童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           新釈三国志・上

■曹操の魏に″天の時″、孫権の呉に″地の利″、劉備の蜀に″人の和”

<本文から>
「黄巾敗を討滅しよう」 と言って立ち上がったのが、三国志の三大スターである曹揉、孫堅・孫権父子、劉備をはじめ、関羽、張飛、董卓、衰紹などの英雄、好雄、名将、勇将、愚将、知将、名参謀など多士済々の人物を生むキッカケになる。しかしこれらの多彩なスター、準スター、脇役、その他大勢の中でも、ほとんどが討伐側に回ったのであって、張角側に味方した者は少なかった。やはり、当時の志ある人々は、「漠王朝の正常化」が主目的であって、「それによって名を上げ、身を立てたい」という気持ちを持っていた。張角が唱えたのは、究極的には、「救国済民」という、流民や貧窮民の救済にあり、そのことが国を救うことにつながるとみたが、やはり漢王朝を滅ぼすという一点では、三国志を彩る英傑たちは賛同しかねたのである。
 三国志は、張角が自ら天公将軍と唱え、弟二人に地公将軍、人公将軍という号を与えたように、「天・地・人」の三要素の展開である。すなわち天の時、地の利、人の和の争いだ。普通は、三国に分かれた後、曹操の魏に″天の時″、孫権の呉に″地の利″、そして劉備の蜀に″人の和”を比定する。三国志というの、組織と人に関するあらゆる問題を包含しているので、史記と共に、日本人にも多くの影響を与えているが、しかし三国時代というのはたかだか六十年にすぎない。そして、真っ先に滅びたのが劉備の蜀である。次に滅びたのが曹操の魏だ。そして孫権の呉もやがては滅びてしまう。が、天の時、地の利、人の和というモノサシを当てはめて考えれば、滅びた順は次のようになる。
 一、人の和の蜀
 二、天の時の魏
 三、地の利の呉
 これは何を物語るだろうか。人の世の出来事がすべてこの通りだとは言わない。しかし、普通は、「人が決め手だ」「人によって運も状況もどうにでもなる」といわれる。しかしそれがそうでなかったことを物語る。すなわち、決め手である人の和が真っ先に滅びた。そして天の時すなわち運も次に滅びた。最後まで生き残ったのは地の利、すなわち状況や条件である。そうなると、今のような世紀末社会を生き抜いていく時に、人間が一番考えなければいけないのは何か、ということを三国志はいたってクールに教えてくれる。同時に、三国志で活躍した人々の多くが、「漠王朝の正常化」に志を抱いており、張角が主張した、「救国済民」に、あまり共鳴し同調しなかったという事実は、やはり「権力」や「財力」に対し、人間の欲望や本能のおもむく先が、この二つをはっきり目標としていたことを物語っている。

■桃園の誓い

<本文から>
 馬盗人の用心棒と酒や肉を商うかたわら、他にも怪しげな商売をしている張飛、そして塩の密売で国を追われたこれまた怪しげな関羽の三人がここで出会ったことになる。出会った三人は大いに意気投合し、
「明日、三人で兄弟の誓いを立てよう」
 ということになった。場所は張飛の店の真にある桃園がえらばれた。
 翌日、張飛の庭の桃園に集まった三人は、黒牛や白い馬など供え物を用意し、三人は香を焚いて再拝した。そして誓いの言葉を述べた。
「われわれ劉備、関羽、張飛の三人は、姓を異にしているけれど、すでに義兄弟の契りを結んだ。この上は心を一つにしカを合わせて、困難な状況にある者を救い、危険な状態にある者を助け、上は国家に報い下は民衆を安らかにしようと思う。同じ年の同じ月日に生まれなかったことはしかたがないが、死ぬ時は必ず同じ年の同じ月の同じ日にしようと願う。皇天后土の神々もどうかわれわれのこの心を御覧いただきたい。そしてわれわれが義に背き恩を忘れることがあったら必ず天罰を下していただきたい」
 そして劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を弟と定めた。

■”人の和”しかない玄徳はもろい

<本文から>
 曹操や孫堅はそれなりの遇し方をされていたが、劉備だけは一介の無頼上がりのうろんな存在として、後漠王朝は全く目もくれなかったのである。わずかに上役として仕えた幽州校尉の郷靖の好意によって、地方の警察署長といういたって身分の低いポストにありついただけであった。このことは、言ってみれば、人間の運命には、「天の時・地の利・人の和」 という三条件が、常に付いて回るということを示す。日本の政治家にいわれる「地盤・看板・カバン」の三条件にも通ずるといえる。
 曹操は、漠王朝の大宮宮の子供であり、孫堅も地方豪族の息子だつた。それなりに地盤と看板とカバン(金)があった。劉備にあったのは漠王の子孫という看板だけである。しかしこの看板も三百年もたてばはげてポロポロになつている。人はあまり信用しない。そうなると看板も怪しくなる。まして地盤やカバンは全くない。二人の商人の世話によって、いくらかカバンが重くなっただけだ。言ってみれば劉備は徒手空拳でスタートしたのである。そしてこの地盤とカバンの軽さは、生涯劉備に付いて回る。劉備は最後まで、この二条件の欠落を補強することはできなかった。そのために、名参謀といわれた諸葛孔明が劉備のために命を削るような苦労をしなければならなかったのである。諸葛孔明も、劉備のいわゆる″三顧の礼″によって人生意気に感じ、「この人のために、命を捨てて尽くそう」と感じて臣従した人物だ。三顧の礼というのは、一回目、二回目と劉備が訪ねて来た時に、諸葛孔明は不在だったせいもあるが、劉備の、「私を補佐してほしい」という希望に従わなかった。
三回目にようやく劉備の人柄に魅せられ、「力を尽くしましょう」と誓ったのである。これもいわば、「人の和」だ。劉備の持っている風度に魅せられて、諸葛孔明ほどの頭脳の鋭い人物も、「この人物なら主人にしても悔いはない」と思ったのだ。劉備の魅力にひかれて臣従したのであって、劉備の持つ実力すなわち、地盤・看板・カバンに魅せられたわけではない。そんなものは劉備にはない。しかし人の和は脆い。というのは、諸葛孔明も五丈原(快西省宝鶏市の東南)で戦死してしまうし、その時はまだ劉備の蜀の国は不安定だった。やがて諸葛孔明が死んだ後に蜀の囲も滅びてしまう。それは、やはり″人の和″だけでは、世の中は渡れないということを示す。地盤と財力がなければだめだ。その二つがあってはじめて、劉備が言う、「自分は漠王の子孫だ」 という看板が生きてくる。

