信をはじめとする徳川幕府の経営改革が、なぜ今まで成功しなかったのか、その理由を次のように考えた。
 一 経営改革の目的がよくわからないこと
 二 しかも、その推進者が一部の幕府エリートに限られたこと
 三 改革をおこなう幕府職員にも、改革の趣旨が徹底していなかったこと
 四 当然、改革の目的や方法が親切に国民に知らされずに、一方的に押しっけられたこと。つまり、国民の世論を喚起するためのPRに欠けていたこと
 五 改革が進んで、徳川幕府が身軽になれば、当然国民の負担が軽くならなければいけないのに、逆に幕府は増税をしたこと。つまり、四公六民という税率であった所得税を、五公五民、あるいは六公四民のように上げてしまったこと
 六 改革を進める官僚は、すべてエリートであり、部下に対して、指示・命令としてのみ方法を押しっけたこと
 こう分析した後に、もっと大きなことに鷹山は気がついた。それは、
 「改革の根本に優しさといたわり、思いやりがまったく欠けている」
  ということであった。
 政府や企業が、経営改革をおこなう時には、当然それなりの理由がある。経済が高度成長から低成長に落ち込み、閉塞状況になって、税収が落ち、新しい仕事がやりにくくなった時に、必ず改革がおこなわれる。あるいは思い切って身を削ぎ、身軽になって、新しい仕事に集中するために、古い仕事を切り捨てるというようなことがある。そのために、組織を縮小し、人員を減らし、経費を切り詰めるというのは常套手段である。
 これらのすべてが悪いことだとはいえまい。国民やお得意さんのためにおこなう変革は、日々、日常業務の中でおこなわれなければならない。これは必要である。しかし、それは、経営改革とか行政改革とか、鳴り物入りで誇大に宣伝して仰々しくおこなうことではない。地道にコツコツとその当事者が、自分たちの生活を成り立たせてくれている人々のために、誠心誠意でおこなうべき日常業務のはずである。それぞれの職場において、そこの成員が、討論と合意によって案を生み、より良い方法を、日常業務として実現していくことが、真の経営改革なのだ。行政改革なのだ。上杉鷹山は、こういう点に着目した。そして、今までの幕府が改革に失敗したのは、
 「すべて、民と社員に対する愛情の欠如だ」
 と思うようになった。
 「改革は、愛といたわりがなくてはならない」
 というのが、鷹山の経営改革の底にすえるべき基本理念であった。
 たとえ財政再建のための行政改革、経営改革であっても、その対象となる人々への愛といたわりがなくては決して成功しないということを、十七歳の彼は感じ取ったのである。
 そこで、彼は、自分の経営改革は、決して藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、むしろ、藩民を富ませるためにおこなうものでなければならない、と思うようになった。
 そう思うと、彼の胸は膨らんだ。つまり、経営改革が、陰気で勤倹節約だけを主目標にした、じめじめした暗いものではない、むしろ全藩民が藩主と一緒になって、厳しいけれども前途に希望を持っておこなう楽しい事業である、と.さえ思うようになったのである。

