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<本文から>
「同一人に花と実は与えない」
という方針だった。花と実を同一人に与えないというのは、権力と給与を同時に与えないということだ。権力を持つ者は給与を低くし、給与の高い者には権力を持たせないということだ。特に、幕府の諸役人は全て普代大名と直参から採用することにし、外様人名はどんなポストにも就けなかった。家康が″庄屋仕立”といったのは、村落共同体における庄屋の役割を、そのまま江戸幕府の制度に導き入れようとしたのである。だから、はじめの頃は、幕府の最高首脳部を”年寄り”と呼んだ。これがやがて”老中”に変る。その下について補佐するのが”若年寄”になった。
吉宗は、前将軍の側近を一掃した後、老中、若年寄、大日付、諸奉行を全部呼び出した。
こう告げた。
「そのまま今の仕事を続けてもらいたい。特別な異動は行なわない」
これをきいて、呼び出された連中は安堵した。前将軍の側近をたちまち一揃するような吉宗だから、幕府の諸ポストについても吉宗は、自分の好みの人物を登用して、自分たちは更迭されるに違いないと考えていたからだ。
吉宗は、
「たとえ将軍親政を行なったとしても、公式組織を重んじて行く」
という方針を持っていた。今まで将軍が親政を行なった時は、必ず公式組織を無視して、自分のお気に入りを側用人として登用した。そして、ごく限られた連中だけで、幕政の大綱を決めた。そのため、公式組織である老中たちは、全部カヤの外に置かれたり、二階に上げられて梯子をはずされてしまった。当然、この連中に不平不満の情が湧いた。吉宗はこういう情況を見ていて、
「この連中を腐らせたり、あるいは不平不満の情で心の中をいぶらせてはならぬ」
と考えた。しかしだからといって、今のままでいいという考えはとらなかった。
吉宗は、列席者のうち、若年寄、大目付、諸奉行を退出させて、老中だけを残した。この時の老中は土尾政直、井上正峯、阿部正喬、久世重之、戸田忠真の五人である。吉宗はさりげなくきいた。
「それぞれの役職の分担をききたい」
幕府は、あくまでも軍事政府である。したがって、番カと役方に分れている。番方というのは武官のことであり、役方というのは文官のことである。五人の老中はそれぞれ、役割を、
「私は番方でございます」
とか、
「私は役方でございます」
などと答えた。頷いた吉宗は、番方と答えた久世重之にきいた。
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