童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
      将の器参謀の器 あなたはどちらの"才覚"を持っているか

■家康の遊興政策

<本文から>
 「後白河法皇はこの梁塵秘抄をお編みになるために、京都の町から白拍子や遊女まで京都御所の中にお呼びになった。そしていま町で流行っている歌はどういうものか、とお聞きになってこの本をつくられたのだ。わたしも同じだ。歓楽街には人間の喜怒哀楽がすべて凝縮している。人間の臭いがプンプンする。彦坂よ、たまには阿部川町の遊女たちをこの城に呼んで、いろいろな意見を聞かせてもらえまいか」
「何ということを仰せられますか」
彦坂はピックリした。しかし家康は、
「本気だよ」
といった。
 その後、彦坂は家康にいわれたとおり、阿部川町の遊女たちに、
「殿様に踊りをみせてあげてくれ」
という名目で、岡崎城内に連れてきた。城内の武士はみんなピックリした。遊女の中には、
「まあ、何とかさん」
と顔馴染みに声を投げる者もいた。声をかけられた者は慌てて逃げた。そんな光景を家康はニコニコしながら見守っていた。しかしかれはこの方法で、遊女たちから、岡崎城下で暮らす人々の本当の姿を知ろうとしたのである。それが政治に役立つと思っていたからだ。だからかれは決して、歓楽街を罪深いものとか、あるいは汚れたものとは考えなかった。
 こういう家康の心を知って、城内の武士たちもゆき過ぎた夜遊びを慎むようになった。むしろ逆に、こういう町に出掛けていって、
「自分たちが城の役人として何をしなければいけないのか」
 を知ることのきっかけに役立てたのである。
家康の遊興政策は死ぬまでこの方針を貫いた。

■武田信玄の人の話の聞き方の4通りの反応で相手を分析

<本文から>
「合戦の話をする時に、例えば四人の若者が聞いていたとする。聞き方がそれぞれ違う。一人は、口をあけたまま話し手であるわたしをジツとみつめている。二番目は、わたしと眼を合わせることなく、ややうつむいて耳だけを立てている。三番目は、話し手であるわたしの顔をみなら、時々うなずいたりニッコリ笑ったりする。四番目は、話の途中で席を立ちどこかにいってしまう」
 信玄はこれらの聞き方によって次のように分析する。
.口をポカンとあけてわたしの顔をみている者は、話の内容がまったく分かっていない。注意散漫で、こういう人間は一人立ちできない。
.うつむいてジツと耳を立てている者は、視線を合わせることなく話だけに集中しようと努力している証拠だ。いま武田家でわたしの補佐役として活躍している連中のほとんどが、若い時にこういう話の聞き方をしたものだ。
・話し手の顔をみて、時々うなずいたりニコニコ笑ったりするのは、「あなたの話はよく分かります」あるいは「おっしゃるとおりです」という相模を打っているのだ。しかし、これは話の内容を受け止めるよりも、その社交性を誇示する方にカが注がれている。従って、話の本質を完全にとらえることができない。
・話の途中で席を立ってしまうのは、臆病者か、あるいは自分に思い当たるところがあってそこをグサリとさされたので、いたたまれなくなった証拠だ。
フロイト顔負けの鋭い人間洞察力である。信玄はしかし、
「だからといって、臆病者や注意力が散漫な者をそのまま見捨ててはいけない。それぞれ欠点があっても逆に長所もある。長所を活かして別な面に振り向ければ、はずだ。こいつはだめだというような決めつけ万が一番いけない」
 といっている。この、
「どんな人間にも必ずひとつは長所がある」
 という態度が、部下がかれに対して、
「この大将のためなら、川中島で戦死してもいい」
と思う忠誠心を生んだのに違いない。
話の聞き方に四通りの反応を示す若者たちの使い方について、信玄は次のようにいう。
・人の話をうわの空で聞いている者は、そのまま放っておけばいい部下も持てないし、また意見をする者も出ない。一所懸命忠義を尽くしてもそれに応えてくれないし、また意見をしても身にしみてきかないからだ。従ってこういう人間に対しては、面を犯して直言するような者を脇につけることが必要だ。そうすれば、本人も自分の欠点に気づき、自ら改め、一角の武士に育つはずだ。
・二番日のうつむいて人の話を身にしみて聞く者は、そのまま放っておいても立派な武士に育つ。こういう人間の存在を、一番日の人の話を身にしみて聞かない者に教えてやることも大事だろう。
・三番日の、あなたの話はよく分かります、おっしゃるとおりですという反応を示す者は、将来外交の仕事に向いている。調略の任務を与えれば、必ず成功するに違いない。ただ、小利口なので仕事に成功するとすぐいい気になる欠点がある。そうなると、権威高くなって人に憎まれる可能性があるのでこのへんは注意しなければならない。
・四番日の席を立つ者は、臆病か、あるいは心にやましいところがあるものだから、育てる者はその人間が素直にその欠点を自ら告白して、気が楽になるようにしてやらなければならない。そうすることによって、その人間も自分が気にしていることを払拭し、改めて奮い立つに違いない。こういう者に対しては、責めるよりもむしろ温かく包んでやることが必要だ。

