童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説 田中久重

■作った品物で相手の人が喜ぶようなことをしたい

<本文から>
  手習屋へ通いはじめてから三、四年経った。しかし、十二、三歳ぐらいになると、久重の悩みはいよいよ重くなった。それは、
 「お城のお上品ぶった女の人たちを喜ばせるだけが能ではない」
 という思いが募ったからだ。かれの頭の中には始終手習屋で会う貧しい仲間たちがいた。この連中もどんどん大きく育っている。かれらが手習屋に来ている目的ははっきりしている。それは、
 「読み書き算盤を身に付けて一日も早く奉公できる店を探す」
 ということだ。丁稚小僧になって、いくばくかの収入を得てそれを家に入れるのが当時の貧しい子供たちの責務だった。だからそういう思いで手習屋に通っていた。久重のような恵まれた環境で、箱だけ作っていればそれで一日が済むというような呑気な子供は一人もいない。久重は仲間たちに対して罪の意識を感じた。そうなると、いよいよ、
 「もっと世の中に役立つようなことをしたい」
 と思い立つ。しかしその世の中に役立つことも、単なるニーズに応えるだけではない。
「作った品物で、相手の人が喜んだり楽しんだりできるようなことをしたい」
 という思いだ。

■からくり人形は道教の蓬莱思想の影響をうけている

<本文から>
 われわれの日常生活においても、たとえば十二支とか、家を建てる時に方角を気にするとか、また慶弔に大安とか友引などを気にするのも明らかに、
 「日常生活における道教の影響」
が色濃く染み込んでいると言っていい。
 したがって、今の愛知県を中心に残る各地の″からくり人形″の表情を見ていると、そのことをありありと感ずる。あの言い様のない笑顔は、日本的なそれではない。また、着ている衣装も中国のものだ。九州の長崎や唐津などに残る祭礼の時に出る山車や、あるいは竜、さらにうねる大蛇などの姿はすべて中国から来たものだ。そしてそれも、
 「中国の素朴な民衆社会の行事」
が移行されている。
 これは、田中久重が作ったからくり人形にも言える。
 たしかに久重の作ったからくり人形には、そのからくり(仕組み)として、単にゼンマイ・木片・針金・糸などだけではなく、場合によっては動力の源として蒸気などが使われることがある。
 しかし、人形そのものの表情は他のものと変わりはない。それはおそらく、からくり人形を作る場合にはこういう表情のものを使う、ということが一種の不文律として人形作りたちの間に定着していたためだろう。くどくどと書いたのは、
・からくり人形には道教(陰陽道)の影響がある
・人形の表情は必ずしも日本的なものではない、むしろ中国的である
という共通性を一応メモしておきたいことと同時に、
・からくり人形のバックグラウンド(背景)には、″蓬莱思想″がある
ということが言いたかったからだ。蓬莱思想というのは言うまでもなく、
「古代中国におけるユートピア思想」
のことだ。有名なのは、秦の始皇帝が一族であり家臣でもあった徐福という人物に、
 「東海の島に蓬莱山という山がある。そこには不老不死の薬草が生えている。これを採取してくるように」
 と命じた。徐福は日本に渡った。徐福にとって、始皇帝の言う"東海の島"というのは日本のことだったのである。九州地方から和歌山地方を歩き回った。最後は常陸国(茨城県)まで来たらしい。これらの地域には、
 「徐福の墓」
 と呼ばれるものがある。しかし徐福が探したのは″不老不死の薬草″だったはずだから、かれの墓があるということはそのまま死んだということで、ついに不老不死の薬草が発見できなかったということだろうか。
 整備されているのは、佐賀県の金立町にある徐福関係の史跡だ。ここには蓬莱山と名づけられた岡があり、同時に薬草園がある。いろいろな草が栽培されている。ついでに書けば、この徐福の墓のそばに"葉隠"を口述した山本常朝の住んだ小さな庵跡がある。常朝もあるいは、
 「徐福にあやかろう」
 という気持ちを持っていたのだろうか。そうだとすれば、"葉隠"の底にも、
「蓬莱思想」
が据えられていたと言っていい。つまり、
 「佐賀藩をユートピアにするために、葉隠精神を持とう」
ということだ。これは言葉を換えれば、
 「佐賀藩の武士は庶民に対する護民官にならなければならない」
という発想で、葉隠はその心構えを説いたものだと言っていいだろう。

