童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説徳川吉宗

■吉宗は親政を行っても公式組織を無視しない

<本文から>
 「同一人に花と実は与えない」
 という方針だった。花と実を同一人に与えないというのは、権力と給与を同時に与えないということだ。権力を持つ者は給与を低くし、給与の高い者には権力を持たせないということだ。特に、幕府の諸役人は全て普代大名と直参から採用することにし、外様人名はどんなポストにも就けなかった。家康が″庄屋仕立”といったのは、村落共同体における庄屋の役割を、そのまま江戸幕府の制度に導き入れようとしたのである。だから、はじめの頃は、幕府の最高首脳部を”年寄り”と呼んだ。これがやがて”老中”に変る。その下について補佐するのが”若年寄”になった。
 吉宗は、前将軍の側近を一掃した後、老中、若年寄、大日付、諸奉行を全部呼び出した。
こう告げた。
「そのまま今の仕事を続けてもらいたい。特別な異動は行なわない」
 これをきいて、呼び出された連中は安堵した。前将軍の側近をたちまち一揃するような吉宗だから、幕府の諸ポストについても吉宗は、自分の好みの人物を登用して、自分たちは更迭されるに違いないと考えていたからだ。
 吉宗は、
「たとえ将軍親政を行なったとしても、公式組織を重んじて行く」
 という方針を持っていた。今まで将軍が親政を行なった時は、必ず公式組織を無視して、自分のお気に入りを側用人として登用した。そして、ごく限られた連中だけで、幕政の大綱を決めた。そのため、公式組織である老中たちは、全部カヤの外に置かれたり、二階に上げられて梯子をはずされてしまった。当然、この連中に不平不満の情が湧いた。吉宗はこういう情況を見ていて、
「この連中を腐らせたり、あるいは不平不満の情で心の中をいぶらせてはならぬ」
 と考えた。しかしだからといって、今のままでいいという考えはとらなかった。
 吉宗は、列席者のうち、若年寄、大目付、諸奉行を退出させて、老中だけを残した。この時の老中は土尾政直、井上正峯、阿部正喬、久世重之、戸田忠真の五人である。吉宗はさりげなくきいた。
「それぞれの役職の分担をききたい」
 幕府は、あくまでも軍事政府である。したがって、番カと役方に分れている。番方というのは武官のことであり、役方というのは文官のことである。五人の老中はそれぞれ、役割を、
「私は番方でございます」
 とか、
「私は役方でございます」
 などと答えた。頷いた吉宗は、番方と答えた久世重之にきいた。
 

■就任早々に老中への口頭試問

<本文から>
「それぞれの役職の分担を聞きたい」
 幕府は、あくまでも軍事政府である。したがって、番方と役方に分れている。番方というのは武官のことであり、役方というのは文官のことである。五人の老中はそれぞれ、役割を、
「私は番方でございます」
 とか、
「私は役方でございます」
 などと答えた。頷いた吉宗は、番方と答えた久世重之にきいた。
「今、江戸城の櫓の数はどのくらいあるのだ?」
 久世はビックリした。慌てて顔を真赤にし、
「いや、そんな細かいいことは存じません」
 と答えた。吉宗は、
「そうか」
 といって、
「それでは江戸城の蔵に納めてある槍は何本ある? 旗は? 鉄砲の数は?」
 と矢継ぎ早に開いた。久世は狼狽した。そんなことは考えたこともない。仕方なく、
「早速調べた上で、お答え申します」
 としどろもどろに応じた。吉宗はニコリと笑って、
 「いや、そんなに急ぐことではない」
と久世への質問は打切った。役方と答えた井上正峯にきいた。
「天領(幕府直轄領)の、今年の貢租の額はどれくらいだ?」
井上は目を見張った。そんなことは調べたこともない。大体幕府は、この頃まだ財政というものを確立していない。すなわち「入るを計って出するを制する」
という考え方がなかった。入るも計らずに出ずるも制さないという乱脈財政だった。だから、日本中の天領からどれだけの米が幕府に納められているのか、そんなことに関心を持つ大名はいなかった。銭勘定などするのは、武士あるまじき振舞いだという考えが支配的だったからである。
「存じません。下役に調べさせた上、後刻お答え申しあげます」
答弁の質としては久世とかわりないことを井上も答えた。吉宗はだからといって怒りの表情をを浮かべるようなことほしなかった。ただ胸の内では、
(こいつらは皆がかで無責任だ)
 と感じた。しかしさっき全員に、
「今までどおり職務に励むように」
と告げたのだから、口頭試問に答えられかなったからといって、解任するようなことはしなかった。
(これで少しは薬が効いたろう)
と胸の内でほくそ笑んだだけである。老中たちは汁をびっしょりかいた。そして、違った形で吉宗が新将軍の勢威を示す巧みさに、胸の底を震わせた。一様に、
 (新将軍を甘く見たら大間違いだ)
 と思った。

