童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          真説 赤穂銘々伝

■「お家再興」から仇討ちへ、宣伝上手にことを運ぶ

<本文から>
 元禄十四年三月十四日に、ちょうど京都から派遣された勅使の接待役を命ぜられていた主人の浅野内匠頭長矩は、江戸城内で吉良上野介に斬りつけるという刃傷事件を撃」した。そのため、浅野は即日切腹、お家断絶、藩士はすべて失業ということになった。
 報告は何度かの急使によってもたらされたが、最初は、「肝心の吉良上野介が生きているのか死んでいるのか」ということがわからなかった。大石は何度も城内で会議を開いたが、
 一 吉良上野介の生死を確かめること
 二 浅野家の再興を願い出ること
 三 その際、もし吉良が生きていたら、それなりの処置を願い出ること
 などという方針を決めた。その方法として、
 一 有志が龍城討ち死に
 二 有志が大手門前で切腹嘆願
 三 有志が吉良上野介に報復
 などを考えた。いきなり仇討ちを考えたわけではない。かれの本心はあくまでも、「お家を再興することによって、失業藩士を救済する」ということである。そして新藩主には浅野長矩の弟大学長広を考えていた。最初に龍城討ち死にという過激な方法を考えたのは、前に書いたように赤穂城は浅野家の自己資金によって建てた城なので、ふつうの大名家の家臣とは違って浅野家の家臣たちは、「赤穂城は浅野家のものだ」という意識が強かったからだ。
 家が潰れた以上は、当然、城は幕府から使いが受け取りにくる。その収城使と一戦交えようという心構えである。しかしそれはあまりにも過激だということになって、それでは大手門前で切腹嘆願しようということになった。切腹嘆願というのは志のある者が全藩士を代表して幕府の収城使に、「ぜひお家の再興を取り次いでいただきたい」ということを願おうということである。しかし龍城討ち死にも切腹嘆願も、「幕府に対し、今度のご処置に対する異議申し立てになる」という意見が起こった。
 そこで大石も、「それでは、吉良上野介殿の首を頂戴して、主人の恨みを晴らそう」ということになったのである。この間にいたる大石の手の打ち方はじつに周到で、また宣伝上手だ。大石は仇討ちにいたるまでの過程をすべて公開し、そのたびに、「今度こういう手を打った」と公表した。結果が出ると、「打った手にはこういう結果が出た」と結果も明らかにした。いまでいう「情報公開」を積極的におこなった。これはかれが、「仇討ちをするにしても、世論の支持がなければだめだ」と考えていたからである。
 わずか四十七人の浪人が、心を結び合って行動するにしても、それだけではなにもできない。というのは、当時の武士に対する掟では、武装して夜中に町中を歩いたり、ましてや徒党を組んで歩きまわるようなことは絶対に禁止されていたからである。
 大石はしかし心の中で、(世論さえ支持してくれれば、そういう綻破りも許される)と思っていた。事実そのとおりになる。江戸の町では、辻ごとに木戸というのがあって、木戸番がいる。夜になるとこの木戸が引き出され、道路の通行は禁止される。江戸中檻のようになる。にもかかわらず、討ち入り当夜は誰も咎めなかった。というのは、四十七人もの武士が武装して集団行動をしているにもかかわらず、各辻が無事通過できたということだ。これは当然、治安を担当する最高権力が暗に浪士たちの行動を黙認していたことを物語る。したがって、「大石たちの討ち入りは、幕府最高権力者のヤラセだ」と、そのときの将軍徳川綱吉や、あるいは側近だった実力者柳沢吉保の意図があったのでほないかといわれるゆえんである。
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■「上薄下厚」の退職金、有志の結束をはかる