■百点満点の人簡を採用するな

<本文から>
 こういうように、
「どんな人間にも必ず見所がある」
とする信玄は、新しい人間を召し抱える時にも、
「百点満点の完全な人間を採用するな。人間は少し欠点があった方がいい」
と命じた。また、
 「武士で、百人中九十九人に褒められるような人間はろくなやつではない。それは軽薄な者か、小利口な者か、あるいは腹黒い者である」
 といい切っている。

■秀吉はモラールをあげる名人、ニコポンと褒美のばらまき

<本文から>
「籐吉郎は現場にいった。そして自分の眼で塀の壊れた箇所を調べた。やがて工事に従事する労働者たちを呼んだ。約百人いた。藤吉郎はこんなことをいった。
「新しく塀の修理を命ぜられた奉行の木下だ。しかしオレは全くの素人で、こういう仕事のことは分からない。全部おまえたちに任せたい。ただ、同じ任せるにしても手順だけを決めておこう。いま塀の壊れた所をみてきたが、壊れ方は大体どこも同じで、ある箇所が酷く、ある箇所が軽微だったということはない。そこでこの破損箇所を十カ所に分ける。それを修理するために、おまえたちを十組に分ける。一組ずつ一カ所を担当して修理してもらいたい。だれがどの組にいくかは、オレには分からない。おまえたちにはやはり気が合ったり合わなかったり、好きだとか嫌いだとかということもあるだろう。そこでだれがどの組にいくかは、おまえたちで相談しろ。
 いまこの塀を早く直さないと、敵が攻め込んでくる。オレたちは男だから、武器を取って戦うが、女子供はそうはいかない。城の中で一緒に暮らしている女子供は、もしオレたちが負けてしまえば、敵の奴隷になったり殺されたりしてしまう。とくに女は、全部敵の慰みものになる。おまえたちは自分の女房がそんな目に遭っても平気か?子供が奴隷になっても平気か? そういうことを考えると、この塀の修理は、一日もないがしろにはできない。いいな? もう一度繰り返す。自分たちで気の合う仲間で一組をつくり、その組が一カ所ずつ修理箇所を選んで工事に励め。おまえたちは、この塀の修理をする目的を、あるいは信長様だけのためだと思っていたのかも知れないが、決してそうではないぞ。おまえたちの家族にも関わりがあるのだ。このへんをよく頭の中にしみ込ませろ。いいな?」
 話し終わった藤吉郎は、
「オレがこれ以上口を出すと、おまえたちの仕事がやり難かろう。だれがどの組に入るか、どこの破損箇所を担当するか決まったら、報告にこい」
 そういうとサッサとその場から去った。残された百人余りの労働者たちは、互いに顔をみあわせた。こんなやり方ははじめてだったからである。中にはプツプツ文句をいう者もいた。
「新しいお奉行は無責任だ。オレたちにみんな仕事を押しっけて、自分はどこか行ってしまった」
 が、みんなの頭の中には共通した新しい思いががあった。それは、
 「塀の修理は、城の主である信長様だけのためではない。この城に一緒に住んでいる家族にも関係があるのだ」
 ということだった。いわれてみればそのとおりだ。労働者たちの家族もこの城に一緒に住んでいる。敵に攻められれば、敵の方はそれが武士なのか労働者なのか見分けはつかない。労働者たちもその時は武器を持って戦う。そうなれば、敵にすればやはり殺す対象になる。藤吉郎にいわれて、労働者たちもはじめてそのことに気がついた。ガヤガヤと話をしている時に、藤吉郎の使いだといって、酒樽が持ち込まれた。酒樽を持ってきた者は、
「これで賑やかに話し合ってくれと、木下様の差し入れです」
 みんな一斉にワーと声を上げた。このへんは藤吉郎の巧妙な人使いである。藤吉郎は全体に、その生涯を通して、
「かれはニコボンと褒美のばら撒きの名人だった。ニコボンとばら撒きで人の心を釣った」
 といわれる。信長のように生まれつき城の主の息子に生まれたわけではなく、身分の至って低い家に生まれた藤吉郎がのし上がっていくためには、人の心を掴む上でどうしても避けて通れないやり方だったのだ。
 労働者たちは相談した。労働者の中にもリーダー格がいる。そのリーダーを中心に、
・だれとだれが一組になるか。
・どこの修理箇所を受け持つか。
 ということを話し合った。しかしこんなことはいくら話し合っても埒はあかない。人間の好き嫌いは理屈ではどうにもならないからだ。結局、
「クジ引きにしよう」
 ということになった。クジが引かれて、約十人ずつが一組になった。中には気の合わない同士が一緒になった組もある。が、クジ引きは公平だ。文句はいえない。
「おまえは気にくわないけど、まあ一緒にやるか」
 ということになった。これが藤吉郎の狙ったチームワークの誕生である。そして、工事箇所もクジ引きにした。それを藤吉郎の所に報告にいくと、藤吉郎は、
「分かった。よくやってくれた。うれしいぞ。番最初に自分の受け持った工事箇所を修理した組には、オレが信長様から褒美を貰ってやる」
 といった。藤吉郎にすればここが勝負どころだった。というのは、前の奉行は労働者たちに賃金値上げを要求され、うまくいかなくて失敗した。藤吉郎はそんなことは口の端にも出していない。かれも内々は、
(もし働き手たちが、賃金値上げを要求したら困るな)
 と思っていた。それをかれは、
「塀の修理は、おまえたちの家族にも関わりがある」
ということで押し切ってしまったのである。しかしそれだけでは労働者たちのモラールは上がらない。そこでかれは、
「一番最初に工事を終えた組には、信長様が褒美を出す」
というエサをちらつかせたのである。

