童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           新釈三国志・下

■諸葛亮が劉備に語った「天下三分の計」

<本文から>
 諸葛亮が劉備に語った「天下三分の計」というのは、次のような考え方である。
・まずこの国の北方は現在曹操が固め、すでに百万の軍勢を擁しております。しかも彼は、皇帝を詐都に迎え、その後見人として威を張っております。彼の出す命令は、たとえ曹操個人の考えであっても皇帝の名が使われる以上、これに背いた者は逆賊として扱われます。廿拙はまさに″天の時″を得ていると言っていいでしょう。したがって、これと対等に戦うことは容易ではありません。当面は曹株の支配している国々は、彼の思うに任せる方がよいでしょう。
・一方、江南地域は、孫権が父孫堅、兄孫策以来すでに三代を経ており、相当地盤が固まっております。劉将軍(劉備のこと)としては、孫権こそ味方にすべき存在であって、決して敵にまわしてはなりません。孫権はすなわち″地の利”を得ていると申せましょう。したがって、孫権が支配している地域に対しても手を出すべきではありません。
・そこで劉将軍の行動ですが、劉将軍には″人の和”という武器があります。これを大いに活用なさってください。
・具体的には、まずこの刑州を支配することです。この地域は東西南北に通ずる天下の要衝です。当然、そのことをよくわきまえて大いに活用すべきであるのにもかかわらず、現在の刺史劉表は、能力不足であり同時に決断力が足りないので、とうていその任ではありません。まさに刑州は、天が劉将軍に与えた土地だと申せましょう。まず、劉将軍はこの天の与えた土地をお受け取りになる気があるのかないのか、その辺りをはっきりさせる必要があります。
・もし刑州をご自分のものになさる意志がおありならば、次は溢州(四川・貴州・雲南省)をお取りになるべきです。益州は地勢が非常に険しい天険の要塞であると同時に、穀物も非常に豊かで、まさに″天の蔵″というべき土地であります。前漢の高祖は、ここで皇帝になりました。ところが、溢州の支配者劉璋はこれまた暗愚な人物で、人々は、
「だれか他に優れた支配者はいないか」
と、英雄を待望しております。そして人々の言うのは、
「劉将軍こそ、その人物ではないのか」
ということであります。この益州もまた天は、劉将軍の支配地たるべきだという意志を示しております。劉将軍はこの益州をお取りになるお気持ちがおありですか?
 このように、諸葛亮は中国全土を三ブロックに分けて、曹操と孫権の部分については、現状をそのまま容認しよう、しかし劉備については、新しく刑州と益州を支配して、もう一つのゾーンをつくるべきだと主張するのである。しかし諸葛亮が、そうは言いながらも劉備に、
「劉将軍には、刑州と溢州をお取りになるお気持ちがおありになりますか?」
 と念を押したのは、実を言えば劉備の方にためらいがあったからである。というのは、
・刑州の刺史劉表も、溢州の柑(州の良官)劉璋も、共に「劉」という姓で分かるように、漢皇帝の一族であり、その意味では劉備にも関わりがないわけではない。劉備もまた漢皇帝の一族だからである。
・そうなると、刑州や益川を取ることは、そのまま″国取り″ につながることであり、
 「劉備は、一族の国を盗んだ」と言われかねない。
・その意味で諸葛亮の ″天下三分の計″ は非常に卓見ではあるけれど、いざ行動に移すとなると劉備には大きなためらいが出る。
 ということであった。この時、劉備すでに四十七歳、諸葛亮は二十七歳であったが、二十歳も違う若者の立てた策は、さすがに劉備をうならせた。そして、
(これでようやく、長年求めてきた ″知謀の人″すなわち、俺の頭脳が得られた)
 と喜んだ。

■赤壁の戦いで勝った若い周瑜を老臣が支えた

<本文から>
 総指抑をとった周瑜はこの時三十四歳だった。ということは、呉のトップ三代に仕えてきた老臣たちが、若い周瑜の指揮に従ったということになる。周瑜は孫堅の子、孫策の時代にメキメキ頭角を現した人物だ。孫策とは義兄弟の誓いを結んでいた。もらろん周瑜が弟である。
 徳川時代になぞらえれば、孫竪は家康と言っていい。孫策は秀忠、孫権は家光ということになろうか (兄弟と親子という違いはあるが)。
 しかし、偉大な初代の孫堅に仕えた老臣たちは、二代目の孫策、三代日の孫権に仕えることになんら抵抗を覚えなかった。
(中略)
 周瑜は言ってみれば、呉における新しい世代である。知性派でもあった。理論的にものごとを詰めていく。だから、あまり情にはかられない。そのため、転がり込んできた劉備や諸葛亮など信用しない。胸の底にある冷たい理知の目が、じっと劉備や諸葛亮に対して警戒の念を持たせている。クールだった。

