童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          鈴木正三 武将から禅僧へ

■正三、天草に渡る

<本文から>
 このときにフツと重成が思ったのが兄正三のことだった。それは、
「島の復興はたしかに環境の整備と産業の振興が大切だ。が、同時に住む人びとの精神の復興も大事だ」
 と感じたからである。重成は、
「島民の精神復興を兄に分担してもらおう」
 と思い立った。旅先で弟からの手紙を受け取った正三はすぐ天草にやってきた。
 兄のいう、
「水は方円の器に従う」
 というのは『論語』にある言葉だ。水は自分なりの形状を持った物体ではない。容器に合わせて姿を変える。したがって正三がいうのは、
「痛んだ農民の精神がよみがえるためには、やはり環境整備が先だ。そのへんをおまえはどう考えているのだ」
 ということである。重成は代官赴任以来すでに打った手や、これから打とうとしている手を率直に話した。次のような構想である。
 ・島内の巡回を絶やさずに今後もつづける。
 ・きびしい宗門改めをおこなう。
 ・常に民情を視察し、島民の生活向上をはかる。
 ・遠見番所を設け、ここに勤める役人を現地採用する。
 ・島内を十組八十六ケ村に分ける。
 ・組に大庄屋をおき、村には庄屋・年寄・百姓代をおく。
 ・この組織によって、代官所の発する触れの徹底をはかる。
 などであった。
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■正三は天草島を新天地創造の実験地にしようとした

<本文から>
 シャレた言葉を使えば、正三は天草島を、
 「新天地創造の実験地にしよう」
 と考えていた。いま幕府が着々と実現しつつある「人工的規制社会」は正三の生きる場をしだいに狭めた。かつて高橋七十騎に属し、野武士的な集団の自由と行動を満喫した正三にとって、いま実現しつつある人工社会は耐えられるものではない。かれの持つ人間的自由と聞達な行動が次々とへし折られていく。
(このままだと、まもなくおれは自分の生きる場を失う)
 という危機感を毎日感じとっていた。天草島は荒れ切っている。しかし荒れた土地は新しく生まれ変わらせることができる。
 「新しい酒は新しい革袋に盛る」
という言葉がある。正三にとって荒れた天草の地は、
「新しい革袋に変えることができる」
と思えた。そうなると、
「萎え切っている島民の心も再興しなければならない」
といわば人間のリニューアルをも思い立った。そしてその島民のリニューアルの方法として、
「いままで学んだ宗教を活用しよう」
と思い立った。だから渡島と同時に弟の代官重成に、
「まず地域の島民が心のよりどころとする寺と社の創建あるいは復興に努力しよう」
 と告げた。正三も仏教徒だからキリシタンを容認するわけにはいかない。
「島からのキリシタン色の一掃」
は弟の重成とまったく同感だ。しかしそれを形で示すのには、やはり仏教のすぐれている点を具体的に寺という場によって示さなければならない。したがって寺院の復興は渡島した正三のまず最初の仕事であった。ふつうなら創建・復興した寺社に、すぐれた僧や神官を招けばこと足りる。しかし正三はそう考えてはいなかった。かれには独特な宗教観があった。かれは、
「世法即仏法」
と唱えていた。世法というのは世俗の論理である。仏法というのはホトケの道だ。しかしかれは同時代の出家(僧) をみていて、
「坊主よりも在家の人間のほうがかえって仏心を持っている」
と感じた。だから「世法即仏法」と唱えた。
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■天草島の一揆は無理な年貢の取り立てが原因

<本文から>
・代官の仕事は無理やり四万石に相当する年貢を取り立てることだった。これが長年つづいた。島民はついにがまんできなくなった。
・たまたま島原でキリシタン信者が一揆を起こした。これは長年の迫害に対する異議申し立てだ。これに呼応して天草の島民も一挟を起こした。しかしまず富岡城に押し寄せたのは、いままでの過大な見積りによる年貢をもっと安くしてほしいというのがほんとうの願いごとだった。もちろん富岡城の代官はきかない。
・一揆はいっせいに富岡城に襲いかかった。しかし富岡城の寺沢勢は結構強く、一揆は撃退された。
・そこでやむをえず天草の一揆たちは海を渡って島原半島の一揆に合流した。
 彦七の説明は整然としていた。重成もここへくる前からそういうきもちを持っていたから、現地の人間がはじめて明かす真実には胸を打たれた。重成自身も島原の乱後老中の松平伊豆守に命ぜられてこの島をつぶさに調査した結果、
(どうも天草のほうには島原とちがう事情があるようだ)
ということは薄々感じていた。それがいま彦七がいうように、
「年貢の過大な見積りのためだ」
といい切るのにはやはりためらいがあった。鈴木重成も幕臣だったからである。が、彦七は歯に衣を着せずにそのことをズバリと検証した。重成は試みにきいた。
「ではたずねる。おまえのこの島における年貢の基準になる収入はどの程度にみればよいと申すのか」
「二万石でございます」
 彦七はズバリと答えた。重成はおどろいた。
「二万石? 幕府の査定の二分の一ではないか」
「さようでございます。もともと二万石がこの島のありったけの収入でございます。それを倍の四万石で年貢を重ねた年月があまりにも長くつづきました。島に住む人間は疲れ果て、結局は根気も働く意欲もなくなってしまったのでございます」
「それが一揆の原因だというのか?」
「はい」
うーん、と重成はうなった。そして心の中に大きな空洞が空くのを感じた。ポッカリ空いた穴の中を虚しい風が吹き過ぎた。意外なことをきいたからである。あるいは薄々感じていたことを古くからこの島で生きてきた彦七の口からはっきりときいたからだ。彦七はこの島の収入は査定の二分の一の二万石しかないとズバリといった。おそらくそれがほんとうだろう。重成は彦七への反論を忘れた。黙って宙をみつめた。
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■キリシタンを論破するためのパンフレットを作成

