童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          尊王攘夷の旗 徳川斉昭と藤田東湖

■水戸光圀は親幕論者という説

<本文から>
  徳川幕府は日本の主権政府
 だから家康にたいして尊敬心を持っていた徳川光圀は、家康のこの考え方を自分の考えにしていた。そんな光圀が、
「反幕思想を持って、徳川幕府をひっくり返すような歴史書」
を編纂するわけがない。学者によっては、
「光圀の大日本史の編纂意図は、徳川将軍家が正当な主権者であるということを主張しているのだ」
という人さえいる。その論によれば、
・光圀は大日本史において、南朝の正系論を唱えた。そして北朝を偽朝といった。
・しかし、この設定には深い意味がある。というのは、南朝はすでに滅びた朝廷だからだ。存在していない。それが正系だというのは、「かつては南朝が正系であって、いまは存在していない。いま存在しているのは偽の朝廷である」ということになってしまう。
・そうなると、武士が尊崇すべき正しい朝廷は、日本に存在していないということになる。
・すなわち、「日本の主権者は、徳川将軍家以外ない」ということを光圀は言いたかったのだ。
 こういう解釈をすると、徳川光団は反幕どころではなく、むしろ、
 「親幕論者」
になる。そして文字どおり、
 「天下の副将軍として、正規の将軍がこの国で唯一の主権者であることを強調している」
という補強材になる。いってみれば大日本史は、
 「反幕の歴史書ではなく、逆に徳川将軍家の正当性を補完する書」
ということになる。
 このへんは、きわどい解釈だが、一理ある。というのは、光圀は副将軍としての責務を果たし、つねに綱吉の行き過ぎを諌言した。
 たとえば、有名な「生類憐れみの令」の行き過ぎについても、しばしば諌めている。水戸領内で野良犬が多くなったので、これを殺して皮を綱吉のところに持ってきたこともある。こういうことが、
 「光圀は、反幕思想を持っている。いずれは幕府をひっくり返す気だ。そして、天皇の忠臣として君臨するつもりなのだろう」
 と拡大解釈されてしまうのだ。

■斉昭は藩主就任時に公平に罰した

<本文から>
(自分には、吉宗公ほどの器量はない。同じことはできない。やはり、自分の藩主就任に反対した連中は罰さなければならない。これは藤田のいうとおりだ)
 藤田東湖の意見書に書いてある好臣は、単に、
「斉昭の藩主就任に反対した連中」
だけではなかった。
「藩政を現在のように悪化させてしまった責任者」も含まれている。いや、東湖がいうのは後者のほうだろう。これには斉昭も感心した。
 (東湖は公正だ)と感じた。
 斉昭が考えたのは、
・自分の藩主就任に反対した連中の処分
・水戸藩政を現在のように悪化させた責任者の処分
・東湖のいうような、やる気のある忠良の家臣の登用
の三つだ。
「どれから実行すべきか?」
と考えた斉昭は、
「しかし、この三つだけでは公平を欠く」
と思った。それは、自分を藩主の座に推し立ててくれた連中のことだ。彼らは忠誠心がほとばしるあまり、無断で江戸へ上ってきた。
「江戸南上」
を行なった連中をどうするかということだ。これは明らかに藩の掟にそむく。
「そのままにはできない」
斉昭はそう決断した。つまり、
「自分を藩主にしてくれた恩のある連中でも、法を破った行為は許せない。罰さなければならない」
ということである。
 年が変わって文政十三年(一八三〇)一月早々、斉昭は、「無断南上した者の処分」を発表した。重臣の山野辺兵庫をはじめ、藤田東湖をふくむ三十人にたいし、
「職を免ずる。逼塞せよ」
と告げた。逼塞というのは、閉門より軽い監禁刑だ。閉門は、
 「昼夜とも、本人並びに他人の出入りを禁ずる」
ということだが、逼塞のほうは、
「昼間に限って、人の出入りを禁ずる」
ということで、夜、出歩くことは認められていた。しかし、いずれにしても、これには江戸城内全員がおどろいた。
「新藩公は、どういうおつもりなのだ?」
と目を丸くした。誰が考えてもおかしい。山野辺兵庫や藤田東湖たちは、無断とはいいながら江戸へ出掛けていって、幕府要人に工作をし、
「敬三郎君を、ぜひ藩主に」
と猛烈な運動をおこなった連中だ。斉昭にすればこの連中のお陰によって、藩主になれたといっていい。それを、
「無断出府(江戸へ行くこと)した罪は許せない」
として大幅な処罰をおこなったのである。
 しかし、藤田東湖は悟った。
(斉昭公はなかなかおやりになる)と感じた。東湖の受け止め方は、(斉昭さまは、つぎに好臣の処分を行なうはずだ。しかし、いきなり貯臣の処分を行なうと、報復人事だと思われる。処分の公正を期すためには、まず法を破ったわれわれから罰し、新藩主の法を守る精神はこういうものだということを、お示しになったのだ)
ということだ。こしれは正しい。斉昭もそのつもりだった。彼は、
「いきなり奸臣の処分をおこなえば、新藩主は復讐の念に燃えた人間だと思われる。これはよくない」
 と考えた。そこで、
「たとえ自分を藩主に推し立ててくれた恩は感じても、法を破った罪は許せない。したがって罰する」
 という挙に出たのだ。これは斉昭にすれば、
「新藩主の法に対する公正さと、藩主の威厳を示す第一歩だ」
 ということであった。