<本文から>
 しかし、世論をかき立てるにしても、世論を立てる一般民衆の支持を得なければならない。そのために、大石は赤穂城開城の準備をすると同時に、藩札の処理と、失業藩士の再就職のための退職金の支払いなどに狂奔した。藩札というのは、現在の地方自治体が発行する公債のことである。公債である以上当然、その額に見合う正貨を準備しなければならない。公債の持ち主が、「正貨に換えて欲しい」といってくれば、当然正貨を用意する必要がある。藩札も同じだった。したがって本来藩札の正貨との交換率は百パーセントのはずだ。
 しかし、どこの藩もそんなゆとりはない。藩札の発行額が、手持ちの正貨の額をほるかに越えているのはどこも同じだった。赤穂藩浅野家も同じだった。しかし大石はこれを財政担当者の意見をきかずに、「六十パーセントの交換率」を設定した。そして、資金不足は安芸(広島県)の浅野家本家や、浅野内匠頭の妻阿久里の実家である浅野分家にも借金を申し込んだ。が断わられた。大石は断わられてもよかった。その事実を発表した。「こういうふうに借金を申し込みましたが、断わられました」と公表したのである。
 そして大石自身は、自分の手持ちの藩札を全部破棄した。これは浅野長矩の妻阿久里も破棄した。こういう行為が地元の商人たちを感動させた。とくに製塩業者たちは、普段から藩の世話になっていたのですすんで、「われわれのお預かりしている藩札は、交換の必要ほありません」といって藩札を返した。それだけでなく、「いろいろとお入り用が多うございましょう」といって、事後処理の資金まで貸してくれた。大石の誠実な行動がかれらの胸を打ったのである。これもひとつの世論だ。
 そして藩士たちに退職金を分担するときは、大石は、「上薄下厚」を主張して押しとおした。上薄下厚というのは、「上層部の支給率を低く抑え、下級武士の支給率を高くする」ということだ。かれの論は、「上級武士はそれなりに多少は蓄財があるはずだ。が、下級武士はそんなものはぜんぜんない。普段から内職に追われてきた。いざ失業したら、家族に対する責任も果たせない。であれば、下級武士にこそ退職金は多く支給すべきだ」という主張だった。これをそのまま押しとおした。「その代わり、わたしは一文も退職金は受け取らない」といった。
 上級武士は、(なんと嫌味なやつだろう)と思ったにちがいない。とくに大野九郎兵衛などは、藩札の高率交換にも、退職金の「上薄下厚支給」にも反対したから、ついに夜逃げをするような醜態をさらす。
 大石の決意は、「主人の仇を討つ」という一点に凝縮されていった。しかしそうなると今度は、「有志の結束」が次の問題になる。そのためにかれは、一年半近い年月をおいた。「時間が経過することによって、ほんものかにせものかはっきりする」というみさだめである。事実そのとおりになった。はじめのうちは、がんがん主人の仇討ちを主張していた老の中からも、次々と脱落者が出た。それぞれ、「身内に知られた」とか、「新しい就職口が決まった」などと申し立てたが、結果としては最初に立てた志が折れてしまったことは間違いない。
 大石はその間道楽もした。この道楽について、「吉良家側を偽るため」とか、「いや、あの道楽はほんものだ。大石自身、長年そういうことを願ってきたのではないのか」などという説がとびかっている。真偽はわからない。というのは、吉良方を油断させるためだとすれば、いかにもみえすいた手であってそんなことを信用する者は誰もいない。やはり、かれは本気で遊んでいたのではなかろうか。ここで問題になるのはその金の出所だ。
 「開城後清算した公金の残額をかれは保管していたから、その中から支出したのではないか」といういわゆる公金横領説″を信ずる者もいた。「いや、そんなことはない。仇討ち終了後、かれは寺坂吉右衛門に預り金精算書を持たせて、仇討ち本懐の報告と同時に支出状況も併せて、故浅野内匠頭の未亡人堵泉院に報告させているから、そんな事実はない。道楽の金は、自分の金を使ったのだ」という擁護説もある。かれの家は近江地方では名門の流れだったといい、祖先は俵藤太だともいう。
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■吉田忠左衛門は終始一貫して大石を支持した