■吉宗は自分の”耳”と”目”として、活用したのが「お庭番」の設置

<本文から>
吉宗は、次に自分の”耳”と”目”として、活用したのが「お庭番」の設置が。お庭番というのは、表面は、江戸城内の庭の管理を職務とする。しかし、本当の仕事は謀者だ。吉宗から直接命令を受けて、大名家や、直参、あるいは市中の状況などを探る。庭で、植木の世話をしたり、池の魚に餌をやっていたりすれば、時折吉宗が庭見物に出てくる。その時、
「この木の花はいつ切咲くのか?」
 とか、
「他の鯉で死んだのはいないか?」
 などときく。脇から見れば、庭についての話をしているように見える。また、そういうことなら、身分が低くても直接将軍と話ができる。それを利用しようというのだ。
 お庭番に選ばれたのは、紀州から連れて来た″薬組”と呼ばれる十七人の武士だった。これらの武士は、三河以来の徳川譜代で、徳川家康の十男頼宣が紀州藩主になった時、特に家康から命ぜられて供をして行った者の子孫である。
(中略)
「命じたことに対して、生の情報だけをもたらすように。一切、勝手な判断をしてはならない」
ということだった。

■吉宗は諜報活動で得た情報で用意周到に準備する

<本文から>
「紀州藩の間者が、商人などに化けて、尾張家の屋敷や水戸家の屋敷に入り込んでいた」などという噂が流れた。うがった噂だが、しかし全然根がないとはいえない。つまり将軍になった吉宗が、紀州から率いて来た薬組を新しく″お庭番”として、しきりに諜報活動をさせているからである。薬組は、吉宗が将軍になる前から、尾張家や水戸家だけでなく、諸大名家にも入り込んで、噂や動向を探っていたに違いない。吉宗の一面であるスパイ政治は、この頃からすでに発挿されていたのだ。
 そう考えると、紀州吉宗の勝利は、必ずしも偶然の運によるものではなく、かれ自身が用意周到に、前々と梢報を集め、分析し、
「紀州藩はどう動くべきか」
 という政的戦略を、かなり前から確立していたということになる。やはり、欲しいものはただ黙っていても手に入らない。自分から意志表示をするか、あるいは積極的にその座に向ってタックルして行く果敢な精神がいる。
「欲しいものは、自分の手で取れ」
 ということだ。

■幕府の諸役人への進物と請託の悪循環を正そうとした

<本文から>
 吉宗が正そうと思ったことのひとつに、幕府の諸役人への進物と請託の悪循環がある。進物は、末端まで行き届いていて、何か目的がある者は、しきりに金品を贈った。代わりに、自分の希望をかねえてもらおうというのだ。それは手が込み、またひどく行き渡っていた。本人だけでなく、家族を芝居見物に連れ出したり、高い料亭に招待したりした。本人は、吉原へ連れて行かれて、芸者の総揚げの振る舞いを受けた。
 吉胸は、お庭番に命じてそういう噂の事実確認をさせた。
「誰が、誰から何を貰い、どういう便宜を図ってやったか」
 と、権力乱用の例を調べさせたのである。お庭番の報告によると、老中水野忠之だけが徹成して進物を受け取らなかった。かれは、江戸の屋敷に持って来られた金品はは全て返却した。お庭番は笑ってこう付け加えた。
「進物を返した家には、前川家がごぎいました。前川家は、水野家とは親戚でございますので、なぜ親戚からの季節の挨拶を受け収らないのだ、と逆に食ってかかったそうです。しかし老中水野様はそこまで潔癖でいらっしゃいます」
「そうか」
 吉宗は、自分の目に狂いがなかったことを喜んだ。
 吉宗は、情報探索の手足として、お庭番だけでなく江戸城内にも茶坊主が何人かいた。水谷甫閑、河合久円がそれだ。ある日、河合久円が吉宗のところに来てこんな話をした。
「本日、殿中で面白いことがございました。ご老中水野和泉守様が、信州飯山藩主の本多若狭守様を、満座の中でお叱りになりました。」
「水野が本多を? 何があったのだ?」
 吉宗は耳を立てた。河合久円は話を続けた。
「上様もご存じのように、本多若狭守様は、この度上様のお許し得て、越後(新潟県糸魚川)から、ご希望の信州飯山へお国替えになったばかりでございます。このお願いを本多様はかねてから水野様にしておいてでございました。そこで、本多様は水野様のご登城を待ち構えていて、この度はどうもありがとうございましたとお礼を申しあげたわけでございます。すると水野様がこうおっしゃいました。
『若狭守殿、それはお心得違いだ。この度のお国替えは、上様がお決めになったことであって、私は何も知らない。礼を言われるのは心外で、そういうお心があるのなら、今後も上様に心からの御忠節を励まれよ』と」
「それは面白いな。本多もとんだ恥をかいたわけだ」