<本文から>
『破吉利支丹』(キリシタンを破る、すなわち論破する)
と銘打ったパンフレットを鈴木正三は一気呵成に書きあげた。翌朝、弟の天草代官鈴木重成に頼んで、部下の役人たちにこれを数十部書写させた。
「これをどうなさいますか」
 そうきく弟に正三は、
「寺に配る」
と応じた。書写されたコピーを持つと、正三は天草島の寺々をまわりはじめた。そして、
「この小冊子を保存して、寺にくる住民たちに説いてはもらえぬか。キリシタンを根絶やしにしたい」
 そう告げた。積極的に眼を輝かせ、
「よい教本を頂戴いたしました」
 とよろこぶ住職もいたが、あまり熱心ではなく暖味な態度で、
「わかりました」
と無愛想に応ずる住職もいた。そんな憎に出会うと正三はがっかりし、同時に腹も立てた。しかし、
(人間が生命を懸けて信じた教えを否定するのは、生易しいことではない)
と思いもした。正三自身熱心に書きあげた『破吉利支丹』によって、どれだけキリシタンの教えを論破できるか自信はなかった。というのは、処刑されたかくれ老キリシタンの与兵衛をみていて、正三は正三なりにキリシタンの教えの真髄に触れたからである。
 部分的にはうなずけるものがあった。
▲UP

■正三は変わらぬ天草の風土を感じ島を去る

<本文から>
「重成は黙って兄の顔みかえした。すでに後任者を予定している以上、兄の決意は相当固い。止めてもムダだ。しかし未練は残る。重成はいった。
「兄上は、この天草の島をホトケの国になさるおつもりでしたな」
「そうだ」
 正三はうなずく。重成の言葉に触発されて突然眼が輝き出した。
「そもそも、この世における万物のもともとはホトケだ。ホトケの身体が粉々に砕け、四散して万物になった。天草とてもその例に漏れぬ。したがってこの天草の木一本、草一本、あるいは土にも川の水にも、すべてホトケが宿っている。当然人間もおなじだ。わしは万物がそれぞれ持っている仏性をしっかりとあらわして、互いに仏性を示し合えば、当然この島もホトケの国になると信じている。だから土を耕す農民にも、南無弥陀仏とホトケの名を唱えろといった。そうすることによって、農民の仏性が鍬を通じて土に伝わり、それを感じた土が自分の持っている仏性を農民に返す。そのやり取りで、みごとな農作物が実る。そういう島にしたかった。しかしこのごろ感じたことがある」
「なんでございますか」
「この島の気だ」
「気?」
 重成はきき返した。正三はうなずいた。
「天草の風土から沸き立つ独特の気だ。これが容易なものではない。したたかなものを持っている。わしはこの気に敗れたのだ」
「ほう」
重成にはまだ話がよくみえない。眼で答えをうながした。
「おそらくこの天草だけではなく、この国のあらゆる地域に気がある。その気は、その土地が生成して以来、住んだ人間とともに育んだものであって、一朝一夕に生まれたものではない。たしかに、この天草の島民は入れ替わった。が、入れ替わった人間を迎える島の風土は決して一様ではない。わしやおまえがいまやっていることは、表面を撫でているに過ぎぬ。底の底まで、わしたちの志が浸透しているとは思えぬ。おまえがいった、この天草をホトケの国にしたいという希望はまだ失ってはいない。いったん故郷に戻るのは、改めてここへきたいがためだ。そのためには自分なりの力を蓄える必要がある。いまはその力が尽きた。だから故郷へ戻る。わかってほしい」
 悲痛ともいえるような言葉だった。重成は胸を打たれた。
(兄は、そこまで考えておられたのか)
 と感じたからである。復興作業は、ハード(眼にみえる物理的な面)とソフト(眼にみえない心や精神の面)の二本立てで進められている。ハードの面を担当している重成は、自分の努力が実際に形になるから、成果がよくわかる。しかしソフトな面はそうはいかない。人間の心がどう変わったなどということはなかなか計量化できない。形にすることはむずかしい。いきおい、評価もまちまちになる。重成は、
 (島民の精神教導を兄に任せ放しにして、自分は形のうえでの復興に夢中になってきた。申し訳ないことだ)
と反省した。そのきもちをみぬいたのか正三がいった。
「わしは故郷に戻って原点に戻るが、必ずもう一度この島にやってくる。いつとはいえぬ。そこでおまえに頼みがある」
「なんでございましょう」
「おまえも原点に戻って復興を進めてほしい。原点に戻るとはわしの考えだが、かつて天草の乱で死んだ人びとの霊を改めて弔ってほしい。標になる塔を建ててほしい。場所は富岡城址(天草苓北町)あたりがいいだろう」
「これは気づきませんでした。わたしの心の一部にも復興事業を進めながら、いつもなにか引っかかるものがありました。いま兄がいわれた慰霊の碑を建てることによって、あるいは解消できるかもしれません。ぜひそういたします」
「頼む」
 正三はうれしそうにうなずいた。正三のいう原点に戻るとは、
「ホトケの教えの原点に戻る」
ということである。正三はいつもそう思ってきた。
「心に迷いが生じたときは、必ずホトケの教えの大本に戻ることだ」
ということを行動の指針にしてきた。いまはそれをおこなおうというのだ。
▲UP

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