童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          組織のためにどう動く忠誠か、反逆か

■明治維新は下級武士が行ったが既に藩政改革の経験をもっていた

<本文から>
 明治維新は、「王政復古」だといわれる。王政復古というのは、「王政のいにしえ(古)にかえす(復)」ということである。いきおい明治新政府の組織は、古代日本国家の「大政官制」がとり入れられた。
 政治組織はともかくこの大政官という役所に入って実際に国の仕事をおこなったのは、各藩から出てきた下級武士であった。江戸崎代「陪臣(大名の部下。将軍からみると大名は将軍の部下だから、部下の部下ということになって軽蔑された)」こといわれた連中だ。
 私は率直にいって、明治維新はたしかに社会変革だと思いつつも、「それにしても、各藩の下級武士たちが突然日本家の高級官僚になって、よく政治がおこなえたものだ」と感嘆する。
 その秘密を本書で紹介する。それはつまり、各藩の下級武士たちは、全部それぞれの藩におけるきびしい「藩政改革」の経験者であり、実行者だったということだ。極端ないいかたをすれば、「藩政改革がきびしければきびしいほど、下級武士たちは政策立案やその実行者として鍛えられた」ということである。
そしてその藩政改革も、たんなる財政雉だけではなく、徳川幕府に対してその藩がどういう感情をもっていたかということも大きく影響を与えている。極端いえば、関が原の合戦で徳川幕府にいじめられ、冷遇され藩のほうが、しゃかりきになってこの藩政改革をおこなったといっていい。藩政改というのは、現在でいえば経営改革であり、いうところの”リストラ(リストラクチャリング)である。 

■多く人材を輩出した長州藩

<本文から>
 かつてある評論家が、幕末の雄藩を現代の大国に見立てて、長州を中国、薩摩をロシアになぞらえたことがある。
 ふたつの藩の生きかたをみていると、長州は、政情径行、理想主義的で、どちらかといえば理想主義的のまっすぐな生きかたをし、それだけに妥協をゆるさないきびしい姿勢を示し、一方薩摩はかなり現実的で、その対応は柔軟であり、政治的で、ときに不透明な印象を与えるということであろう。かんたんにいえば長州は純粋であり、錬磨は謀略性に富んでいるということである。
 いずれにせよ、明治維新の流動力を論ずるには、まず長州藩をあげなければならない。ふつう維新は主として「薩長」によって実現されたということになっているが、薩摩のほうは慶応年間にいたるまでは何度も幕府に味方しているし、「長州征伐」の先鋒として長州を攻めたりもしている。維新をもたらした最初の国論「尊皇攘夷」をはじめから終りまで一心不乱につらぬき通したのは、まさに長州藩だけである。
 そして、維新実現に力をつくした人物がこの藩ほど多く輩出したところもない。これは幕末という歴史の運動法則がフルにうごいた時代がそうさせたというだけでなく、やはり長州という独特な土壌の産物なのだ。
 よく、「組織は人だ」ということが強調される。組織という無機物をうごかすのは人間という有機物だ、という意味なのだろうが、この場合の”人”は、ふつうの人間ではなく、かなりのスーパースター、つまりすぐれたリーダーシップによって組織をうごかせる人びとのことをさしている。
 その意味では「藩」も糾絨だ。″人”がいなくてはうごかない。幕末の長州藩をうごかしたのは人である。しかも長州藩には、「組織は人だ」といわれる、その”人”が溢れるほどいた。
 西郷隆盛・大久保利通とともに維新の三傑といわれる木戸孝允はじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤樽文、山県有朋、赤根武人、井上馨、大村益次郎、桂太郎、来島又兵衛、国司信濃、白石正一郎、品川弥二郎、立石孫一郎、山中義一、乃木希典、広沢真臣、福原越後、前原一誠、村田清風、そして吉田松陰など、かぞえきれないはどの人材が出た。どれをとってもひとりで十分組織をうごかしうる”人”たちだ。
 つまり端末の長州藩は″人″だらけだったのだ。