■目安箱のお触れ

<本文から>
そして鳩巣は、自分の経験から、目安箱への投書の規定について、細かい意見を出してくれた。大岡忠相は、その意見を参考に、江戸市民に知らせる御触れの案を次のようにまとめた。
・今までも、公辺に対し、投書があった。しかし、偽名や住所のないものも多かった。これからは、そういう投書は認めない。投書日も、毎月二日、十一日、二十一日の三日とする。これらの日の正午までに、目安箱に投入せよ。今後投書は全てこの目安箱に投ずべきで、以外の場所に投げ文しても一切受付けない。
・投書の内容は、必ずご政道に関することで、お為になるようなことが望ましい。
・諸役人の私曲については勿論告発してよい。
・訴訟問題で、役人が放ったらかしにしておいて長く決着のついていないものについては、その役人に直訴することを断って、投書すること。
・自分だけの利益、あるいは私の遺恨などによって、他人の悪口を書いても取り上げない。
・自分の意見でなく、確認もしないで他人に頼まれたことを投書しないこと。
・訴訟問題は、関係役所に訴えないうちに、あるいは未決の問題を、いきなり投書しないこと。
・真実からはずれ、言葉をつくろい、嘘を書くようなことは必ずわかるから、そういうことをしないこと。

■吉宗の改革の際立った方法

<本文から>
徳川時代に、最初のリストラクチヤリングを行ったのは八代将軍徳川吉宗だ。リストラクチヤリングというのは、財政再建が目的だから、なんといっても銭勘定を頭に置かなければならない。しかし、士農工商の身分制下では、銭勘定をするには商人でしかもその行為は卑しいとされていた。「武士は食わねど高楊枝」というのが、武士精神だった。
 吉宗はこれを根本からひっくり返した。かれは、いわゆる「享保の改革」を展開した。江戸時代には三つの大きな改革があった。享保の改革、寛政の改革、天保の改革である。しかし、寛政の改革も天保の改革も、すべて吉宗が行った享保の改革を模範とした。その意味では、吉宗は、江戸時代を通じて、最初のリストラチャリングを行った存在だといえる。
 かれの手法は、そのころ上方商人の間で行われいた経営政策をそのまま踏襲した。上方商人たちが行っていた方法というのは、元禄の商人作家井原西鶴が強調した方法である。西鶴は「不況の時は、わたしが調合する長者丸を飲むといい」といった。そして、長者丸の成分は次の四つだと告げた。
・始末
・算用
・才覚
・信用
である。「倹約を実行し、勘定を合わせる。いくら倹約をしても勘定が合わないときは、他から足らない分を工面する。しかしそれには信用がなければならない」といった。また西鶴は「せっかく長者丸を飲んでも、独を併用したら何の効きめもない。逆効果だ」といった。
・本業に精を出さないで副業ばかりに夢中になること。
・主人がギャンブルに夢中になり、仕事を全部従業員に押し付けていること。
・ろくに確かめもしないですぐ保証人の判を捺すこと。
・せっかく得た利益を全部投機的な事業に注いでしまうこと。
などである。徳川吉宗が展開したリストラも、ほぼこの線に乗っていた。しかしかれは将軍であり、武士であったから、それなりに展開方法には商人とは一味違うところもあった。
 吉宗は紀州藩主だったが、徳川本家に相続人が絶えたので分家から本家に入って将軍職を継いだ。かれが展開したリストラの方法で際立って目につくのは、
・フォーマル(公式)組織を活用したこと。
・勢い、インフォーマル (非公式)糾織や存在を否定したこと。
・大幅な組織改正を行わなかったこと。同時に、減員を行なわなかったこと。
・上から下までの幕府役人の潜在能力を掘り出したこと。
・倹約は、かれが先頭に立って実行したこと。
・減量経営一辺倒ではなく、積極的に拡大再生産あるいは新規事業興しも行ったこと。
・改革の目的は、あくまでも国富・民富であったこと。
・併せて、徳川幕府の権利を確立しようとしたこと。
などである。

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