童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説遠山金四郎

■先例を大事に、正しい裁きを行う

<本文から>
 「訴訟の処置に当っては必ず先例を調べてもらう。例練方の仕襲は大切だ。が、それは必ずしも先例どおりに私が裁判するということではない。この裁決は正しかったのか、本当ばどう裁くべきだったのか、そういうことを考えたい。おまえたちもそのつもりで仕事をしてくれ。ただ古い書類を繰るのでなく、意見があったら添えて出せ。ただ古い書類に生命と光を与えろ。私は例練方を中心に仕事をすすめる」
 二人は感激した。何というありがたい贈り物か。″反古の虫″といわれている例繰方を、遠山奉行はもっとも重視するというのだ。山田はうつむいて嗚咽しはじめた。そのあともしばらくの間金四郎は木谷の棺の前に座っていた。
 

■金四郎の意見書には江戸市民への熱情があった

<本文から>
 金四郎は意見書を書いた。短い行と行の間、字と字の間に自分の江戸に対する熱情を込めた。しかし、文章自体は非常に柔らかく、すらっと読めばそういう思いが込められていることに気がつかない。次のようなものである。
「累年庶民奢りに長じ、相互に困窮いやましの状況は、ご老中のご推察のとおりであります。そこで今般厚きご仁恵にて、お救いの御趣意宣揚のために、数々のご禁令をお出しになりました。しかし、このご禁令の趣旨は、必ずしも窮屈に心得ることではなく、総じて祭礼ごとや祝いごとは勿論、諸事分限相当に致し、かつ遊民共の行態も一切宣しからずと申すことではありません。その他繁準の土地において渡世する者共も、自己の暮らしは奢らぬようによく申し合わせれげ、分相応の暮しと相成り、江戸の賑わいも衰えることはございません。これらのことを正しく理解せずに、いたずらに節約一辺倒の暮らしに相成っては、何となく江戸市中が寂しくなります。そうなっては、かえって深きご改革・ご仁政のご趣意にも叶わず、宜しいこととは思えません。この正しいご趣意をこの際改めて江戸市中の名主共に伝え、また名主共から一般市民へ申し含めることによって、ご改革の正しいご趣旨が行き渡るとでございましょう」
 最後に、
「寛政のご改革時には、ご老中松平定信様も、そのようにお考えでございました」
 と。定信の文書が添えてあった。
意見書を手にした水野忠邦は呆れた。呆れただけでなく怒りが込みあげてきた。
「遠山の奴は、全く私の政雄趣旨を歪めている」
と感じた。水野忠邦の改革趣旨はこんなことではない。遠山の古いてきたことは、
「改革の趣旨は江戸市中を寂さすことではない。江戸市民の身分不相応な贅沢を戒めることにある。だから、特に取締りの厳しくなった繁華の土地で生活する者も、この辺をよくわきまえて、自分の贅沢な暮しは改めるけれど、江戸の賑わいはそのまま保つように心掛けなければならない。それには特段の努力が必要なのだ。そうすることによって、この度のご改革がご仁政である所以をよくわきまえ、いよいよ励むように」
 としてしまっている。

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