■斉昭は編纂事業の学者武士を現場に出した

<本文から>
「史局に深くかかわりを持っている連中を、まず現場に出そう」
という方針を打ち出したのである。藤田東湖をはじめ、いわゆる学者武士といわれた連中のはとんどが、「郡奉行」という現場の責任者に出された。斉昭にすれば、
「水戸家で行なっている学問は実学であって、虚学ではない。とくに、家代々の大事業である大日本史の編纂も、こういうかたちで役に立つのだということを、史局で編纂事業にたずさわっている学者武士たちが、まず自ら示すべきだ」
と考えたのである。同時にまた、
「学者連中も、現場にいって農民の実態を把握すれば、今度は逆に大日本史の編纂にそのことが役立つはずだ。つまり大日本史の編纂が、空理空論で綴られるようなことがなくなる。いま生きている人間にも役立つような歴史書になるはずだ」
と思った。このへんは斉昭の、
「過去と現在のフィードバック」
である。フィードバックというのは電子工学の理論で、
「出力の一部を入力に変えて、出力を制御する」
というものだ。だから、学者武士で郡奉行に命ぜられた連中は、いっせいに、
「大日本史という出力を持って飛び出していく」
ということである。そして、
「現地の農村から、農民たちの偽らざる気持ちを入力として受け止める」
ということだ。さらに、
「その農民たちの気持ちを示す入力を受け止めることによって、自分たちの気負った大日本史第一主義の出力に反省の心を持ち、編纂事業そのものにも改善を加えていく」
ということだ。学者武士たちは、農村に出ることによって、現場の空気を身につける。武士によっては、
 「俺たちは、少し思い上がっていた。大日本史の編纂事業も、こういう方向に帰るべきだ」
 と考え直す者も出てくるだろう。しかし頑固に、
 「そんなことはない。農民のほうがまちがっているのだ。彼らを教育しなおす必要がある」
 と考える者も出るはずだ。それはそれでいい、と斉昭は思っている。
 (そういうことを、互いに議論すればいいのだ。議論しているうちに、必ず合意が生まれる。両者がたどりつく結論が得られる)
 斉昭はそう考えていた。その意味で、藤田東湖がいみじくもいった、
 「常陸太田地域は、水戸徳川家にとって虎の住む穴のようなものです」
 という言葉は当たっている。常陸太田地域にはまだ、「旧佐竹家を慕う民心という大きな虎」が住んでいるのだ。藤田東湖は、
「その虎の穴に飛び込んで、虎の子を得よう」
 ということだ。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
という故事をそのまま生かそうとしている。
 このへんは、言葉に出さなくても、斉昭と東湖は「あうんの呼吸」によって、互いに知った。

