童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          松陰語録 いま吉田松陰から学ぶこと

■長州藩を変革し日本を変革するような人材を生みたい

<本文から>
  松陰は、
 「松下村塾という私塾は、そういう目的を持っている」
 と天下に表明するのである。これは、単に、
 「学問を教えて、立身出世する人間を育てよう」
などという姑息な考えを披歴したわけではない。
 「長州藩を変革し、日本を変革するような人材を生みたい」
 という決意と責任と自信の表明である。″塾通い・いい成績・いい学校への入学・いい会社への就職・いい給与といいポスト″の獲得などを目的とし、自分さえよければいいなどといういまのような教育とは全く違う。長州藩の片隅に置かれ、貧しい下級武士しか住めないような一角から、
「日本を変えるような人材を生みたい」
と、松陰は叫ぶのである。
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■孔子や孟子を丸ごと認めるな

<本文から>
 しかしわたしは、天下をよくしようと考えて自分の団を去るのは、団を治めるのだといって自分の身を修めないのと同じことだと考える。
 『修身(身を修め)・治国(団を治め)・平天下天下を平らかにする)』
というのは、『大学』の冒頭に出てくる実践の順序である。これは決して乱してはならない。近頃世間では、
 『工業立たざれば国家に益なし』
という人がいる。大きな間違いだ。
 『道を明らかにして功を計らず、義を正して利を計らず』
というのが正しい。君に仕えて意見が合わないときは、諌死するもよし、囚われの身となるもよし、あるいは職を断って餓死するのもまたよいことなのだ」
 初っ端から、聖賢といわれた孔子や孟子を間違っているなどという儒教の信奉者はおそらくいないだろう。
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■細かい字句などより真意を探り取れ

<本文から>
 吉田松陰はこの前文を読んでおそらく、
「わが意を得たり」
と目を輝かせ膝を叩いたに違いない。まさしくこれが、松陰の求める、
「学問のあり方・学び方」.
 だったからである。彼が松下村塾で多くの門人たちに教えたのもこの方針だ。つまり
「細かい字句などどうでもいい。真意を探り取れ」
ということだ。そしてその真意も、
「人によって違う」
というものだ。つまり聖賢の言葉も、
 「円のようなむので、それぞれの立場から光を当ててよい。そしてそれを正しいと信ずるのなら、それがすなわち学問における真実でみる」
 と励ました。それは教える松陰自身が、強くそう思い込んでいた。したがって、彼の、
 『講孟余話』
は、そういう読み方をすれば、必ずしも、
 「原本を書いた孟子の真意に外れるものではない」
ということが分かる。つまり吉田松陰は松陰なりに、
 「細かい字句を飛ばして、自分の角度から孟子の神髄に迫っていった」
といえるからである。特に、
 「孟子は例えを活用して説くことが得意だった」
という一文は、松陰の心を躍り上がらせたに違いない。松陰には有名な、
 「飛耳長目録」
というのがある。これはいわば、
 「時勢メモ」
ともいうべきもので、公私を問わず聞き込んだこと、目で見たことを全部メモし、帳面にして松下村塾の教導室の机の上に置いておいた。門人たちはこれを見て、
 「いま、この国でもつとも重要な課題は何か」
ということを知る。そして互いに討論し、わからないときは松陰に訊く。
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■過激策止めることに対し"功業をなすつもりなのだ"と非難

<本文から>
 したがってこの頃の彼の門人たちが、松陰の過激策をしきりに止めることに対し、松陰は、
 「僕は忠義をなすつもり、君たち(諸友)は功業をなすつもりなのだ」
 と激しく非難したのである。現実問題として、この二つの岐路に立った人間が、どっちを選ぶかということは非常に難しい。江戸にいた門人たちにすれば、目まぐるしく変わる政治状況に対し、
 「長州藩が生き抜くためにはどうすればいいか」
ということを血眼になって模索していた。彼らにすれば、その行動がすべて、
 「自分たちなりの藩主と藩への忠誠心の披涯」
  だったのである。だからおそらく門人の中には、
 「吉田先生はああおっしゃるが、現実を御覧になっておられない。政局から速い長州の一隅におられるから、現場で実際に荒波に襲われ溺れそうになっているわれわれの苦労がわからない」
と逆に恨む者もいたに違いない。
 しかし松陰は厳しい。
「どんなに激しい荒波に襲われようと、それを乗り越えるのが真の忠義なのだ」.
と、あくまでも譲らなかった。
 野山獄内にいて、
 「二度と日の光を拝めないかもしれないわれわれが、孟子など勉強して何の役に立つのだ」
という疑問を持った連中には、
 「絶望時の読書こそ真の読書だ」
と松陰は繰り返し教えている。
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■萩に有能な人材を集めて日本における仁政実現の模範を

