童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           疾走の志士 高杉晋作

■面白きこともなき世を面白く

<本文から>
 この本は「いいにくいこと」をいうことからはじめる。それは、慶応三(一八六七)年四月十四日に死んだ高杉晋作のいわゆる辞世といわれている歌についてだ。死に瀕した晋作が、ある日、
「辞世を書きたいから、筆と紙を貸してくれ」
といった。たまたま枕頭にいたのが福岡からやって来た野村望東尼である。野村望東尼は、
「勤王婆さん」
といわれていた。九州に亡命した時の高杉を匿ったことがある。そして、そのことのために藩から睨まれて、一時小さな島に幽閉されてしまった。高杉が手を回して救い出した。そんな関係なので、
「高杉晋作が危篤状況だ」
 ということを開くと、望東尼は取る物もとりあえず海を渡って飛んで釆た。その頃
の高杉は、下関新地の林算九郎の家にいた。それまで山の方にいたのだが、
「もっと暖かい海の近くの方がよかろう」
 と周囲が心配して、林の家に移したのである。
高杉の辞世と伝えられているのが、かれが上の句を詠み、野村望東尼が下の句を詠んだというものだ。高杉の上の句は、
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 というもので、ここまで書いたかれは呼吸困難になり、体力の限界を感じて筆を置いた。そこで脇にいた望東尼が、あとを続けて、
「すみ(住み・棲み)なすものは心なりけり」
 と書いた。聞いた高杉は、
「おもしろいのう」
 といって微笑んだという。そのまま絶命したという説もあるし、
「いや、この歌のやり取りは死ぬかなり前のことだ」
 という説もある。
 わたしが「いいにくいこと」というのは、この野村望東尼の下の句のことだ。高杉の二十九年の生涯を振り返って、望東尼のいうような、
「すみなすものは心なりけり」
 などという、透徹した悟りが高杉に果たしてあったのだろうかという疑問をずっと持って来た。しかし、野村望東尼も立派な人物だから、これは、
「歴史上のいいにくいこと」
 として、一種のタブー化された面があり、いちやもんをつけることなどは思いもよらぬことだと自制して来た。しかし、今度新しく高杉晋作の生涯を書くにあたって、どうもこの辞世が気に掛る。いろいろな高杉晋作に関する本を読んでいたら、
「晋作はおそらく辞世を作らずに没したのだろう。しかし詩人晋作に辞世がないことを残念に思った者がいて、数ある作品の中から望東尼との合作「面白き・・・」を選び出したのではないだろうか。若くして逝った英雄に、伝説はつきもののようだ」

■明治維新のプロセス、個人から雄藩へ

<本文から>
  明治維新の成立過程を見ていると、次のようなプロセスを辿っている。
・今でいう学識経験者がそれぞれの思想を主張した時代、つまり個人が影響力を持った時代
・これらの主張によって、共感を覚えた各大名家(藩)の武士が、藩と藩の境目(藩際)を取り払って、グループをつくりはじめた時代
・このグループが主導して、一般の浪人や市民にもグループ参加を呼び掛けた時代
・これらの勢力のパワーを感じ取った先見性のある雄藩(長州藩や薩摩藩や土佐藩)が、これらのパトロンとなって支援した時代
・しかし、グループの過激な行動を持て余した雄藩は、次第にこの弾圧に乗り出した時代
・結果、個人とグループは消滅し、雄藩と雄藩の争いの時代(このころは、完全に各藩の政略が、権謀術策となってあらわれた)
 そして実際に徳川幕府を倒し、明治新政府をつくつたのはこの最後の、
「権謀術策に明け暮れた雄藩」
 である。長州藩もその例に漏れない。

■松陰から十年計画で考えるようにと

<本文から>
 江戸伝馬町の牢で師の松陰に、
「男子としての死ぬ時期やその場所を教えてください」
 と訴えたことがある。松陰は微笑んで首を横に振った。
「いつも死を覚悟するということは大事だ。しかし、そうなればいつでも死ねます。それに死ぬ覚悟なら、何でも出来るはずだ」
 そういった。そして、
「では、先生にもしものことがあった時に、その後、私はどうすればいいのですか」
 と切羽詰まって聞く晋作に、松陰はこう答えた。
「十年ぐらいの計画で物を考えたまえ。大いに旅をし、結婚もし、そういう基礎をつくつた上で将来に備えたまえ」
 といった。