■心身障書著の妻から学ぶ

<本文から>
 鷹山は、自分がおこなう藩政改革の目的を、
 「民富」
 におき、その実現は、
 「愛と信頼でおこなう」
 と決意したが、その中には、
 「領内の弱い立場にある人々をいたわろう」
 ということも含まれていた。
 それを改革の目的のひとつに含めたのは、鷹山が、もともと弱い立場にある人々に優しい気持を持っていたからだが、実はもっと身近なところに理由があった。
 それは、鷹山が上杉家を継いでから結婚した家つき娘の幸が、生まれてすぐの心身障害者であったからである。幸は今でいうCP(小児まひ)にかかったのかも知れない。生まれてすぐのその病気が、その後の幸の肉体を普通に発達させなかった。彼女は、鷹山が養子になったとき、同い年の九歳であったが、二歳か三歳くらいの幼女の状況にあり、また、肉体だけでなく、精神の状態も同じであった。
 鷹山は、この事と結婚することになっていた。そして、結婚は、鷹山が十七歳のときにおこなわれた。鷹山も十七歳である。
 しかし、十七歳になっても、幸の幼女のような肉体と精神の状況は変わらなかった。若い娘に見合った発育は、ついに遂げられなかったのである。したがって、上杉鷹山は、上杉家の相続人となって身体障害者の幸姫と結婚した。
 こういう身体障害者の幸を妻として、若き席山は、どういう日々を過ごしたのだろうか。
 伝記によれば、このころ、若き鷹山は、日々、障害者の妻のために、紙で鶴を折って持って行ったという。幸は、それを糸でつなげて、鶴が日々増えていくのを手を拍って喜んでいた。また、あるときは、鷹山は、自分で粗末なもめんの布を使って人形を作って届けたという。それを受け取った幸は、鏡に自分の頻を写し、鷹山の作ってくれた人形にたまたま浜の部分が書いてなかったので、口紅と眉墨を使いながら、鏡に写った自分の顔を、人形の白い部分に写し取った。
 しかし、ふつうの十七歳の娘と違って、幸は、身体障害者である。尋常の絵が書けるわけはない。その絵は、恐らく必死の努力にもかかわらず、稚拙なものであったに違いない。
 人形に自分の顔を写し終ると、幸は、胸を躍らせながら、鷹山の来るのを待っていた。
 鷹山が来ると、幸は嬉々として、自分が顔を描いた人形を見せながら、
 「幸、幸」
 と言った。
 つまり、鏡に写った自分の顔を写したのだから、この人形の顔は自分なのだという意思表示なのである。だから、自分を見てほしいということと同時に、絵が描けたということを、鷹山に認めてもらいたかったのに違いない。
 鷹山は、幸の描いた人形の顔を見せられると、こう言った。
 「実にあなたによく似ている。まるで幸殿そっくりだ。あなたは体が不自由なのに、絵を描く才能がある。私もそれを発見できて非常にうれしい。あしたから、もっとたくさんの人形を作って持って来ましょう。どうか今日以上の上手な絵を措いて下さい。この人形は本当にあなたを見るような気がする」
 お世辞ではない。鷹山は本心でそう思っていた。つまり、身体障害者の妻に、絵に対する志向があることを知って、それがそのまま幸の生き甲斐につながると信じたからである。鷹山は、幸のこの生き甲斐を大切にしようとした。だから、いい加減な応答をしないで、
 「あなたにそっくりだ」
 という本心からの褒め言葉をロにしたのである。
 これを聞いて、幸は涙ぐんで喜んだ。不自由な彼女にも、褒められたということは伝わった。幸は、涙を浮かべて、鷹山の褒め言葉を聞いた。そして、次の日も、その次の日も、鷹山が新しい人形を持ってきてくれることを今か今かと待ちかねたのである。
 このように、公私共にきびしい状況の中で、上杉席山は、いよいよ改革案の作業に乗り出した。