<本文から>
 主人浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたときは、郡代(郡奉行)を務めていた。任地の加東郡穂積は、赤穂城から約二十里ぐらい隔たったところにあったという。「そこの道を早駕寵が通っていきました」と部下から報告を受けるとすぐ赤穂城にいった。赤穂城開城は四月十九日と決定されたので、吉田は自ら、「城のほころびたところを修理しましょう。破れたままではみっともない」といって、修築奉行を買って出た。きめ細かに整備した。そのため、収城便は、「見事な引き渡しだ」と感嘆した。
 大石に対する藩士のいろいろな批判や、とくに大石が道楽をつづけていたときも吉田忠左衛門は終始一貫して、「ご家老に間違いはない」と支持しつづけた。
 とくに、江戸の急進派と目される堀部安兵衛・奥田孫太夫(当時ほ兵左衛門)・高田郡兵衛の三人たちが、最右翼の強行派でしばしば物議を醸した。極端なときは、「優柔不断なご家老(大石内蔵助のこと)など除外して、われわれだけで吉良邸に討ち入ろう」といい募ったこともある。それは、吉良上野介が役職を辞退し隠居した後、「実子が藩主に就任している米沢藩上杉家に引き取られる動きがある」といわれたからだ。また、「上野介は老齢なので、いつ死ぬかわからない」という不安もあった。そんなときに大石内蔵助の代理として江戸に急行し、過激派連中を説得して、「とにかくご家老を中心にわれわれが心をひとつに結ばなければだめだ」と説得しつづけたのが吉田忠左衛門である。が、一時期は急進派にとりこまれていた。
 討ち入りがすんで大石と同じ細川越中守綱利の屋敷に預けられたときに、吉田は、「自分の手柄は、江戸急進派を説得したことが第一、第二の手柄は討ち入り後、ことの次第を大目付の仙石さまに自訴したことだ」と語っている。
 これは大石の周到な手続きの一環であって、吉良の首を取ったのちに勝手に解散してしまえば、これは幕府に対する異議申し立てを過激行動によっておこなったということになる。大石は、それではいままで積み重ねてきた苦労が全部水の泡になるとして、吉田忠左衛門に冨森助右衛門を添えて、大目付役宅に自訴させたのである。大石内蔵助はあくまでも手続きを重んずる。そのへんは吉田忠左衛門もよく知っていたし、そういう大石を敬愛していた。
 大石の同志に対するリーダーシップは、吉田忠左衛門が脇にいたからこそ発揮できたといっていい。吉田忠左衛門は、赤穂の生まれではない。常陸国笠間で生まれた。浅野家の家臣になったのはそのころのことで、長直・長友・長矩の三代に仕えている。藩では、足軽頭、郡奉行(加東郡代)などを務めた。石高は二百石で、役料として別に五十石貰っていた。仇討ち当時は六十一歳である。
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■堀部安兵衛は理論的であり武術の達人

<本文から>
 大石内蔵助はずいぶん長い間、「お家再興・吉良上野介の公平な処分」窒張していた。お家再興は、浅野内匠頭の弟大学を主人とし、浅野家を興すということだが、しかし大石はその条件として、「だからといって、単に大学さま主人とする家を新しく興せばいいということではありせん。そのときにも、吉良上野介殿に対し公平な処分がおこなわれなければ、たとえ再就職するにしてもわれわれ赤穂浪人の名がすたります」といっている。
 堀部安兵衛はこの大石の論に対し、「それほおかしい」と反論した。おかしいというのは、「あなた(大石)が新藩主となさる浅野大学さまが家を興せば、それはいままでの内匠頭さまの赤穂家とはなんの関係もなくなります。そして、そのなんの関係もない新浅野家に再就職したわれわれが、吉良殿の処分がおこなわれればそれでいいというのであれは、その段階で主人の恨みは消えてしまいます。同時に、新しい家を興してもらいながらそこ再就職した家臣が、もしも吉良家に討ち入ることがあれは、これはあきらかに幕府への反乱になります。筋が通りません」といった。
 大石はこれをきいて、「なるほど、堀部のいうとおりだ」と、自分の立論の欠陥を悟った。以後大石ほ、真剣に、「主人の恨みは自分の恨みとし、吉良の首を取ろう」と仇討ちに急傾斜していく。大石にすれば、はじめから主人の仇を討ちたいという気持ちはあったが、理論的に成立しないのでためらいがあったのだ。だからかれは、「世論の支持を得よう」ということで、自分の行動をすべてガラス張りにし、手を打つたびにその結果を公表し、PRをおこなってきたのである。が、肝心な、「赤穂浪人の仇討ちは正当である」という理屈立てがみつからない。それを堀部安兵衛は、明解にタマネギの皮を一枚一枚むくようにあきらかにした。その意味では、堀部安兵衛の忠臣蔵事件に対する貢献度は、「仇討ちの正当化」を示す理論を生んだというところにあったといえる。
 これだけでも、巷間に伝えられてきた呑んべえ安″のイメージは完全に粉砕される。堀部安兵衛ほはるかに、「理論的であり、同時に武術の達人」でもあった。
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