童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          その時歴史が動いた 新撰組興亡史

■新撰組誕生、近藤の言葉

<本文から>
 新選組とは、新たに選ばれた諸芸に秀でた子弟という意味。
 この時、浪士隊は会津藩の別動隊として、正式にその存在を認められることになったのである。
 新選組の誕生。
 それは、いくたびか屈辱をなめながらも、誠実を旨として行動してきた近藤の実力が、晴れて認められた時でもあった。
 新選組の屯所があった壬生の前川邸には、この時近藤が書いたといわれる文字が雨戸に残されている。
  「会津、新選組隊長、近藤勇」
 そして、その裏にはこう書かれていた。
 「勤勉、活動、努力、発展」
 軽輩と侮られながらも実力をもって世にでた近藤勇の信念を表す言葉である。

■近藤、清河の妻への思い

<本文から>
  慶応四年(一八六八)一月。鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組が、上方を離れて関東へ戻った時、近藤は、妻つねへの土産として銀の指輪を持ち帰った。
近藤はその死後、朝廷に歯向かった敗軍として扱われ、親類嫁者は辛酸をなめたが、つねは終生、夫を誇りにし、銀の指輪を大切にしていたという。
一方、清河八郎は、明治維新ののち、一躍功労者としてあがめられるようになり、明治一九年(一八八六)には、かつての同志によって顕彰碑が建てられた。
 「慷慨国を憂い、身人手に死す。千秋万古、この人朽ちず」
 生涯を政治に生き、回天の業を遂げるために奔走した清河八郎。その心のなかに抱き続けていたのは、自分の身代わりとなって死んだ妻・蓮への思いだったい

■難局に対処する新撰組の組織

<本文から>
 また、これは後年のことになるが、関東の流山で再起を期した新選組が新政府軍に囲まれて進退極まり、責任者の出頭を求められた時も、新政府軍に出頭したのは局長の近藤であって、土方ではなかった。土方は副長として、局長近藤の身代わりになるようなことはせず、むしろ近藤に切腹を思い止まらせ、時間稼ぎのための出頭を勧めているのである。
 流山で、近藤はまず自分は腹を切るといった。自分が切腹すれば自分の面目もたつが、それ以上に、組織の長たる自分の死によって事をおさめようとしたのであろう。ところが、そういう近藤を土方は
 次のように言って説得する。
 「ここは割腹するは犬死になり。運を天に任せ、板橋総督府へ出頭し、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」
 もし、いざという時、局長に責が及ばないようにするというのであれば、この時、土方は近藤を説得したりせず、土方自らが近藤の身代わりとなつて出頭し、近藤を逃がしたはずである。
  土方が近藤の身代わりにならなかったのは、もちろん自己の保身のためではないだろう。ここで、近藤を出頭させたのは、近藤と土方にとっては、局長個人の危難よりも新選組という組織とその使命の達成のほうが優先されるべき事項であることを、二人が再確認した結果であるとはいえないだろうか。
 慶応元年末、近藤は訊問使に同行して長州に出張する時に、遺書ともとれる書簡を残しているが、そこでは、自分に万一のことがあった時は、「宿願」すなわち新選組の使命は、土方が跡を継いで果たしてほしいという趣旨を記していることからも、上記の推論は裏づけられるようにも思う。
 鳥羽・伏見の戦いの時も、新選組は近藤の負傷により、局長を欠いたまま戦うことを余儀なくされたが、土方の指揮のもと、一糸乱れぬ統率された行動をとっている。
 また、新選組は何度も分裂の危機に睾われ、結成以来の仲間たちが離脱したり、あるいは戦闘の結果、多数の同志を失ったりということを繰り返しているが、その都度、すぐ人員を補充して数十人ないし百人規模の集団に復活している。これも横となる組織の構造がしっかりしているからこそなしうる芸当であり、組織の生命力の強さを物語るものであろう。

■甲陽鎮撫隊への旧幕府首脳の思惑

<本文から>
  はっきり言うと邪魔なのですね、近藤たち主戦派が。主人の徳川慶喜がもう恭順しているのに、まだ足元のところであくまでも戦うのだという姿勢では、勝が頭のなかに描いている新しい日本への構想が非常にやりにくくなるわけです。だから、敵のなかへ追い出して、中山道を上がってくる官軍に滅ぼされてくれればいいなという計算があったと思います。それには近藤たちを納得させなければなりませんから、若年寄格だとか寄合席格だとかという旧幕府の高級ポストを与えて、武器・弾薬や兵力もともなわせて、甲陽鎮撫隊という名前をつけました。鎮撫隊というのは、要するに官軍がやってぐる中山道の過程で旧幕府例の反乱が起こったときに、それを鎮圧するための部隊ですよと官軍倒への言い訳ができるようにしておくためにつけた名前なのです。勝が、なんでああいう連中に武器まで与えてやったのだと官軍に問われた時に、それはあなた方官軍に歯向かうような不心得者がいた場合、近藤たちに鎮めさせる役割を担わせたのですよという二枚舌を使えるようにしておいたわけです。

■敗残した後、江戸での永倉たちとの決別

<本文から>
 慶応四年三月一一日すぎ。江戸の一隅に身を寄せていた近藤のもとに敗残の隊士たちが姿を現した。永倉新八、原田左之助、島田魁など、いずれも京都で苦楽をともにした同志である。
 永倉新人の『新撰組顛末記』によれば、この時、次のようなやりとりがあったと伝えられる。
 永倉たちは、近藤に会う前に協議をし、かくなるうえは江戸を去って会津へ赴き、もう一旗あげようと約していた。
 一緒に会津に行ってほしいと頼む永倉に対し、近藤は憤然として答えた。
 「拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ」
 会津行きは永倉たちが近藤の許可なく勝手に決めたことで、同意はできないというのである。
−元将軍の慶喜は今なお江戸にいる。その江戸を守るのが新選組の使命ではないか。
 近藤はそう言いたかったのかもしれない。
 近藤は、さらに次のように付け加えて言った。
 「ただし拙者の家臣となって働くというならば同意もいたそう」
 そもそもは同志であったはずの隊士たちに自分の家来になれというのである。
 かねてから近藤には横暴なところがあると思っていた永倉は、激怒して言い返した。
 「二君に仕えざるが武士の本懐でござる。これまで同盟こそすれ、いまだおてまえの家来には相なり申さぬ」

■勝と近藤との立場の違い

<本文から>
 端的に言いますと、近藤勇がどんなに官軍側から責めたてられても、勝との関係を白状しなかったことが歴史的には大きな意味を持っていたのではないかと考えます。責める倒はうすうす勝との関係を知っていたとは思うのですが、近藤が口を割らなかったために、江戸一〇〇万人の市民を救った無血開城がスムーズに行われたのだと思います。これは非常に大きな意味があったのではないかという気がします。
 勝のほうは、アメリカに実際に行って民主主義や共和政治の実態を見ていますから、もう徳川幕府にこだわりなく新生日本をつくるべきだという政体構想を持っているわけです。だから徳川慶喜だとか将軍だとかは、彼の頭には全然なくて、もっと広いグローバルな目を持っていました。結局、それを実行することがこれからの日本のためになり、日本国民の幸福につながるんだという考えがありますから、近藤とはなじめない面があるわけですよね。
 ところが近藤のほうは、そういうふうにくるくる目先の現象に条件反射のように変わっていくのは武士にあらずという考えを持っていました。この国に伝わってきた武士の精神に照らせば、主人の家、つまり徳川幕府が沈みかかっている時は、最後までそれを守り抜くのがサムライの美学ではないのかという考えです。

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