■松陰と違って長州藩として生き抜く

<本文から>
  脱藩人でなければ事は為せないと言い切った松陰に対し、晋作は必ずしもそうは思っていない。それは、吉田松陰と高杉晋作の立場が違うからだ。少なくとも吉田松陰は、高杉晋作はど藩主毛利敬親から愛されてはいなかったろう。
「松本村の一角から長州藩を変革し、日本を変革しよう」
 と叫んだ松陰の心の中には、高杉晋作のように、
「おれは毛利家の忠臣だ」
 と、自分の立場を限定するような気持ちはないはずだ。もしも松陰が同じことを開かれれば、
「ぼくは日本国の家臣だ」
 といったに違いない。
 諸国を巡って多くの学者から学んだ晋作は、この辺の考えを整理しはじめた。晋作は、
・吉田先生の教えは守る。脱藩人でなければ事は為せないという教えは貴い。
・しかしおれは脱藩しない。最後まで長州藩人として生き抜く。
・それには、先生がおっしゃったように「士は必ずしも武士ではない」という教えを守り、武士が逆に士であるという自覚を持つような方向性を持つ。すなわち、政治や行政を行なう武士には「士としての教養と自覚と責任が必要だ」ということを強調しよう。
・そして、自分はあくまでも毛利家の忠臣であるという自覚を忘れない。特に現在の藩主敏親公に対しては、絶対的な忠節心を示す。
・この考えを推し進めることによって、長州藩もかなり変革できるはずだ。そうなれば、長州藩は日本の大名家の模範になる。それを目指すべきだ。
・しかし、もしもこの企てが入れられず、長州藩が逆に全国の大名から批判され、私立するようなことがあったときは、それに甘んずるべきだ。
・つまり、長州藩は、全大名群の中から独立する。
・そしてあくまでも勤王敬慕の実を尽くす。しかし、徳川幕府が勤王の実をあげない場合には、たとえ長州藩一藩でもこれを懲らしめる。

■長州藩主に忠誠を尽くす、脱藩はニセモノ

<本文から>
 「長井雅楽の航海遠略策はニセモノのごまかし策であり、それを藩論とする藩の姿勢もニセモノだ。つまり長州藩は、遅れをとつた薩摩藩や土佐藩を出し抜いて、一挙にその先頭に躍り出ようとしている。しかし先頭に出るということは、政争の先頭に立つということであって、決して国のことを思い国民の事を思っての行跡ではない。だからこの藩の動きそのものもニセモノである」
 と断じていた。だからといって晋作は短兵急に、
 「そんな藩はもう駄目だ」
 と見限るようなこともしない。血気に逸る志士だったらすぐ、こういう状況を見て、
 「脱藩する」
 と藩から飛び出てしまう。そして京都や大坂や江戸に行って、他の脱藩人と共に、
「志士活動」
 に奔走する。が、晋作はそんなことはしない。晋作にすれば、
「それもまたニセモノだ」
 と思えるからである。晋作は東北遊歴から帰って釆た後に自分が立てた方針である、
・おれは絶対に脱藩しない
・最後まで長州藩人として行動し、長州藩主に忠節を尽くす
・その上で、日本国を変革する
という路線を固く守っていた。だから、こういうニセモノの状況が力を得はじめたときに、晋作はふいと身を避ける。つまり、
「自分だけの場」
に引き籠ってしきフ。しかし晋作はそういうことを世間に対し無断で行なうわけではない。

■長井雅楽暗殺を思い立ったのはホンモノの実行

<本文から>
 高杉晋作が長井雅楽暗殺を思い立ったのは、別に江戸にいる同志に対するはったりではない。つまり、
「何年も現場から離れていた自分の存在意義を知らせるために、暗殺という過激な行動をとる」
 ということではなかった。晋作は、
「ホンモノとニセモノを見分ける」
 という一つの判断基準を持っている。長井雅楽の航海遠略策はニセモノだ。一時のたぶらかし策にすぎない。それによって、幕府が動いた。朝廷も動こうとしている。このまま放置しておけば、和宮降嫁は実現される。動機がニセモノであり、その行動プロセスもニセモノなら、結果もニセモノだ。師松陰の教えを死守するとすれば、
「そんなことをさせてはならない」
 ということになる。そうなると、
「この根や種子は一体どこにあるのか」
 と逆に辿れば、すべて航海遠略策を懸案した長井雅楽にある。そうなれば、長井雅楽の存在そのものがニセモノになる。したがって、
「ホンモノ志向のおれは、ニセモノを殺す。根を断つ」
 というところに至る。晋作は剣術には自信がある。長井暗殺を、他の同志を巻き込んで徒党で行なおうなどとは思わない。というのは、晋作の信ずる、
「ホンモノとニセモノの区分」
 は必ずしも長州藩士の世論とはなっていない。つまりコンセンサス(規範)ではない。晋作自身が思い込んでいる信条だ。したがって、その信条を貫くためには、
「長井雅楽の暗殺は、おれが一人で引き受ける」
 という結論に達して行くのだ。
■状況がきていなければ、自分でその状況をつくる