■長州藩はボトム・アップ

<本文から>
幕末の長州藩は、
「ボトム・アップ」
の国であって、
「トップ・ダウン」
はほとんどない。
そして下士層のボトム・アップ、つまり”上昇気流”に一定の方向性を与え、またこれをパワー化したのは主として上士層の桂小五郎と高杉杉晋作である。
 タイプからいうと自由奔放で熱血詩人である高杉が方向性についての指導性をもち、怜榊緻密な桂が、オーガナイズの名手と考えられがちだが事実は逆だ。当初からほとんど妥協の余地なく長州藩”尊譲倒幕″の路線にひきずりつづけたのは桂であり、奇兵隊その他の士・農・工・商連合軍を編成したのが高杉である。

■西郷と大久保

<本文から>
 だから、よく話のタネになる西郷の流人生活というのは、じつは幽霊としての西郷の生活であって、実体はないのである。それがのちに(元治年間の蛤門の戦あたりから)ふたたび堂々と、西郷吉之肋としてよみがえってくる。薩摩藩の実力もさることながらこの時代の社会全体もいい加減なものだ。おおらかだといっていい。
 奄美大地でゴーストとしての生活を強いられた西郷は、しかし幽霊の地位には甘んじでいなかった。島民は藩政府の搾取に死ぬ思いをしていた。とくに黒砂糖への高税はひどかった。西郷はこのことで島民側につき、何度も島の代官とケンカした。一方、アイカナという島の娘を現地妻にし、ふたりの子も生れた。上の子(菊次郎)は明治維新後の初の京都市長になっている。
 西郷が島で島民のために藩庁役人と闘っている間に、碁を通じて島津久光にちかづいた大久保一蔵(利通)は、じつは西郷の出番を着々と用意していた。大久保は自分の能力をみずからたのむことの多い男ではあったが、またその限界も知っていた。とくに”人望”いう点では、青年層にとつて、西郷が”星”のような存在であることを知っていた。友情を微妙にからませながら、大久保は西郷の人気を利用することを考えた。

■西郷と大久保は状況を作り出した

<本文から>
藩という組織人にとってつねに完全市民の組織的行動は邪魔だったのだ。社会変革というのは、
△変革の叫び手の時代
△叫びを行動に移す時代
△行軌が組織化される時代
 という経過をたどるが、明治維新もまさにそうだ。個人から藩の時代に着実に移っていく。ところで、寺田屋での惨劇があったあと、大久保と西郷の胸に牙ばえたのは、やはり久光に代表される″権力の論理”への抵抗である。
 その抵抗をふたりは”自分のなかにそれを破る運動法則を育てる″という方法をとった。
 歴史は人によってうごく。しかし歴史をうごかす人間はかならずその内部にこの運動法則をもっている。ということは、
「状況にふりまわされる」
 のではなく、逆に、
「状況をつくり出す」
のだ。
 いつの時代でも同じことである。組織に欠陥があっても欠陥は放置したままだ。ヤキトリ屋やビヤホールで、いくら上役や部下の悪口をいっていても社会はうごかない。そこには状況変化に寄与する運動法則がないからだ。状況にまかれているだけで、状況をつくり出す果敢な精神がない。
 西郷と大久保はそんな甘ったれた傷のなめあいはしなかった。久光が権力者の論理を悪用すればするはど、かれらは自分自身が状況を変え、さらに新しい状況をつくり出す運動法則そのものになった。

■西郷と大久保は藩主を見限った

<本文から>
私の心からは歴史をうごかす法則は生まれてこない。状況のほうが、その精神の低さ・卑しさを逆にみぬくからである。たんなる出世欲は運動は別になりえないのだ。
大久保もかなり冷たい計算をする男だったが、あまりにも居丈高な久光の態度をみているといやになってきた。
(こういうものは叩きこわさなければならない)
と、かれはかれなりに思いはじめた。この”権力者の論理”へのアイソづかしが、かれを次第に幕藩体制の破壊者に育てあげていく。強力な倒幕論者に変っていく。
その意味では、島津久光は大久保にとって反面教帥であった。権力のいやらしさをこれでもか、これでもか、とみせつける好見本であった。しかも、
 「公」