■鷹山の訴えに対する3つの派

<本文から>
 集めた藩士たちに鷹山は、こう言った。
 「上杉家は、大家より小家になった。しかしそれにも拘らず、藩の上下は、諸事についていまだに大家の昔を慕っているために、おのずから家格も重い。重ければ余計な支出も増える。また太平が久しく続いているので、国全体の風俗も屠るようになっている。そのため、今これが、相応のことだと思うことも、実はすぐ香りに結びついている。当家もその風潮と無縁ではなく、誠に嘆かわしいことである。このまま成り行けば、月を経るに従い、米沢の富は尽き果てるだろう。今の藩は、他人から借りた金銀によって漸く取り繕っているような始末である。誠に国の守りというについては甲斐の無いことである。特に上がこういう状況であるのに加えて、水難、旱魃、火災、幕府お手伝い等があれば、国家はたちまち立たなくなってしまう。私は、小さな大名の家から大きな大名の家を譲り受けたが、このまま上杉家の滅ぶるのを待って、国中の人民を苦しめることは到底出来ない」
 こう前提して、鷹山は切々と訴えた。
 「これほど衰えてしまった国家をどうしたら再び立てることが出来るだろうか、一時は、この国家を返上しようとまでその筋へ尋ねてみたこともあったが、いながらにして滅ぶるを待つよりも、皆がギリギタの力を出しあって、努力するにしくはないと思い返した。どうか、頼む、最後の努力をしてくれ、このとおりだ」と言って、頭を下げた。
 鷹山の話に対して、話を開いた藩士たちの反応は様々であった。
 第一のグループは、素直に鷹席山の話に感動して、
  「この新藩主は、我々がやりたいこと、言いたいことをはっきり口に出してくれた。この若い藩主の下で、我々も精一杯努力していこう」
 と、発奮した。
 第二のグループは、真向から鷹山の考えに反対した。
 「この新藩主の考えを実現すれば、伝統のある上杉家の格式はメチヤメチヤになってしまう。到底この人の言うようなことは出来ない。我々は、あくまでも、上杉藩士の立場に立って、他家から来たこの藩主の政策に反対していく」
 と、会った早々から鷹山の政策に真向から対立しようと、心を決めた。
 第三のグループは、鷹山のトップとしての態度に疑いを持った。
 「トップというのは、もっと威信がなくてはならない。そこへいくとこの新しい藩主は一体何だろう。実態報告とは言いながら、べらべら、藩の秘密に類するようなこともしゃべり、あまりにも度が過ぎる。ましてや、足軽ごとき身分の低い現場職員にまで、ここまで藩の最高秘密を話すことはない。トップは方針を示したら、黙って俺についてこいと言うのが正しいリ−ダーシップではないのか。この人は、弱音を吐きすぎる。目的に対して自分の隈界を示すのは正直かも知れないが、逆に言えば自分の無力振りをさらけ出しているようなものだ。そういう頼りないリーダーについていくことは、とてもじゃないがやりきれない。この人は、我々の考えているリーダーのイメージとはほど遠い。まるでヒラ社員のようだ。第一、統制は出来ないから参加してくれとは何だ。こんな人の下ではこの先、我々はどういう目に遭うか分からない。おそらく、税も上がらないだろう。早く見切りをつけた方が勝ちだ」
 第一のグループは協力派、第二のグループは反対派、第三のグループはシラケ派あるいは脱走派と言っていい。そしてその通りのことがその後の藩士の態度として表れた。
 鷹山にすれば、改革の基本が、いたずらな緊縮政策では、藩士や藩民のモラールが萎縮すると考えた。それは、徳川幕府がいままでにおこなった行政改革が、すべて勤倹節約の緊縮政策であったために、行革を推進する幕府職員自体、あるいはそれを受けとめる国民自体が萎縮してしまって、結局はその改革に協力しなかった。だから改革は失敗した。鷹山はその改革失敗の原因を自分なりに考えた。それは前に書いた通りだ。そこで、
 「改革を進めるには、まず改革主体のモラールをアップしなければならない。また改革される側が喜んでその改革を受け容れるようにしなければならない。改革を喜んで受け容れたり、モラールアップをしながら改革を進めるということは、改革する側もされる側も改革の趣旨をよく理解し納得して、自発的に協力するようなムード作りが必要なのだ。それには、改革の目的そのものが、究極的には、誰かさんのために役立つという意義が設定されていなければならない」
 だから鷹山が藩士たちに話したことは、別な言葉で言えば、
 ○何がしたいか
 ○どこまで出来るか
 ○なぜ出来ないか
 ○どうすれば出来るか
 もっと言葉を変えれば、
 ○理念・目的の設定
 ○限界の認識
 ○障害の確認
 ○可能性の追求
 ということになろう。そして、そのためには、
 一 情報の共有
 二 全藩士参加
 が必要だということ忙なる。
しかしやっかいなのは、反対派とシラケ派の始末であった。

