童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          師弟 ここに志あり

■鷹山は平洲から藩主が民の父母と教わる

<本文から>
 直丸は元服し、時の将軍徳川家治(第十代)から一字をもらって掛罫と改めた。そして、明和四年の四月に隠居した養父重定の後を継いで、第九代の米沢藩主になった。治憲(鷹山というのは隠居後の号)は、早速師の平洲に聞いた。
 「先生、国を治める心構えをお教えください」
 平洲は答えた。
 「修身治国乎天下(自分の身を修め、国を治め、天下を平和にすること)以外ございません」
 「それを実現する心構えは、いかようにいたせばよろしゅうございますか」
 「三つの根本をお弁えになるべきでございましょう。一つは、国の運営にはなんといっても財用(資金)が必要でございます。しかしその財用は、土地と民力の二つを根本にして生じます。これ以外に、財用の生ずる源はございません。そうなれば、財用は尊いものであって、入るを量って出るを制すという心構えが肝要でございます。入るを量り出るを制すると申すのは、古来より定まりたる法ではございますが、なかなか定めどおりにはまいりませぬ。
 そこで、常に非常の法をもってこれにあたることが大事でございましょう。非常の法と申すのは、まず無理な制度をもって下を苦しめることではございません。逆に、上が節倹の努力をして、民を安んずることでございます。そのためには、国を治める老は常に天の心を自分の心として、民を子と思い、自分を民の父母と思う心構えが大切でございます。世上、庶民は子が飢えれば、自分の食い扶持を減らしてでも子の飢えを救います。国を治めるには、まずこの心構えが大切でございましょう。そういたしますれは、民も必ず上を親として敬うことでございましょう」
 「…」
 治憲はなにも言わずに平洲を見つめ返していた。言えなかったのである。感動で胸が一杯になっていた。いま平洲が言った、
「藩主は民の父母だ。国を治めるにはその心がけが必要だ。民が飢えるときは、まず自分が先に飢えよ」
 という教えは、正義感の強い誠実な治憲の胸を激しく揺さぶった。治憲は自信を持った。
 <細井先生のお教えを貫くことこそ、自分がこの国を再建する大いなる力になる>
 当時の上杉家はたいへんな財政難で、先代の重定などは、
 「これ以上藩を持続することはできない。思い切って土地と民を幕府に返上しょう」
 などと言いだしたくらいだ。が、
 「そんなことをしては、謙信公以来の名門を潰すことになります。なんとかして再建の方途を講じましょう」
 ということで、秋月家から治憲を迎えたのである。したがって治憲には、上杉家の財政を再建するという責任があった。しかし細井平洲に教えを受けた治憲は、
「単に財政上の赤字を克服するだけではだめだ。人の心の赤字も克服しょう」
 と思い立った。それには、まず米沢城の武士たちの気持ちを変えなければならないと考えた。彼は、
 「火種運動を興そう」
 と告げる。上杉家は破綻寸前の状況にある。これは冷え切った灰の上に存立しているようなものだ。しかし、その城に勤める武十二人ひとりの胸の中には、まだ消えていない火種があるはずだ。その火種を基にして、まだ黒い炭に火をつけよう。それを互いの活力の源にしようと、次のように呼びかけた。
 「われわれの火種運動が炎となれば、必ず住民の胸に飛び火をする。そうなったときに、城の改革は決して役人のためではなく、住民のためにおこなっているのだという自覚を皆が持ってくれるだろう。その日まで、歯を食いしばって努力しょう」
 これが実って、やがて襲う東北地方の大飢饉に対しても、米沢藩は餓死者を一人も出さなかった。これは、住民の間に、
 「互いの身を思い合う信頼感」
 が生まれていたために、地域別に食料と生活日用品を保存する倉庫ができていたためだ。
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■洪庵は門下の潜在能力を開発した