■久重は自分の理想とするものを形に現した

<本文から>
「人形よ、命を持て」
という悲願にそのまま通ずる。かれが『機巧図彙』を読んだ後にそうけう気持ちを持ったのか、それともはじめからからくり人形を作るときに、
「人形に生命を持たせたい」
という気持ちを持っていたのか、その辺はわからない。しかし久重のような技術者精神を追究すれば、当然、
「自分の製作するものを新しい生命体としたい」
という願いを持つはずだ。これは現在でも、ロボットを造る人々が、
「ロボットに生命を与えたい」
と考えるのと同じことだ。この、人形に生命を与えたいという考えは二つあって、ひとつは、
「自分の代行者にしたい」
というものだ。そしてもうひとつは、
「自分の理想的な存在を人形化したい」
 というものだ。製作の過程を見ていると田中久重にはどうも、前者よりも後者の意図が強かったような思いがする。つまり、
「自分の理想とするものを形に現したい」
ということである。したがってかれが後年造る機関車や蒸気船の模型にも、当然その思いが込められていたはずだ。あるいは、時計にもランプにもそれがあっただろう。それらのすべては、
「自分がこうありたい」
という願いをばらばらに分解して、一部の機能を持たせたと言っていい。したがってかれの、
「物をつくりたい理念」
は、つくり上げたすべての物をトータルに合体させなければ本当の姿はわからないのかもしれない。そしてまた、生前かれがつくり上げた物だけで、かれの理想とした全体像がはたして具現化されていたかどうかも疑問である。

■久重は実業に役立たないような技術は意味がないと考えた

<本文から>
久重にとっては、
「その本当の次元で生きる力を補うために、さらに自分の技術を磨く」
という方法もあったはずだ。多くの技術者や芸人はその道を選ぶ。つまり、
「自分の技術の分度あるいは限度」
を知っていた。久重はそうではない。
「実業に役立たないような技術は意味がない」
という強烈な思いを抱いていた。だから道頓堀で毎日雲切人形を操りながらも、見物人の喜悦の表情の底にある別なものを必死になって探し求めた。そしてかれなりに、その別なものとは、
「商人としてのそれぞれの悩み」
であることを見抜いたのである。
系統的な学問を学んでこなかった久重は、ほとんど″勘″に頼って生きてきた。だから久重に理論はない。あるのは、鋭い感性だけだ。しかしこの感性が正確で、かれの、
「相手はこういうことを必要としている」
というつかみ方はいつも当たった。
 それは故郷久留米の紡に特別な工夫をした井上伝の例でも同じだ。
 井上伝の場合には、伝自身が自分の作る緋の模様について悩んだ。頭の中に模様の光景はきちんと浮かんでいる。ところがそれを実現する段になると、糸の組み方や、さらに複雑な織機を必要とする障壁にぶち当たってしまった。
 「どうすればよいか」
ということが伝の最大の悩みだった。
 久重は、伝がぶち当たった厚い壁を、糸を線でなく面として組むことによって突破した。しかしその時に系統的な学理によってそういう結果を生み出したわけではない。ほとんどが勘によった。したがって久重は常に自分の勘を信ずることができた。