<本文から>
 状況がきていなければ、自分でその状況をつくること
・状況を作る中心に、常に自分が飛び込んでいくこと。つまり自分自身が状況を作る核になること。
・そのために、旦別に起こつている出来事に全力を集中すること。つまり力の出し惜しみをしたり、小出しにはしないこと。
・同時に、結果について考えないこと。合わせて評価も考えないこと。
・面白くない世を面白くするようにすること。
・そのために、面白い か種々を自分で作り出すこと。
 などであった。いままでの晋作は、
・おれにはやりたいことがある。
・しかし、そのやりたいことをやらせてくれるような状況が目の前に展開していない。
・状況がつくられるまで、待ちの姿勢を保とう。
 という、現実に対する、
「傍観主義」
 をとつてきた。それは師の松陰がいった、
「一年、二年の短期間でなく、十年先に目標を置いて考えたまえ」
 という教えがあったからだ。しかし、それが間違いだということを晋作は知ったのである。間違いだということを知ったのは、やはり、
「自分が不治の病に冒されている」
 という、上海での肺結核の事実を知ったことも大きく作用したはずだ。そのことによって晋作は、
「おれはやがて死ぬ。持ち時間がそれほどない」
 という認識に立った。そしてこのことを盾にするなら、
「故吉田先生も、目前の目標に全力投入することを認めてくださるだろう」
 と考えたのである。

■明治維新へのプロセス 個人から雄藩へ

<本文から>
 ここで幕末の動乱から明治維新に至る経過を、もういちど「どういう人々が実現して行ったのか」という角度に立って見ると、次のようになる。
・はじめは、いまでいう学識経験者などが、擾夷論あるいは開国論を唱えた。
・この説が一般に広まると、徳川幕府をはじめ、諸大名家(藩)も、いずれかの論に傾いた。
・幕府は完全に開国論となり、大名家でも開国論を藩論としたり、穣夷論を藩論とするようになった。
・しかし、穣夷論を鳴える人々は、藩論と異なる考えを持った時は、藩を飛び出した。いわゆる脱藩者である。
・そして脱藩者たちは、いわゆる藩と藩との墳、すなわち「藩際」を壊した。藩という枠を越えて、連合したのである。
・したがって、個人の学識経験者が唱えていたことは、今度はグループの主張に変わつた。
・しかし、このグループ活動も次第に過激化したために、各藩(組織)が次第に手を引くようになった。
・最後まで、このグループ活動の支援者だったのが長州藩である。
・そのために、やがて長州藩は京都御所にまで砲弾を打ち込むような事を行ない (禁
門の変)、朝敵となる。
・得たりや応と徳川幕府は、長州征伐の軍を起こす。これは天皇の命によるものだ。したがって長州藩は逆賊になった。
・この段階から、長州藩は孤立する。極端な言い方をすれば、日本中を敵に回す。
・しかし、高杉晋作が創設した奇兵隊などの活躍によって、一次・二次にわたる幕長戦争は、二次で完全勝利を得る。
・やがて、薩摩藩と長州藩が手を結び、土佐藩なども加えて、討幕軍が編成され、幕府は滅ぼされる。
 この政治経過を見てみると、明治維新の実現までは、
・個人の時代
・グループの時代
・組織(藩) の時代
・藩と藩の連合の時代
 というプロセスを経てきたことになる。そして、個人的志士や、このグループ化した志士群が消滅して行ったのは、発展的解消を遂げたわけではない。
「組織による殲滅策」
 が行なわれたためである。言葉を換えれば、
「思想の差による殲滅」
 が行なわれただけではない。同じ思想(穣夷とか開国)を持っていても、その個人の力が強大化し、あるいはグループの力が大きくなって、
「組織(藩)を脅かすような存在」
 にまで成長したときは、藩は藩としての力を発揮して、こういう個人やグループを滅ぼしてしまうのだ。

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