■火種のエピソード

<本文から>
 この灰と同じようにである。恐らくどんな種を構えても、この灰の国では何も育つまいという気がした。だから今、領内に残っている人間たちの表情に希望がないのだ。それを私はよみがえらせねばならぬ。しかし、そんなことは私には出来ない。私は、いい気になって今までお前たちに改革案を作らせたが、しかしそれを受け入れる国の方が死んでいた。これに気づかなかった。私は甘かった。そこで、深い絶望感に舞われ、灰をしばらく見つめていた。
 やがて私は煙管を取ってその灰の中をかきまわしてみた。すると、小さな火の残りが見つかった。その火の残りを見つめているうちに、私は、これだ、と思った。これだというのは、この残った火が火種になるだろうと思ったからである。火種は新しい火をおこす。その新しい火はさらに新しい火をおこす。その繰り返しが、この国でも出来ないだろうか、そう思ったのだ。
 そして、その火種は誰あろう、お前たちだと気がついたのだ。江戸の藩邸で色々なことを言われながらも、私の改革理念に共鳴し、協力して案を作り、江戸で実験をして悪いところを直し、良いところを残す、そういう幸い作業をやってくれた。そして今、その練り固まった改革案を持っていよいよ本国に乗り込もうとしている。そういうお前たちのことを思い浮かべた時、お前たちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。お前たちは火種になる。そして、多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり斉民のことである。中には濡れている炭もあろう、湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、私の改革此反対する炭もたくさんあろう。そういう炭たちは、いくら火吹竹で吹いても、恐らく火はつくまい。しかし、その中には、きっと一つや二つ、火をつけてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ。
 そのためには、まず、お前たちが火種になってくれ。そして登別たちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移して性しい。城に着いてからそれぞれが持ち場に散って行くであろう。その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸に火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を大きく燃え立たせるであろう。私はそう思って、今、駕籠の中で一所懸命この小さな火を大きな新しい炭に吹きつけていたのだ」
 すべてではなかったが、家臣団の多くは感動した。たちまち声がおこった。
 「分かりました。お屋形棟、その火をいただかせて下さい」
 「この火を?」
 鷹山が聞き返すと、その家臣はこう言った。
 「その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に火を移します。それを私は、お屋形様が言う改革が達成される日まで、決して消しません。炭を消さないで、家に大切に保存致します。同時に、私の胸に燃えている火を、自分の持ち場に帰って仲間の胸に移します。その火が乏しくとも、数が少なくとも、万分の一なりともお屋形様のお考えをこの米沢で実現させましょう」