■重役陣は斉昭を間違わせたのは藤田とした

<本文から>
水戸徳川家の保守的な重役陣が考えたのは、
 「藩公斉昭さまと、藤田東湖とを切りはなそう」
ということであった。つまり、水戸藩主徳川斉昭は、
「ご政治向きよろしからざるにより」
という名目で罰された。しかし、その年の暮れに斉昭が罪をゆるされたのには、水戸城の保守重役陣の猛烈な工作があった。彼らは、
「藩主をあやまらせたのはすべて藤田東湖という謀臣の仕業でございます」
と申し立てた。現在にたとえれば、
「たしかにわが社は不祥事を起こしましたが、それは社長が悪いのではなく、総務部長が悪かったのです」
といって、社長を免責し、補佐投の総務部長だけに責任を押しつけるというようなことだ。
 藤田東湖はその槍玉に上がった。つまりスケープゴートとして、幕府にさし出されたのである。
 幕府首脳部も、本当はそのほうが都合がいい。御三家のひとつである水戸藩主を、徹底的に罰するわけにはいかない。
 同時にこのころはまだ、たとえ水戸藩といえども、やはり「儒教」の影響は大きかった。水戸学はたしかに、儒教とはかなり遠いところで組み立てられた論ではあったが、
 「武士の心構え」
としては、やはり厳然と儒教の影響は強い。つまり、
「君臣の大義を明らかにし、君、君たらずとも、臣臣たれ」
という思想は徹底していた。ありていにいえば、水戸藩主斉昭は保守的な重役陣から見て、
「あまりいい君主ではない」
ということだ。すなわち、
「君、君たらず」
というように思えた。政治路線がまったく違うのだから、光を当てる角度が違う。双方とも互いに譲らなければ、やはり相手のやり方は間違って見える。しかしだからといって、水戸家の重役陣にしても、藩主の斉昭をそのまま、
「殿が間違っておられる」
とはいえない。やはり、
「殿を間違わせたのは藤田だ」
ということにしたい。したいというよりも、事実重役陣はそう思っていた。
 「もともとは、古着屋のせがれだった人間が、なまじっか学問を身につけたために、殿がご寵愛になった。それがそもそもの間違いだ」
いってみれば、藤田東湖は「能力もないのに総務部長になった」と見られていた。
水戸藩保守派首脳部と、これに共鳴する幕府首脳部との考えは一致した。
 「すべての責任を藤田に押しつけよう」
 ということになった。
 そのために彼は、「米塩通ぜず」というような、干し殺しにちかい虐待を受ける始末になってしまったのである。

■東湖は幽閉に正気歌や常陸帯を発表し全国から多才な人物が訪ねてきた

<本文から>
「東湖は罪を得て、江戸から水戸送りとなり、竹隈町に幽閉されたことをずっと以前に書いた。その後、彼は大きく飛躍するが、そうなると竹隈町における幽居生活というのは、いまの言葉をつかえば、
 「充電期間だった」
といえる。とくに彼の場合には、多少監視がゆるめられると、全国から多才な人物が訪ねてきたのである。
 それほど藤田東湖の名は鳴り響いていた。
 彼がこの幽居生活中に「正気歌」や「常陸帯」を発表し、これが全国の心ある人びとの胸を大きく揺り動かしたからである。
「水戸は明治維新の噴火山だ」
とよくいわれる。そうなると、水戸斉昭と藤田東湖のコンビは、そのまま、
「噴火山のマグマ」
だといっていいだろう。
 藤田東湖が生涯に出会った人物は、つぎのような人びとだ。順不同で掲げる。
 佐久間象山・鍋島直正(佐賀藩主)・横井小楠・川路聖諌・岩瀬忠震・吉田東洋・山内容堂・橋本左内・西郷隆盛・有村俊斎(海江田信義)
 そのはかに、
 「東湖先生にぜひお目にかかりたい」と願って、わぎわざ水戸までやってきたにもかかわらず、
 「東湖は目下禁固中なので、会わせるわけにはいかない」と追い払われたのが吉田松陰である。
 出会った人間の顛ぶれを見て共通するのは、「すべて開国論者」だということだ。佐久間象山や横井小楠、橋本左内などは、
「開国論に立って、日本人はどう生きるべきか」
 ということを追求した思想家だ。彼らが唱えたのは、
 「和魂洋才(芸)」
である。すなわち、
「日本人の精神を忘れずに、すすんだ外国の科学知識や技術をどんどん受け入れる」
 ということだ。そのために、「開国進取主義」を唱えた。すなわち、
「鎖国などやめて、大船をつくり、こちらからどんどん外国へ進出していく」
 というものだ。しかし、
「だからといって絶対に外国かぶれになってはならない。日本人のよき精神は最後まで持ちつづける」
 ということだ。