■曹操、孫権、劉備は漢王朝への忠誠心が壁となった

<本文から>
曹操の魂、孫権の呉、劉備の蜀などの三国の成立とその滅亡が意外に早く、三国志全体がわずか六十年間の出来事である事実は、考えようによっては英雄豪傑たちの心の底に横たわっているものが、「漠王朝に対する忠誠心」
「皇帝を神聖不可侵視する意識」
「神器に対する絶対的な信頼」などの気持ちが錯綜していたからだ。これは彼ら三人がたとえ天の時、地の利、人の和を持っていたとしても、ついにそれだけでは超えられない大きな力を持つものであった。そしてこの大きな力の前には、三人とも屈服し、それを超えようとするいわば反逆心のような気持ちを持ち得なかったところに、それぞれの国の滅亡が彼方の道に控えていたと言つていい。
 したがって三国志の英傑たちの物語は、この漠王朝に対する忠誠心と、時にそれを見放し、そしてまた側隠の情にかられての回帰の繰り返しである。漢王朝に絶対的な忠誠心を持つあいだに疑問が生じ、「王朝を離れて自分も独立しよう」
「自分が漠皇帝に代わって皇帝になろう」
という気持ちを持ってはみたものの、それがすぐ萎え、
「やはり漢王朝を再興しなければいけないのではないか」
という、自分のやっていることへの自信のなさがよみがえる。こうした繰り返しが、どこか三国志の英雄豪傑たちの行動を曖昧にし、足踏みさせ、不得要領な結果を招く大きな要因だったのではなかろうか。日本における三人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のような明快な京都朝廷観はない。
 つまり三国志に現れる英雄豪傑たちは、互いに争ってはいても、その底にあるのは究極的には、「漢王朝への忠誠心」である。これが彼らの戦いについて、どちら側につこうと、「自分の方が義がある。理がある」という大義名分論を成り立たせたゆえんだ。三国志に現れた英雄豪傑たちの物語は、「漠王朝に対する忠臣の群」の物語である。ここには、不忠の臣はそれほどいない。ということはとりもなおさず儒学で求められる、「あるべき臣下の姿」すなわち、
「忠臣」
の物語に終始している。
 前漢と後漠を通じて、二大勢力であった(筐官と外戚が相争ったが、しかし彼らにしても漠王朝そのものを滅亡させるようなことはしていない。逆に、「漢王朝を自分側の勢力で存続させるための争い」を続けていたのだ。だから漢皇帝の権威とその証である伝国の神璽の存在は、絶対不可侵のものであった。

■黄巾軍残党は曹操に降伏したのは信教の自由を保障されたから

<本文から>
黄巾軍残党は、なぜ曹操に降伏したのか。その理由はたった一つしかない。いうまでもなく、
「信教の自由を確保する」
ということである。信教の自由を確保するということは、とりもなおさず、
「太平道を信じ続けてよい」
ということだ。つまり曹操は、黄巾軍がこの後も太平道をそのまま信ずることを認めることによって、黄巾敗残党と手を結んだのである。だからこそ黄巾敗残党が百万という大兵を擁しながらも、降伏したのだ。その保証がなければ、この時の戦いはどちらが勝ったかは定かではない。黄巾敗がはじめ曹繰に降伏勧告書をよこしたように、彼らは自信たっぷりだった。おそらく充州は完全に自分たちのものにできると信じていただろう。曹操もそれを知っていた。

■人を見る眼力と、器量の大きさは、劉備を超えていた曹操

<本文から>
「人情を解さない人間だった」ということはできない。むしろ劉備が持っていた″義による人間関係″を、曹操は曹操なりに実行していたのだ。ただ劉備の組織に比べると曹操の組織の方が規模が大きく、人が多いから、形を整えなければならなかったということは言える。
 さてこのようにいわゆる″野にいた遺賢″の群れを選りすぐつて、自分の手元に集めた曹操のやり方は、まさしく、
「人の和を実現する」
ということであって、その人を見る眼力と、器量の大きさは、当時の劉備を超えていた。
つまり、曹操は ″天の時の人″といわれるが、必ずしもそうではなく彼自身″人の和の人″にもなろうと努力を続けていたのである。
 したがって、曹操は天の時の人、孫堅(孫権) は地の利の人、劉備は人の和の人と簡単には割り切れない。三人三枝に、それぞれ天の時・地の利・人の和の三条件を得、保とうと努力していたのである。またそうでなければ、三国をつくり出すこともできなければ、ある期間守り抜くこともできなかった。やはり、天・地・人の三条件は、その一つだけでは事はならなかったのである。

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