童門冬二著書
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          小説徳川秀忠

■関ヶ原の遅参した理由は徳川譜代を温存することと確信する

<本文から>
 (自分の使命は、この徳川譜代の臣を温存することではないのか?)
 と思いはじめたのである。ということは、
(自分が率いる軍勢は、合戦に参加しない方がいいのではないか)
 ということだ。もっと突っ込んでいえば、
「自分が到達する前に、合戦が起こって豊臣系大名の相殺現象が起こった方がよくはないか」
ということである。残酷で非情な考えだが、これは父の思惑に通ずると秀忠は信じた。
「父は、豊臣系大名が殺し合って、双方に被害が出て、敵味方とも滅び合ってしまえばいいと願っているのだろう」
 と感じた。この感じは確信に変わった。 
 (父は必ずそう思っている)
と信ずるようになった。そうなると秀忠にとって父から命ぜられた、
 「急ぎ東山道を上って、本軍に合流せよ」
ということは、豊臣系諸将に対する口実なような気がする。あるいは、味方の徳川家譜代の臣を騙す口実かもしれない。
(迂闊に父の言葉を信ずるわけにはいかない)
秀忠はそう思いはじめた。不思議な喜びが胸の中に湧いてきた。
(不肖の息子といわれたおれが、はじめて父の真意に沿う機会を得たのだ)
 と思えた。が、単にただグズグズと行軍を遅らせ、本軍の合流を延引したのでは、面目が立たない、やはり総大将としての任は果たさなければならない。具体的には、
「合戦で手柄を立てる」
ということである。そう考えると、格好の標的がいた。真田父子の守る上田城である。真田父子はすでに、
「石田三成殿に味方する」
 と宣言している。明らかに徳川軍に対する敵対行為を公言しているのだ。十分に攻める理由が立つ。
「よし、真田を攻めよう」
 秀忠はそう決意した。秀忠にすれば、
「東山道軍が、単に本軍との合流に遅延したわけではなく、上田城を攻め落とすために時間がかかったのだ」
 という理屈立てができる。同時に、みごと上田城を落とせば、
「秀忠様があの難攻不落の上田城を攻め落とした。真田父子の首も取った」
 ということで、一躍武名も上がる。真田家の存在は、当時それほど名を高めていた。
「まさに一石二鳥だ」
 秀忠はほくそ笑んだ。自分の思い付きが、何と素晴らしく思えたことだろうか。しかし、これを従って来た家臣たちに話す訳にはいかない。秀忠は自分の企てを、自分一人の胸の中に納めた。
 今から父家康の賞賛の言葉が想像できた。
「秀忠、よくやった」
と父は褒めてくれるにちがいない。特に、
「徳川家譜代の臣をほとんど温存できたのはさすがだ。おまえはよく父の真意を見抜いた」
と言ってくれるにちがいない。この参戦はそのまま、宇都宮で分かれた兄結城秀康の最後の言葉にも適合する。秀忠の頭の中では、もやもやしていたものが一切なくなった。胸の中で何かがパチンと割れ、その中から確信という実が転がり出て来た。秀忠はしっかりとその実を握りしめた。 

■江戸城の不満を談伴の会で緩和

<本文から>
近頃の江戸城は、
「駿府城に操られるままだ」
 という不平不満は充満していた。このぎすぎすした雰囲気を、春風のような秀忠が、談伴の会を催して、
「江戸城の内外の真実の声を、お聞きになっておられる」
 という評判が高まれば、それはかなりの中和剤になることは確かだ。大久保忠隣も本多正信も賛成した。特に忠隣は、自分の息子の忠常が秀忠のお側近く仕えることができることになったので喜んだ。忠常は、父の忠隣とはやや性格が違った。忠隣には、何といっても、
「文治派的考えは持っているが、武功派の代表として終始する」              ′
 という意気込みがあった。だから文治派という本来の考えは、底に潜め、外皮は武功派と全く軌を一にしていた。その言行は従って武張っていた。
 そこへ行くと忠常は、秀忠と同じように温厚篤実で、常に柔らかい雰囲気を身辺に漂わせ、接する人々に何ともいえない安らぎを与えていた。

■幕府というのは、武士の政府である

<本文から>
 秀忠の考えでは、
「幕府というのは、武士の政府である」
 という考え方だ。リンカーン的な言い方をすれば、秀忠の考えは、
「徳川幕府は、武士の・武士による・武士のための政府」
 だということだ。勢いかれは、軍事職を大事にしたいと願った。番方というのは、その軍事職をいう。これに対し、
「平和になった日本を経営する役職者」
 を、
「役方」
 といった番方が、
 幕営(すなわち、合戦場に設けられ、幕を張った臨時政府)詰所の警戒や、主人の身辺警護などに、当たるのに対し、役方の方は、行政や経済を司るいわば、
「行政職」
 だ。今でいえば、″背広(スーツ)組″ のことである。側用人や、町奉行、寺社奉行、勘定奉行、外国奉行、長崎奉行などの諸奉行や、諸々の行政職をいう。
 秀忠が、戦時職であり軍事職である番方を重視し、役方にそれ程力を入れなかったのはどういうことだろうか。
 ひとつの推察だが、秀忠には、
「京都朝廷に対する考え方」
 があったのではなかろうか。つまり父親の家康は、「禁中並公家諸法度」を作って、天皇や公家から政治に対する権限を取り上げてしまった。天皇や公家は、
「日本の古い文化の保持者」
 と、その行動範囲を限定じた。しかし、いっどうなるかわからない。
「日本の唯一の主権者は天皇だ」
 と言い出すような連中も必ず現れる。そういう時に、秀忠にすれば、
「軍事政府である徳川幕府は、職制によってその対抗力を強固に固めておかなければならない」
 と考えたのではなかろうか。秀忠自身も、父親の家康が、大坂の陣直後に出した、
「元和値武令」
 がどういうものかはよく知っている。

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