<本文から>
 松陰は、
 「萩に天下の有能な人材を集めて、日本における仁政実現の模範となろう」
と告げた。そのために、中国古代で考えられた、
 「仁政実現のための五つの条件」
を掲げた。簡単にいえば、天下の有能な士・農民・技術者王)・商人などが、先を争って、
 「萩へ行きたい、行こう」
 という気持ちを起こさせることである。そのことがいってみれば、萩という城下町が
 「日本国の中で、だれもが行きたいと願う条件を備えている。またその条件をさらに増幅するために、自分たちの参加の場がある」
 と考えることだ。前に触れた、
 「地方分権の推進は、首都機能の移転などという消極策よりも、むしろ首都機能が進んでその地域に行きたいと思うような魅力を自ら生産することだ」
 と書いた。このことと一致する。ただ棚から落ちるぼたもちを待っているだけではなく、
 「自己努力によって、多くの機能を招き寄せるようなパワーを自ら生もう」
 ということだ。吉田松陰の考えも全く同じである。松陰はしかしその中でも、
 「まず、士(政治を担当する能力者)が、競いあって萩にやって来ることが先決だ」
 といっている。しかしこのことは、藩政のトップに立つ首脳部が、まずそういう考えを持たなければならない。この頃の松陰が見る藩政の首脳部は、まさに絶望的だった。
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■心が死んでしまえば生きていても仕方がない

<本文から>
 「先生、男子が死ぬべきときと所をどのように考えたらいいでしょうか」
 これに対し松陰が答えたのが、次のような言葉だ。
 「去年の冬以来、僕も死について大いに考えました。中国の思想家李卓吾の本を読んで思い至ったことがあります。それは、死は決して好むべきものではないし、また憎むべきものでもありません。なぜなら、肉体は生きていても心の死んでいる者もいます。逆に肉体は滅んでも魂が生きている人もいます。しかし心が死んでしまったのでは生きていても仕方がありません。反対に魂が残れば肉体が滅びても決して死んだとはいえないでしょう。ですから、いま死んでも自分の名は永久に残るという自信があれば、いつでも死ぬことです。しかし生きていれば、必ず大事業ができるという自信があるのなら、絶対に生きるべきです」
 切羽詰まっていた高杉晋作が、この松陰の言葉を正確に理解したかどうかはわからない。というよりも、
 「そうだ、そのように生きていけばいいのだ」
 という、厚い雲を引き裂くような陽光を発見できたかどうかはわからない。当時の晋作は、苦悩で頭を一杯にしていたからだ。だから彼はこう訊いている。
「いまのわたしは、どのように身を処したらいいでしょうか」
これに対し松陰は、
「そのことは、萩を出る前に君宛の手紙を書いた。しかし、僕も江戸に召喚されたので、手紙は入江杉蔵に預けました」
 と応じた。が、松陰自身も、
「自分は死刑に興されるかもしれない。そうなると、杉蔵に預けた手紙もどうなるかわからない」
 と考え、
「手紙に書いた内容はこういうことです」
 とその概略を晋作に話した。
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■松下村塾生は吉田松陰を最後まで師として尊崇心が起爆剤となった