「私」
の区別がつかず、
スジの通らないことが多くなってきた。明治維新後、政府の高官になつた大久保はどんなに久光がブウブウ文句をいおうと、二度と久光にはちかづかなかった。なんの感傷もなく旧主を見限らせたのである。
 長州藩士たちが藩主をミコシのように担ぎまわって維新に参内したのと反対に、大久保や西郷は、久光というミコシをほうり出すことから維新を成功させたのである。早く言えば、藩の乗っ取りであった。

■大久保の西郷への信頼

<本文から>
 つまり、このばあいは”内容”でなく″言い手″を問題にしているのである。そしてこの言い手を問題にするということは、暗黙の社会慣行として、あらゆる場所でハバをきかせている。しごとの運行もそうなら人事や処遇の面にもいろいろとあらわれている。
「たとえ同じことをいっても、あいつ(A)ならひきうけるが、あいつ(B)では絶対にだめだ」
 という主張が堂々とまかりとおっているのである。
 幕末の薩摩藩のばあい、なんといっても西郷吉之肋というとくべつな″言い手”をもったことが藩を明治政府の関にまで押しあげていったという事実はみのがせない。同じことをいっても、大久保一蔵がいったのでは、
「あいつのいったことなどきけるか」
 と反撥を食う例はたくさんあったにちがいない。勝海舟との江戸城あけ渡し交渉にしても、ひとことでいえは”腹芸”である。腹芸というのは、内容以前に相手への絶対的信頼がなければ成立しない。
 その意味では、勝は元治元年九月の段階で、征長軍参謀としての西郷に、幕府の国家秘密をすべて洩らし
「長州を倒すより幕府を倒せ」
 と示唆している。つまりこの時点で西郷を信じイぬいている。
 くりかえしになるが、以後の西郷の基本戦略はすべてこのときの勝の示唆にもとづくものであり、またこの戦略に対して薩摩藩内の猛暑たちもひとことも文句はいわなかった。いうところの″人望”が卓越して西郷にそなわっていたからだ。つまり、
「西郷さんのいうことはすべて正しい。従おう」
という気風が一貫して薩摩にはあった。その意味で藩論統一のための藩主以上の巨大な星であったといえる。

■土佐藩には一国を守ろうという行動がない

<本文から>
 坂本龍馬が勝海舟にたどりつくまでには、九州の横井小楠、横井が仕えた越前の松平春獄、あるいは西郷吉之肋などの影響があったという。とくに小楠の、
「共和政府」
の構想は坂本の脳裡に深くきざみこまれ、これがのちの大政奉還論に発展していく。
 大政奉還論は公武合体論の方策だから、その意味では土佐藩論の展開であって山内容堂路線の延長である。
「武力討幕」
の謀略が、
「討幕の密勅」
という形で実った同じ日(慶応三年十二月)に、きわどいところで、”大政奉還”というケツまくりを徳川慶喜がやったのは、土佐藩の建言によるところが大きい。
 こういう土佐藩で面白いのは、洋風煮こみのブイヤベースかチャンコ鍋みたいに、いろいろな思想・行動がごった煮のようにグツグツ煮えながらも、あまり、
「土佐一国を守りぬこう」
 という、いわば″藩を大切に”といううごきがほとんどないことだ。
「身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ」
 という、捨身の思想・行動が土佐人たちには多かった。
 それは、背後(北面)には山脈がつづくが、前面は果てしない大海原の太平洋だということもあろう。気持ちもどこまでもひろがっていく。
「つまらぬことにコ七コセしてもはじまらない」
という浩然の気が湧いてきたかもしれない。坂本龍馬はその典型的な人間であった。他人が刀をさしているときには懐にピストルをしのばせ、他人がピストルをもつようになると、こんどは万国公法を懐に入れるという坂本は、つねに時代の先取りを考え行動した。