■久重は自分よし・相手よし・世間よしの三方よしの精神をもつ

<本文から>
「古い照明用具の改良点」
として思い立ったのが、
・照明用具を安定させること
・光度を高めること
である。
 もうひとつ行灯で、皿を囲っているのは紙だ。燃えやすい。倒れたりすると火災の原因になる。したがって安定性の他に安全性も必要になった。
 久重はこの点も加味して新しい照明用具を作った。それが有名な「無尽燈」である。この無尽燈は、久留米市内や佐賀市内における久重関係の資料館などで保存されている。
  無尽燈についてその概略を書けば次のようになる。
・使う素材は網とする
・高さは二尺(約六十センチ)ほど
・下部に油槽を設け、長い灯芯簡は油槽から上部の火口に達する
・灯芯は綿の組紐を使う
・燃料の油は種油とする
・灯芯の調整装置はランプと同じように火口に設置する
・油を常に循環させるため、圧搾空気を利用する。上部の芯簡を上下させることで空気は筒中央の接続部から吸い込まれ、通気簡を経て油槽の種油を上へ押し上げる
 種油は石油と違って粘性が高いので、圧搾空気で油の安定供給を行うというのが、久重の独創であった。
 近江商人の経営理念に、
「三方よし」
というのがある。自分よし・相手よし・世間よしというものだ。自分というのは自分の店のことをいう。相手というのは客だ。そして世間というのは社会のことだ。基本的には、
「まず客に利益をもたらそう」
という発想だ。利益を得る客が増えていけば、それだけ世間(社会)も豊かになる。しかし店は慈善事業を行うわけではない。自分も利益を得なければならない。久重はその辺をきちんと心得ていた。そして、この"自分よし"というのを、単にある段階で完成したと思い込むのではなく
「さらにハードルを上げて、次の段階に進む」
ということを心掛けた。具体的には技術の向上だ。

■最も優れている消火器の発明で地域貢献

<本文から>
「水立升ること数丈呼吸なくして水勢強く火消第一の器なり」
文中にある″呼吸なくして″というのが、
「水が息切れすることなく、放水し続ける」
ということだ。つまりこの消火器の生命は、
「断続することなく継続して放水が可能だ」
ということだ。また放水距離もかなり遠くまで及んだ。少なくとも五間(約九メートル)以上は放水できたという。この雲竜水と名づけた消火器は明治年間に蒸気ポンプ式の消火器が輸入されるまで広く使われたという。そして、
「日本人の発明した消火器では最も優れている」
という評価を得ていた。新しい消火器の近江屋卯兵衛への寄贈は、いわば久重の、
「個人に対する報恩的行為」
だ。久重はこれで満足しなかった。かれの心には次第に今までになかった柔らかく温かいものが生まれていた。それは、
「自分はけっしてひとりで生きているのではない」
という自覚である。ひとりで生きているのではないということは、
「ひとりで何もかもできるわけではない」
ということだ。発明については確かにかれは天才だ。しかしその天才としての才能が遺憾なく発揮できるのは、やはり周囲から自分を囲む条件の熟成による。特にかれが強く感ずるのは、
「人との出会いと、出会った人の好意」
の有難さだ。これが大坂で災難に遭った後に新しく、久重の胸に育った思念だった。かれは、(おれの発明が完成するのも、すべて人と場所と条件の三つが揃って可能になっているのだ)と思った。だからまず人として恩のある近江屋卯兵衛には、新しい消火器を発明してこれを寄贈した。今度は、
「地域に対しても何かお返しをしたい」
という気になってきた。これもまた何度も書く近江商人の、
「三方よし」
的な発想だ。つまり自分よし・相手よし・世間よしというふうに、″よし″といわれる範囲が次第に広がっていく。つまり個人から相手、相手が増えることによって地域全体に広がるということだ。