■諸葛亮は水、劉備たちは魚

<本文から>
 劉備自身は、
「どうも俺はトップとしての座りが悪い。なぜかと言えば、俺には頭がないからだ」
と悟り、三顧の礼を尽くして諸葛亮を参謀にした。参謀というよりも生き方全般の師としたのである。諸葛亮は二十七歳だった。そんな若者に頭を下げたのである。これもまた、呉の場合と同じく、
「行動派が知性派に屈服した」
 と言っていいだろう。知性に対する礼を尽くして、その教えを受けようという態度を生んだのである。初めのうちはブツプツ文句を討っていた張飛や関羽も、劉備のこの姿勢に従った。つまり、劉備の言う、
「俺たちは魚だ。諸葛亮は水だ。水がなければ魚は生きられない。諸葛亮という水は俺たち魚を生き生きと泳がせてくれる」
三匹の魚にたとえられて、張飛も関羽も納得したのである。

■孫権組織は納得ずくの信頼関係

<本文から>
 その意味では、曹操の家臣団の強制された「忠誠心」とはやや質の異なった忠誠心を、孫権の参謀や部下たちは持っていたと言っていい。ある意味では孫権の参謀や補佐役たちは自主性や自立性を持っていた。それを存分に活用しながら孫権を支えていたのである。
 したがって孫権は、「親に似ぬ不肖の子」あるいは「凡将」といわれた武田勝頼に比べると、賢明な三代目であり、また能力のあるトップでもあった。つまり武川信玄と何じように、二十四将の上に君臨していたのである。現実の勝頼はそこまでの器量がなく、結局は家を減ぼしてしまったが、孫権はそんなことはしなかった。
「父以来の補佐役たちを重用し、その意見をよく聞いて行動を決めよう」
 と考えていた。したがって、曹操が何が何でも自分に対する忠誠心を強要したのとは違って、孫権の場合には参謀や補佐役との間に一種の納得ずくの信頼関係が築かれていた。

■はみ出し者が集まった劉備組織の不安定さ

<本文から>
 曹操や孫権に対して、劉備の場合はまた異なる。彼には関羽と張飛という義兄弟がいたが、彼らは戦争上手ではあっても頭の方は必ずしも十分ではない。そのために放浪の果てに劉備は、
「頭脳がほしい」
という考えを持ち、三顧の礼を将くして諸葛亮を得た。その諸葛亮が、自分の伏竜と
いうあだ名と並んで、鳳雛の名をほしいままにしていた?統を推薦した。
 しかしもとを正せば諸葛亮も?統も主人持ちをした経験はなく、曹操の部下たちが、
「安定した組織人感覚」
を持っていたのに対し、劉備の部下たちには、
「非組織人感覚」
とでも申えるものがあった。孫権の部下たちもある程度、
「組織人感覚」
は持っている。つまり披を支える参謀や補佐役たちにしても、
「連帯して孫家を守らなければならない」
という結束心はあった。しかし曹接組織あるいは孫権組織に比べると、劉備組織は非常に不安定だ。いつまでたっても安定感が得られない。それは劉備の、
「義を重んずる仁侠心」
が不安定なだけではない。確かに仁侠心というのは感情によって支配されるから、理によって作り出されるもののような安定感はない。常にフワフワしていつ崩れるか分からない。しかし、そのあやふやな道を劉備は歩き続け、まがりなりにも彼の人間性によってその不安定さを何とかバランスを保ってきた。
 しかしこの不安定性は、劉備だけの性格によるわけではなかった。彼を支えた諸葛亮や?統などの参謀の人間性にもよる。また地域性もある。地域性というのは、劉備が活用する参謀的人間は次第に西の方の人物が多くなったことである。
″西方的人間性″と言っていいのかどうか分からないが、劉備の周りに集まって来た人間は、もともと一筋縄でいくような素直な人間は少ない。どこか、はみだし者であり、ひねくれ者であり、世の中を斜めに見ている者が多い。こうした性格は組織にはには向かない。にもかかわらず、こうした人間が寄り集まって一つの組織を作っているのだから、当然その不安定さは消し去ることができない。
(中略)
しかし諸葛亮を代表者として、このはみ出し者の群れが共通して胸の底に抱いていたのは、やはり、
「王道政治の実現」
 である。王道政治というのは、
「民に徳の政治を施す」
 ということだ。彼らが劉備をそそのかして、
「漢王朝の再興」
を焚きつけるのも、言葉を換えれば、
「漢王朝の徳政の再興」
 である。