■徳川吉宗は現組織を生かした改革

<本文から>
徳川吉宗は現在でいうリストラクチヤリングあるいはリエンジニアリングをおこなった将軍だが、なんといってもそういう改革を推し進めるのは組織と人間である。吉宗にすれば、江戸城の役人たちだ。従って、改革当初の人事には相当な意欲がこめられる。普通の改革者だったら、
「いま役についている人間は全員無能だ。だからこそこんな財政難が起こったのだ。根こそぎ取り換えてしまおう」
 と考える。ところが徳川吉宗の人事に対する基本方針は違った。かれはつぎのような考え方を取った。
・大幅な入れ替えはおこなわない。
・守ってきた永年雇用制や年功序列制は重んずる。
・定員減はおこなわない。現員を守る。
・政策形成に黒幕のような存在は置かない。
・しかし、いまいる役人たちがそのままの仕事の仕方をしていいというようなことにはならない。まだ自分でも開発していない能力を引き出させる。
 ということであった。はっきりいえば、
「現在江戸城に勤務している武士たちを活用し、よそから大幅に新しい血を注入しない」
 ということである。この方針が立てられたために、かれは紀州和歌山から乗り込んできたのにも拘わらず、和歌山から従ってきた武士たちを江戸城の重い役にはつけなかったのである。
 吉宗は改革者のタイブとしては、
「独裁型のトップ」
 である。独裁型のトップがよくとるのは、
「少数の側近だけを重用する」
 という方法だ。いわゆる”腹心″だけを相手にし、何でもこの少数者と相談をして事を進めるというやり方だ。周りの者のほとんどを相手にしない。とくに古くからいる者を相手にしない。
しかし吉宗はそんなことはしなかった。かれはあくまでも、
・現在の徳川幕府の組繊を重んずる。
・その組織に身を置いている人間は活用する。
・ただし自分から辞めるという者は止めない。
・もし辞めた場合にはその補填に自分の選んだ人物を登用する。
 ということであった。江戸町奉行に大岡越前守忠相を登用したのはその例だ。前任の江戸町奉行が乗り込んできた吉宗の勢いを恐れて、
「到底わたくしには務まると思いませんので、辞任させていただきます」
 と辞表を出したのだ。吉宗は、
「そうか。長い間ご苦労だった」
 といって辞表を受け取った。その江戸町奉行にすれば、あるいは、
(自分から辞表を出せば、あるいは上様(吉宗のこと)は慰留してくれるかもしれない)
 というすけべ根性があったのかもしれない。しかし吉宗はそんな手には乗らなかった。
(辞めたい者はどんどん辞めてもらう)
自然淘汰を止めなかった。

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