<本文から> 
 師の緒方洪庵は、時折学生たちを集めると自分の考えを話した。
 「私の適塾は、その名のように、学んでいる君たちが、自分の中に潜んでいる能力をそれぞれの能力で開発する場だ。互いに門人の君たちが切磋琢磨しあって磨き合う場だ。したがって、この塾では別に就職の世話はしない。だからこの塾は学問を修めて幕府や大名家に就職の世話をする場だと思ったら大間違いだ。あくまでも君たちの自立の精神によって、自分の内部に潜んでいる能力に磨きをかける場なのだ。君たちはまだ原石だ。しかし、やがては宝石になる。だから原石が宝石になるための研磨の場なのだ」
 こういう気風が適塾の特性だったから、学ぶ学生たちも自由な道をたどりながらも、
 「自分を高く評価する」
 という″誇り″を培っていった。
 「西洋日進の書を読むことは、日本人の誰もができるということではない。我々に限ってそれができるのだ。たとえいま貧乏して苦しんでいても、しかし知力思想の活発高尚なることは、王侯貴人も及ばないはずだ。王侯貴人を逆に眼下に見下ろせるだけの気概を我々は持っている。したがって、ここで学ぶテキストが難しければ難しいほど、勉学のし甲斐があるのだ」
 と、彼らは語り合っていた。
 洪庵は公正な人物で、特定の学生にだけ愛情を持つことは決してしなかった。しかし、例外があった。それが福沢諭吉である。多彩な門人たちのほとんどが、背後に藩という組織を持っていた。はっきりいえば、
 「藩(大名家)からの派遣学生」
 が多い。薄から学費や生活費をもらって勉学していた。しかし、福沢諭吉は違った。彼はほとんど、
 「自費学生」
 である。それも貧しい。しかも、父ほ早く死んだが母がまだ生存していて、病気がちだ。
 兄の三之助が家を継いではいるが、下級役人で家計は苦しい。その中からほとんど爪に火を点すような思いで貯めた金を送ってきてくれる。そういう事情を洪庵はよく知っていた。
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■松陰は高杉と久坂を組み合わせて切磋琢磨させた

<本文から>
 「人材の組み合わせ法」
  に長じていた。晋作にははっきりと、
 「君は誠に長じてはいるが、学才に乏しい」
  と告げた。識というのは、
 「自分で築き上げた考え方」
  のことだ。松陰は識という言葉を使ってくれたが、実際には高杉晋作のそれは″ひとりよがり″であり、他人の意見など聞かないから、
 「高杉の奴は始末に負えない頑固者だ」
  と言われていたのである。松陰は高杉の識が長州藩の改革、さらに日本の改革に役立つと見た。だからこそ逆に、高杉晋作の頑固さに磨きをかけようと思った。それには、
 「高杉の欠点を補うような門人を組ませることが最も効果がある」
  と考えた。そこで晋作に組ませる人物として、久坂玄瑞を選んだ。松陰は久坂を、
 「学才はあるが識に乏しい」
  と見ていた。識に乏しいというのは、学問は深いが、それを活用する勇気と決断力に欠け
 ているということだ。この二人を組ませれば、人間的相乗効果が起こって、互いに切磋琢磨し合い、それぞれ得るものが多かろうと考えたのである。
 松下村塾には″四天王″と呼ばれるすぐれた門人がいた。その一人である青田栄太郎(後の稔麿)が、ある時一枚の絵を描いた。脇で門人の山県狂介(後の有朋)が覗いていた。栄太郎が描いた絵には、はなれ(暴れ)牛が一頭、坊主頭でカミシモをきちんと身につけ正座している人物、そして木剣が一本、さらに一本の棒が描かれていた。山県狂介は青田栄太郎に絵の意味を聞いた。栄太郎はこう答えた。
 「はなれ牛は高杉だ。カミシモを着た坊主頭は久坂玄瑞だ。久坂は、藩庁の重い役につけても立派に務まる。木剣は入江九一だ。入江は一所懸命勉強はしているが、まだ刀にはなれない。木剣の段階だ」
 山県はなるほどと領き、
 「この棒は誰だ?」
 と聞いた。栄太郎は苦笑し、
 「この棒はお前だ」
 と答えた。瞬間、山県は深い屈辱感を覚えたが、すぐ、
<言われてみればそのとおりだ>
 と納得した。こういうように門人の問でも、身分を超えて、互いに切磋琢磨の相手を捜し出す気風が渡っていた。これも松陰の教育方針の賜物である。しかし松陰が目的とする。
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■斉彬は西郷にグローカリズムを教えた