■劉備軍団は個人芸の弱さ、チームワークが必要であった

<本文から>
  諸葛亮は、この脆弱性をつくづくと感ずる。つまり、古い組織には古いなりの論理があり、慣習がある。その論理や慣習が一つの土台を構築している。劉備の場合は違う。言ってみれば、
「非組織者が集まって、組織を作っている」
と思えるのだ。危うく見えて仕方がない。つまり関羽にしろ張飛にしろ趙雲にしろ、
劉備という一人のトップリーダーの人間性に魅せられてその下に集まっただけであって、劉備軍団という組織に魅せられたわけではない。というよりも劉備軍団などという組織はまだない。諸葛亮が焦るのは、
「個人の徳や魅力だけで大規模な軍団を率いることはできない。人間の能力には限界がある。やはりそれぞれの組織人がトップから権限を委譲されて、それぞれの持ち場を守り、部下を指導していかなければ、組織としての強さは望めない」
と考えていた。諸葛亮が求めたのは、今でいう、
「官僚制」
である。普通の軍団であれば、直面した戦争の規模によって、勢力の使い方を区分けすることができる。大きな敵に村しては総力で当たる。小さな勢力に村してはこちらもそれなりの村応をする。ところが劉備軍団の場合はいつも劉備が先頭になって捨て身で突入して行く。そうせざるを得ない宿命と性格を劉備軍団が負っているからだ。これが地盤のない組織の悲しさである。諸葛亮は、劉備軍団に今まで知性がなかったことは確かだが、それ以上に、
「根のない悲しさ」
を感じていた。そして、
「自分に与えられた役割は、劉備軍団をはっきり組織化し、軍団の成員を組織員としての自覚に目覚めさせることだ」
と考えていた。一言で言えば、諸葛亮が今、劉備軍団に作ろうとしているのは「チームワーク」である。言葉を換えれば、
「仕事をするのは個人ではない。組織なのだ」
ということを徹底しょうということだった。どんなに異能異才が集まって、それが個人芸でバラバラに動いていれば、結局はその個人が倒れた時に軍団自身が危機に陥る。それが劉備軍団の最大の弱点だ。

■劉備には風土あった

<本文から>
 「自己の能力の完余燃枕」
 を望んでいたのである。今の言葉を使えば、パフォーマンス志向を充足させてくれる対象を求めていたのだ。こうした面は見落とせない。劉璋の下で仕事をしていた連中にも、こうした自己燃焼の願望があった。だが、劉璋はなかなかそれをかなえてくれなかった。
 その意味では、高齢の身で最後まで劉備軍に抵抗し、抵抗した後も、
「早く殺せ」
 と武張った季厳についてもそう言える。李厳は碓かに劉璋に村する忠誠心を持ち続けた老将ではあったが、こうして劉備政権に参加しているところを見ると、彼の胸の底にも、
(劉璋殿は、必ずしも俺の忠誠心を完全に評価し、また用いてはくれていない)
 という不満がなかったとは言えない。そうした劉璋の旧重臣たちの心理を、劉備は朽みに利用した。もちろん、諸葛亮の入れ知恵があった。
 しかし人間は、そんな見え見えの人使いだけでコロリと参るものではない。劉備には、
「この人のためなら」
 と思わせる″なら″ の魅力があった。不思議なカリスマ性であり、人望であり、人なつこさである。これを小向では「風度」と肖っているようだ。劉備は欠点の多い将軍ではあったが、この風度が大きかった。

■「劉備政権の意思決定の複数制」

<本文から>
 が、遺憾なく機能したということだ。諸葛亮は、自分が劉愉から三顧の礼を尽くされてプレーンになつたということを鼻にかけず、
 「自分の能力の限界」
あるいは、
 「自分の得意な分野」
をはっきりと認識し、
「自分の能力は軍事よりもむしろ内政の充実にある。法を整え、民に温かい政治を施すことが自分の持ち味なのだ」
 というクールな自己認識の勝利だつたとも言える。
複層制になり、何段階かになっていた劉備政権の意思決定の仕組み、言葉を換えれば、
「諸葛亮以下ブレーンたちの集団指導、あるいは合議制」
が機能していたということだ。しかしその集団指導や合議制も、必ずしもブレーンたちが一堂に集まって、徹域した論議をするのではなく、
「劉備からあることを託されたプレーンが、その問題について自信がないと分かれば、それば得意な人の意見を聞いて、それを一度咀嚼し、自分の考えにしてから劉備に定言する」
 という形式をとった。

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