■久重は時計修理の道具をもって昇殿する

<本文から>
 土御門家の門に入ったのが弘化四(一八四七)年のことでかれは四十九歳になっていた。仕事が済んでから通って来るのだから夜は遅い。しかし土御門家の方は久重の熱意に打たれで指導に怠りなかった。
 この師弟の熱意が実って、久重はわずか二カ月余りで天文学を身に付けてしまった。このため土御門家の斡旋があったのだろう、かれはやがて嘉永二(一八四九)年の一月二日に、嵯峨御所と呼ばれる大覚寺宮から、
 「近江大橡」
 の呼称を与えられた。大変な名誉である。前にも書いたように、日本人のあらゆる職業の許可やあるいは栄誉については、皇族や公家がそのパテントを持っていたから、これもその一つだったろう。
 しかし久重が近江大捧の栄誉を与えられたのは必ずしもからくり儀右衛門によってではない。天文学者としてである。以後久重は公式に自分の名を名乗る時は、「田中近江大橡源久重」と名乗った。通称は田中久重だが、近江あるいは田中近江とも呼ばれた。
 近江大橡の栄称を与えられると、年頭並びに八朔(八月一日)には参殿を許される。しかし、もともと庶民的な性格をたっぷり持っている久重は、これが苦手だった。が、かれにも名誉心はある。いたずらに斜めになって、
 「参殿などするものか」
などと突っ張りはしなかった。必ず礼装に身を固めて御所に出掛けて行った。
 しかし着つけない衣装を着たので、どうも様にならない。家人や弟子たちは大笑いした。
 ところがかれは笑われると腰に差していた刀を抜いて鍔を外し、鞘を割って見せた。中には、時計修理に必要な鑢などの小道具がきちんと収められていた。みんな呆気にとられた。久重は笑って言った。
「御所に伺っても、もし時計の修理を頼みたいというお話があれば、すぐ応じられるようにこういう準備をしているのだ」
 みんなは思わずあっと声をあげた。
「ご主人はそこまで考えていたのだ。単に昇殿するだけではなく、そのときにお公家様から時計の修理を頼まれたときには、すぐ応じられるような準備をなさっておられる。慎重な方だ」
 と改めて舌を巻いた。だから久重にすれば、近江大橡の栄誉を貰っても、だからといって天文学の方で名を成そうとしていたわけではない。あくまでも、
「時計の製造修理に役立つ学問」
 として修めたのである。

■久重は軍需用の軍艦や銃砲などの他に庶民生活を便利にする生活機器を無数に発明した

<本文から>
 藩閥と言われる討幕諸藩によって擁立された明治天皇は、明治元(一八六八)年の三月二十二日(正確にはこのときはまだ慶応四年)大阪湾における諸艦船の観艦を行った。前に書いたようにこれが日本最初の観艦式である。
参加したのは次の六隻だった。
 千歳丸 久留米藩
 電流丸 佐賀藩
 華陽丸 山口藩
 丙寅丸 山口藩
 万里丸 熊本藩
 三邦丸 薩摩藩
 そして旗艦に選ばれたのが電流丸である。
 いうまでもなく、電流丸も千歳丸も田中久重が深く関わりを持った軍艦だった。仕掛けたのは薩摩藩の中原猶介や佐賀藩の浜野源六たちである。かれらは大いに面目を施した。特に中原猶介は、
 (これも久留米の製造所や佐賀の精煉方を見学させてくれた田中久重のおかげだ)
と思った。そして電流丸や千歳丸の船底では、轟々と勢いのよい唸り声をあげる蒸気機関があった。この蒸気機関も久重の考案したものである。
 しかしよく言われるように、
 「舞台上の栄誉は、奈落(底)の努力によって支えられている」
という言葉通り、さすがに明治天皇も船底まで降りて来てこの蒸気機関を見学することはなかった。しかしこれを伝え聞いた久重は満足だった。
 九月二十二日に東北の抗戦の核になっていた会津若松城が落ち、さらに翌明治二(一八六九)年五月十八日に、五稜郭に籠っていた幕軍も降伏した。直後の六月十七日に有馬慶頼は久留米藩知事に任ぜられた。そして明治四(一八七一)年一月十八日に、久重を最も信じ重用してくれた鍋島斉正(直正と改名)が東京永田町の屋敷で亡くなった。まだ五十八歳だった。この年七月十四日には廃藩置県が行われた。そしてついに久留米の藩営工場も廃止された。
 しかし、久重は引き続きこの工場と残された機械を使って工場経営に勤しんだようである。年 表によれば、これまでに久重が発明したり改良したりした機器類には次のようなものがあるという。
 無鍵の錠・自在捻切機械・旋盤の楕円削機械・久留米縞織機上枠・煙草刻機械・蝋締機械(中略)
 つまり、軍需用の軍艦や銃砲などの他に、庶民生活を便利にする生活機器を無数に発明していたということだ。この辺の目配りは久重らしい。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