■東湖もいいときに死んだ

<本文から>
 「東湖がいつまでも生きて、はたして幕末から明治維新にかけて歴史的役割を負えただろうか?」
と考えると、はなはだ自信がなくなる。
 むしろ、
 「東湖は、あのとき安政の大地震で、圧死したからこそ名声が残ったのだ」
といえなくもないのだ。
 つまりわたしの「結果よりもプロセスに重きを置く、つまり過程に関心がある」ということは、東湖も別枠ではない。
 その意味で、本篇を締めくくるにあたり、弘化四年(一八四七)十月、家督を健次郎に譲りわたしてから、安政二年(一八五五)の江戸大地震で、圧死するまでの東湖の生涯を、簡単にたどっておく。

 弘化四年(一八四七)十一月に「許々路廼阿登」を書いて、同志の高橋多一郎に渡している。
 嘉永二年(一八四九)、四十四歳になると、この年八月に私塾・青藍舎の教育を再興している。
 嘉永四年(一八五一)、四十六歳のときの十二月十九日に、吉田松陰が水戸にやってきた。しかし東湖はまだ謹慎中であったので、面会を謝絶した。松陰は落胆した。
 嘉永五年(一八五二)の一月二十日、ついに東湖に会うことのできなかった松陰は水戸を去った。閏二月十六日に、ようやく東湖は慎しみを許された。
 嘉永六年(一八五三)、四十八歳の夏、かれは湯岐温泉に湯治に出かけた。まだ、健康状態が完全ではなかったせいだろう。
 そしてこの年六月に、例のペリーが四隻の黒船をひきいて浦賀にやってきた。
 このときの幕府老中阿部正弘は、
・ペリーが持ってきたアメリカ大統領の国書は、日本語に翻訳し、日本全国にばらまいて意見を求める。
・こういう時期の次の将軍は、従来のように血筋だけではつとまらない。やはり能力が必要だ。そのためには、一橋慶喜がふさわしい。
という方針を立てた。しかし幕府外に、うるさ型の徳川斉昭がいる。斉昭は徹底した、
 「尊王壊夷論者」
である。阿部は斉昭の抱き込みにかかった。そこで斉昭に、
 「海防参与」
という特別顧問のポストをつくり、参加を要請した。斉昭は承知した。そして斉昭は藤田東湖にも、
「手伝え」
と命じた。
 藤田東湖は、「海岸防禦御用掛かり」を命ぜられて江戸常勤となり、以後、斉昭を補佐して国事に奔走するが、しかし阿部の方針は、
「開国・連合政権の樹立・国民に情報公開と国政への参加を求める」
 という民主的な政策を展開していたから、斉昭とは意見が合うはずがない。斉昭はしだいに、海防参与のポストが、
「有名無実」
であることを知るようになった。
 ところがどうしたことか、斉昭は阿部に好意を持っていた。そこで根本的に対立する思想差を、正面から叩きつけるようなことはしなかった。沈黙することよって、阿部のやり方に協力したのである。
 この年十一月十八日に、新藩主徳川慶篤から、東湖は、
「以後、誠之進と名乗れ」
と名をあたえられた。慶篤から見れば、
 「藤田東湖は、よく父を支えてくれる。ほんとうの忠義の武士だ」
 と思えたからだろう。
嘉永七年(一八五四)、四十九歳のとき、一月二十四日に東湖は斉昭の、
「御側用人兼務」
を命ぜられた。禄高も四百五十石と増えた。そして、このころ日本全国から、東湖のところに、
「ぜひ、お教えを」
と志望する若者が殺到した。
 東湖は豪快な性格だったから、これらの連中を気持ちよく迎え、酒をふるまって大いに歓談した。そめために、仕事の方がかなり、時間を食われるようになった。
 安政二年(一八五五)、東湖は五十歳になった。そして十月二日、江戸大地震のために、小石川邸内の役宅で圧死したわけだが、伝えによれば、このとき東湖は、いったんは屋外に逃れ出たが、まだ家の中に母親が残っていることを知って引き返した。
 そして、母親を無理に建物の外に押し出した後、上から梁が落ちてきて東湖に当たり、そのまま圧死したという。
 英雄らしい最期である。やはり、天は存在するのかもしれない。だから天の意志としては、
「このへんで、東湖を死なせた方が本人のためかもしれぬ」
 と考えたのだろうか。

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