<本文から>
当初松陰の刑は、
 「遠島」
だったらしいが、井伊は腹心の長野主謄の密告によって、
 「吉田松陰は、梅田雲浜と密謀をこらして幕政に盾突こうとしたけしからぬ学者です」
といわれ、遠島を、
 「死刑・斬首」
の刑にしてしまったのである。普通、断罪の場合には、
 「死一等を減じ」
というのはあるが、井伊のように、
 「死一等を加え」
 という例は、ほとんど日本の刑法史に例がないのではなかろうか。しかしそれほど吉田松陰は憎まれていた。松陰ももちろんそのことは知っていた。だからこそ彼の叫びが、いよいよ悲痛になり、魂がぎりぎりのところまで押し込められて、そこから真の呻き声を上げたのだ。その声が、その後人々の胸を強く打った。
 松陰はやがて尊攘派の巻き返しによって、この死刑の汚名を拭い去られる。小塚原の刑場に行った高杉晋作たちが、松陰の遺体を掘り起こして、東京都世田谷区にあった、毛利家の飛び地に改葬した。これが現在の、松陰神社である。したがって松陰神社は、山口県萩と東京都世田谷区の二か所にある。
 もう一つ松陰について感動することがある。それは、古代中国の大思想家であった孔子には何千人という弟子がいた。しかし、孔子の死後学説が種々分かれ、門人たちもそれぞれ派閥をつくつた。また、日本で俳聖といわれた元禄時代の松尾芭蕉にも、千人を超える弟子がいた。が、芭蕉が死んでしまうと、各派が、それぞれ句風を主張して、やはり閥をつくった。あるいは、キリストの場合も同じかもしれない。最後の晩餐をともにした十二人の司徒のなかでも、ユダのように裏切る者さえも出た。そうなると、すぐれた人物の門人たちが最後まで、それまで尊崇してきた師に対して変わらぬ敬愛の心を持ち続けるというのは至難のわざである。ところが松陰の場合は違う松下村塾に学んだ人物たちのほとんどが、吉田松陰を最後まで師として尊崇した。この松陰への尊崇心が、起爆剤となり、互いに連動して、明治維新を実現させたのである。これは何度も繰り返すが、松陰自身が、
 「自分は師ではない。君たちと共に学ぶ学友だ」
と、
「教える者の立場」
を放擲し、
「共に学ぶ学徒」
の位置を保ち続けたところに大きな原因があるだろう。晩年の松陰にはだから、常に高いところから弟子たちに教えの水を流すというだけでなく、逆に弟子たちの水の逆流によって、自分が救われたいと考えたことさえあったはずだ。そういうときの松陰の弟子に対する教えは、場合によっては、
「求愛」
の哀しい響きさえ持っている。そこが松陰の松陰たる所以なのである。
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■草奔崛起、際立つ存在になるからどうか後からついて来てほしい

<本文から>
 したがって、松陰が死の直前に盛んに唱えた「草奔崛起」という考えは、あるいは、
 「官途についている人間たちはだめだ。それよりも、在野の遺賢に期待しよう」
 ということかもしれない。彼の文章の中に、
 「いまこそナポレオンを起こしてフレーヘード(自由)を唱えることが大切だ」
 という意味の一文がある。これはいってみれば、
 「野にいる遺賢に期待しよう」
 ということだろう。その意味では、この野にいる遺賢というのはあくまでもエリートであり、インテリである。一般民衆ではない。そうなると草奔崛起の崛起は、
 「山のように際立つ存在」
 の方が意味が通ずる気がする。そして松陰自身が、
 「僕が草奔となって崛起する」
 ということは、
 「完全な在野人のように自由な立場から、際立つ存在になるからどうか後からついて来てほしい」
 ということではなかっただろうか。この言葉をしきりに使いだした当時、松陰は門下生や知己に対し、
 「君たちは功名をなすつもり、僕は忠義をなすつもり」
 と悲痛な叫び声を上げて、ほとんどの知人に絶交状を叩きつけた。いってみれば、松陰自身が、
 「自ら孤独な立場」
 を求めたといえる。したがってこの頃の松陰が、
 「僕白身が草奔崛起を行なう」
 と宣言したのは、
 「もはや、長州人は当てにならない。全国的な規模で、僕に共鳴する人間を求める」
 ということではなかっただろうか。
 しかし、松陰のこの、
 「草奔崛起」
 を自分なりに解釈して、長州藩を統一するために奇兵隊を組織したのは門人の高杉晋作である。
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