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<本文から>
「後白河法皇はこの梁塵秘抄をお編みになるために、京都の町から白拍子や遊女まで京都御所の中にお呼びになった。そしていま町で流行っている歌はどういうものか、とお聞きになってこの本をつくられたのだ。わたしも同じだ。歓楽街には人間の喜怒哀楽がすべて凝縮している。人間の臭いがプンプンする。彦坂よ、たまには阿部川町の遊女たちをこの城に呼んで、いろいろな意見を聞かせてもらえまいか」
「何ということを仰せられますか」
彦坂はピックリした。しかし家康は、
「本気だよ」
といった。
その後、彦坂は家康にいわれたとおり、阿部川町の遊女たちに、
「殿様に踊りをみせてあげてくれ」
という名目で、岡崎城内に連れてきた。城内の武士はみんなピックリした。遊女の中には、
「まあ、何とかさん」
と顔馴染みに声を投げる者もいた。声をかけられた者は慌てて逃げた。そんな光景を家康はニコニコしながら見守っていた。しかしかれはこの方法で、遊女たちから、岡崎城下で暮らす人々の本当の姿を知ろうとしたのである。それが政治に役立つと思っていたからだ。だからかれは決して、歓楽街を罪深いものとか、あるいは汚れたものとは考えなかった。
こういう家康の心を知って、城内の武士たちもゆき過ぎた夜遊びを慎むようになった。むしろ逆に、こういう町に出掛けていって、
「自分たちが城の役人として何をしなければいけないのか」
を知ることのきっかけに役立てたのである。
家康の遊興政策は死ぬまでこの方針を貫いた。 |
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