<本文から>
  薩摩藩の議事行所の書役助であった西郷を、まさに、
 「最高政策の仕掛人」
 として抜擢したのであった。斉彬はこの日西郷書之助に「庭方」を命じた。表面は鶴丸城の庭の番人だが、実際には斉彬の意を受けて隠密活動をおこなう役目だ。西郷はこれを受けた。
 斉彬は鶴丸城から前面に見える太平洋を示してこう言った。
「この海の彼方にはたくさんの国がある。この地球上にあるのは日本だけではない。地図を見ればわかるが、日本などというのはその世界の国々の中でもちっぽけな島国にすぎない。しかも薩摩藩は、その南端に位置するわずかな地域だ。西郷よ、眼を開け。海の彼方を凝視しろ。そして、海の彼方で起っているできごとを極力耳にし、眼に入れろ。今日から、おまえは薩摩藩の西郷ではない、日本の西郷だ、そして世界の西郷になれ。よいな」
 名君の凝縮した短い訓示だ。西郷は全身でこれを受けとめた。斉彬が見込んだとおり、この若者の肉体にはいままで充電に充電を重ねてきた限りないパワーが存在していた。西郷は自分でも口にしたとおり、
 「自分を発見してくれたこの殿様のためには、生命を捧げて粉骨砕身の努力をしよう」
 と思い立っていた。
 斉彬の西郷に教えたものは、今の言葉を使えば、
 「グローカリズム」(国際的な感覚を持って地方でいかに生きるべきかを考えること)
 ということである。開明的な斉彬は、同時代の学識経験者たちの主張をくまなくとりいれていた。たとえば松代(長野県長野市)藩に仕える西洋科学者佐久間象山がこんなことを言った。
 「わたしは松代人であり、日本人であり、世界人(国際人)である」
 斉彬はこの言葉が気に入った。そのとおりだと思った。日本のどんな一隅に身をおいていても、象山の言うように、
 「地域人であり日本人であり国際人である」
 という、日本人の一人ひとりが三つの人格を持っていることはあきらかだ。グローカリズムは、この三つの人格の認識からスタートする。すなわち、どんな小さな問題を解決するにしても、
 「グローバルにものを見て、ナショナルな立場に立ち、そしてローカルに生きる」
 ということが大切だ。斉彬は西郷に徴底的にこのことを叩き込んだ。そして、
 「それさえ弁えていれば、どんな難関に出合っても必ず突破できる。グローカリズムはどんな難問にも対応できる大きな原則である」
 と教えた。
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■クラーク博士は教え子の胸の中に生き続けた

<本文から>
 つまり、
「存在しない教師が、存在するかのような教育を依然としておこなっている」
 のである。新渡戸稲造と内村鑑三は、そういう空気の中にズッポリつかった。したがって二人とも、
「クラーク博士の教えを守ろう」
 と考えた。だから、先輩の一期生に接しては、
「クラーク博士は、こういう時どう教えられましたか」
 としつこく聞く。先輩たちは聞かれるとうるさがらずに、親切に教えてくれる。先輩たちにとっても、それはなんとも快いことで、
「クラーク博士はアメリカに去られたが、決していなくなったわけではない。いまも、ここにおられる。それは、我々の胸の中にいつも存在するからだ」
 と胸を張って告げた。稲造は圧倒された。クラーク博士は、
「君たちは、この学校を卒業した後は、地域の有能な指導者とならなければならない」
 と告げていたので、学生の全人的な教育に力を入れた。クラークはそのためにキリスト教を活用した。クラークの後任は、クラークがアメリカから連れてきたウィリアム・ホイラーという教授が担当した。ホイラー教授もまたクラークの方針を引き継いだ。ホイラー教授の担当は数学だったが、クラーク博士が始めた全人的教育にも力を入れた。まず、学生たちに、
 「禁酒・禁煙を誓い、一人ひとりが誓約書に署名すること」
  という厳しいものである。また、クラークは学生たちの健康と勇気を養うために、先頭に 立ってよく山野を歩きまわった。これは、
 「動植物の採集をおこなう」
  という名目である。
  しかし、キリスト教の押しっけは必ずしも学生たちをすんなりと納得させたわけではない。のちに、無教会主義の熱心なクリスチャソになる内村鑑三でさえ、
 「人格修養は大切だが、なにもキリスト教だけがすべてではない」
  と反発した。そして仲のいい新渡戸稲造に、
 「君も南部藩士の家に生まれた武士だろうフ・僕も高崎(群馬県)藩士の家に生まれている。 我々にとって必要なのは武士道だ、武士の精神だ。武士道さえあれば、立派に地域の指導者になれる」
  と言った。このいわば、
 「キリスト教と武士道の二重性」
 は、死ぬまで二人の胸の底にしっかりと根づく。
▲UP

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