■会津藩は団結力、誠実、スターは出さない

<本文から>
 会津藩は結果としては、明治政府からはずれてしまったが、かなりの時期ままで日本の世論をリードした。
 はっきりいえば土佐藩提の、
「公武合体」
 という思想は最後の最後まで会津藩の主張したものであり、
「大政奉還」
 はその結実である。
 この主張は会津藩の一貫したものだが、この世論形成のかげには京都にいた藩重役の一致した協力がある。それを国もとで支えた藩士たちの合意がある、結集がある。この一致団結力のみごとさは他に例をみない。
「時勢おくれ」
 だとか、
「古い」
とかいわれても、それではこの″古さ々をこえる″新しいもの”のよさとはいったいなんなのだろう? と会津人はみんな思っていた。人が人に誠をつくすことのどこが悪いのか、と素朴に思っていた。
 しかし、こういう結集力はけっして表には山ない。つまりスターをつくらないのだ。結集力のシンボルは容保だが、容体にしてもけっして華やかなものではない。美男でありその立場からいっても当然もっと売れていいはずなのだが、スターにはならない。こんなところにも会津の誠実さがあるのだ。

■会津は下士・郷土層が主導権をとっていなかった

<本文から>
 会津がナリフリかまったのは、やはりここのヒエラルヒーがきちんとしていて、薩長土のように泥と竣だらけの下土・郷土層が藩の主導権をとっていなかったことによる。
 薩長土は、西郷・大久保・桂・高杉・坂本・中岡のように、だれひとりとってみても、その一人ひとりが強い運動法則そのものであり、状況ができるのを待って行動したのではなく、行動しつづけることによってつぎつぎと状況をつくり出していったのである。
 そういう″状況造成派”に対して
「そうはさせねえ」
 とふんばっていたのが新撰組だ。会津だ。会津は組織としてはガッチリ一体化していたため、時勢をみつめる″眼”はクールだった。この ″眼”のもとにおける”手”が新撰組だった。

■会津はナリフリかなわない重臣が少ない

<本文から>
 ”会津っぽ”というのは頑固者の別名で、古いものを守りぬく意地と、守りぬく姿の美しさ、つまり守旧の美学のようなものが背景にある。
 ひとつことを守ることは美しい、りつばだ。しかし守りぬくには守りぬくだけの状況に対する対応と、また組織員全員の生活の安定に対する責任をもたなければならない。それが藩主という経営者がしなければならないことだ。重臣という重役層が経営者を補けなければならないことである。
 守旧の美学だけに酔っていたのではその組織はほろぴてしまう。精神主義だけでは藩の経営は成りたたない。というのは薩長はじめほかの藩がこのころ、それこそナリフリかまわずに術策に狂奔しているからだ。
 その点、端末の会津藩には、自分から泥をかぶって藩の存続にナリフリかまわずとぴ出していった重臣が少なかったような気がする。私はマキヤベリズムの信奉者ではない。むしろ”ほろびの美学”をとるほうだ。が、だからといって幕末の雅史をたどるうえでクールな眼は捨てない。幕末各派の興亡の要因はやはり現代の社会になんらかの教訓をもたらすからである。

■会津戦争は市内で奪略・強姦などひどいことをした

<本文から>
 市街はひどいことになっていた。市内に突入した西軍は民家につぎつぎと火をかけ、財宝をうばい、女を片端から犯した。犯された女は幼女から七十歳の老婆にまでおよんだという。美しい娘はひとりですまず、何人もサツマイモをその腹の上にのせなければならなかった。
 あまりの屈辱にがまんできなくなった女は舌をかみきった。直接暴行をうけなかった者
「男たちの足手まといになっては…」
 と子を殺し、母を殺し、そして最後に自分もいのちを絶つ妻がつぎつぎと出た。

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