童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          真説徳川慶喜

■架空座談会

<本文から>
 −ある日、徳川最後の将軍慶喜の黒幕といわれた人達が捕まって座談会を開いた。出席したのは、中根長十郎、黒川嘉兵衛、平岡円四郎、原市之進、渋沢栄一の五人である。司会は堂門冬二がつとめた。座談会の目的は、「黒幕たちのみた徳川慶喜」を主題に、幕末維新の時に慶喜が最後の将軍として果たした役割を、もう一度明らかにし、検証しようとするものだ。
 

■徳川慶喜の思想は「尊皇開国」

<本文から>
 「慶喜公はもともとは尊皇攘夷論者だった。水戸斉昭公のご子息なのだから当然だ。それを脇にいる原市之進が、よけいなことを吹き込んで、慶喜公を開国論者にしてしまったのだ」
 と言ったのを聞き、
 「けしからん。原をを殺そう」
 と思い立ったのである。
童門 山岡鉄舟さんは幕臣ですが、幕府の中にも結構尊皇攘夷論者がいたのですね?
原 そうだ。しかし、山岡鉄舟ははじめから尊皇攘夷論者だったのだから、別に悪い人間ではないよ。後に明治天皇のお守役にもなったしね。
童門 こうして、慶喜さんを支えた黒幕さん達は、最初に中根長十郎さん、次に平岡円四郎さん、そして最後の原市之進さんがそれぞれ暗殺されてしまいました。残ったのは黒川嘉兵衛さんでした。が、そう言っては何ですが、原さんが暗殺された後の慶喜公はちょっと冴えませんでしたね。
黒川 それはおれが能無しだったからさ(笑う)。
 黒幕たちも笑う。
 この黒幕たちの架空座談会を通じて知ったことが二つある。それは、
●徳川慶喜は、心の底にはずっと「王政復古」を考えていたこと。
●その考えは、父親の徳川斉昭から受け継いだものであり、同時に水戸学によって育まれたものであること。
●したがって、徳川慶喜白身は「将軍でありたい」とか「徳川幕府を永久に存続統させたい」などという考えは持っていなかった。
●しかし慶喜は「王政復古を実現するにしても、徳川幕府が力が無くて惨めに滅びたから王政復古になったのだと言われたくない。将軍も幕府も健在あり、十分な政治力を持っていたが、自発的に政権を朝廷にお返しした、という形をとりたい」と願っていた。
●にも刷らず、時の流れはその願望を実現させなかった。幕府は惨めに追い詰められて行った。追い詰めたのは主として薩摩藩ある。だから慶喜にすれば無念であったに違いない。しかし慶喜の思想というのはあくまでも「尊皇」にあっったので、それが時勢を見極めるクールな思考力を持っていたから「攘夷」には傾かず、「開国」に傾いたのだ。しかがって徳川慶喜の思想は「尊皇開国」であったと言える。この事実は、あまり知られていない。
童門 そう考えていいですか?
 わたしの問い掛けに、黒幕たちは一斉に頷いた。
平岡 それが正しいと思う。
童門 ということは、あなた方黒幕さん達も同じ思想だと考えていいですか?
平岡・原 (同時に) それでいい。
 はっきり言い切る黒幕たちに、わたしは安心した。そして、
「徳川慶喜という人物は、何を考えて何をしたのか」
 ということに対する手応えのある回答を得た思いがした。
 徳川慶喜は水戸家に生まれ育ち、水戸学を身に付けた。そして特に父の尊皇攘夷論者であった斉昭の影響を受けた。その枠の小から慶喜はは一歩もはみ出てはいない。後に、
「不肖の息子」
 とか、
「クルクル考えの変わる政治家」
 などと言われた。しかし黒幕たちの話を仰聞いた限りでは、徳川慶喜は最後まで、
「王政復古を信じていた存在」
 であり、
「その王政復古は、徳川幕府が最後の光り輝く実力を示した後に実現する」
 というプロセスを踏むことを願っていた。しかし残念ながら、その考えは何といっても、
「守りの姿勢」
 であって、
「攻める姿勢」
 ではない。それは攻める側が結局は、
「なりふり構わない攻撃」
を加えたからである。その証拠に、
「攘夷」
を旗印にして徳川幕府を追い詰めた薩摩藩や長州藩たちは、新政府樹立と同時に「開国」に踏み切ってしまったからである。こういう背信は、徳川方にとっては我慢のできないことであったに違いない。だからこそ、鳥羽伏見の戦いは、
「朝廷に対する攻撃」
 ではなく、あくまでも、
「討薩」
 という薩摩藩に対する攻撃に終始していた。その限りでは、徳川方にすれば、
「この戦争は決して朝廷に対する反逆ではない。君側の奸としての薩摩藩を懲らしめるための戦争だった」 

童門冬二著書メニューへ


トップページへ