■鷹山は身分の問題で限界を感じる

<本文から>
 そこで、布れを信じずに、再び掃除を始めたり藷施設を整備したりしようとした。しかし、これを知った竹俣が役人を派遣して、どんどん止めさせた。
 「布れは真実である。もしも、この布れに背いてお前たちが見てくれのための掃除をしたり、施設を修理したり、農民のロにたがをはめたりしたら、それこそ重いお咎めがあるぞ」
 と言って、鷹山の廻村のための取り繕いを一切やめさせた。
 この時、鷹山は、東置賜、西置賜、南置賜の三郡を廻った。廻村には一週間の日を使った。しかも、廻村したのは、主として開墾地であった。すなわち糠野村、州島村、八丁巻、中島、道心河原、西悪戸、小出村、宮原村、平山村、それに野川の堤防、さらに製蝋所、籾倉、青苧の倉などであった。最後に、山の杉林の植林光景も見た。また白鷹山にも登った。松川では、漁師たちの希望によって、鱒の漁を見た。しかしとれた鱒は、自分の口にせず、そのまま養父の旧藩主、重定の所に届けさせた。
 この廻村の過程で、席山が何を見、何を悟ったか、その詳細は不明である。ただ、この廻村が終った後、どういうわけか鷹山は、藩士たちの手伝いを解放した。
 「今後、藩士の諸作事への労力奉仕は必要ない」
 という布令を出した。
 上杉鷹山に詳しい研究者によれば、この時鷹山は、廻村と、さらに藩士たちの労力手伝つの二つを組み合わせて、鷹山の改革でもどうにもならない、
 「身分の問題」
 を感じとったと書いておられる。
 それは、藩士が労力手伝いという形で農工商の生活に近づいていっても、農工商は所詮その作業をつけ焼刃として受け止め、本心から、武士たちの共同作業を歓迎してはいなかったということなのかもしれない。それは、両側に理由があるのであって、農工南側から言えば、自分たちの守備範囲を固持したかったであろうし、また武士たちにすれば、最後まで武士気質が抜けず、いわゆる武士道というものを捨て切れずに、本当の意味での農工商になりきれなかった、というようなことが作用していたのかもしれない。
 いずれにしても、この時の上杉鷹山の廻村は、水戸黄門のような、領内漫遊というわけにはいかなかった。彼はより苦い思いを抱いて城に帰ったのである。その詳細は、あまり書き残されていない。

■鷹山は藩主というのは国家と人民のための仕事をするために存在するとの考え
<本文から>
 天明五年(一七八五)二月三日、鷹山は隠居の願書を出し、鷹山と世子治広は、江戸城に入って、鷹山は隠居を許され、冶広は家督相続を正式に許された。この時、鷹山は三十五歳であった。在職十九年である。
 この時礁山は、治広に米沢藩主としての心得三力条を与えている。
 それは、
 一 国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、我、私すべきものには之無く候
 一 人民は、国家に属したる人民にして、我、私すべきものには之無く候
 一 国家、人民のために樹てたる君にて、君のために樹てたる国家、人民には之無く候
 右三条、御遺念あるまじく候事
 天明五巳年二月七日 治憲
  治広殿 机前
 というもので、世間はこれを、
 「伝国の辞」
 と呼んでいる。
 この伝国の辞は、米沢藩主が交代するたびに引き継がれた。
 訳すまでもなく、席山の思想がはっきり現われている。つまり、当時の封建幕藩体制下では、藩主はそこの藩民を私し、単なる税源としてしか考えていなかった。領民の人格を全く無視していたのである。しかし鷹山はそうは考えなかった。ここで国家というのは藩のことである。藩は藩主の私物ではないということと、藩の民すなわち藩民はこれも私物ではないということである。つまり、領民は藩という当時の自治体に属しているものであって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士たちの私的税源では全くない、ということを鷹山は宣言したのである。だから、藩主というのは、その国家と人民のための仕事をするために存在するのであって、国家や人民は、藩主のために存在しているのではない、と明確に言い切った。
 これは、今から二百十五年も前に言った封建領主の言葉とは、とても思えない。後の民主主義政治をおこなう政治家たちでも、ここまではっきり自分の立場を認識して、天下に明言した人は少ない。又明言しても、その通り実行する政治家は更に少ない。
 ケネディが、鷹山を、
 「私の尊敬する日本人」
 としてあげた理由も、このへんにあるのだろう。
 もうひとつは、この考えはあきらかに藩機関説である。藩は人民の合意を実行するための機関だということを明言している。およそ二百年ほども前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕藩体制下では稀有のことであって、また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示している。まだ近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもない。あくまでも鷹山の独創であった。しかし、原典は恐らく中国の書物であろう。中国の書物の中から、鷹山は、
 「藩主も人民に奉仕するものである」
 という主権在民説を学び取っていたのである。これは、企業において、
 「顧客こそ主人であって、企業員はこの顧客に奉仕するものである。なぜならば、企業員の生括費は、顧客から与えられるものだからである」
 ということにも通じよう。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