童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
           新撰組の女たち

■長州と違って、新撰組は京女に相手にされなかった

<本文から>
  壬生浪士隊が「しんせんぐみ」となるようになったのは、八・一八の政変の後のようだ。
 当日の御所警備の功を評価して、ある公家が命名したともいうし、すでに若君たちが非公式になのっていたものを公認したともいう。いずれにしても、会津藩が好意的に売り出そうとしていたことはたしかだ。文久三年(六六三)八月十八日付で、京都町奉行も、
「松平肥後守(会津藩主)お預り浪士、市中昼夜とも見廻り候様、肥後守殿より仰せつけられ候条、心得のため相達しおき候様仰せわたされ候こと」
と触れている。屈折した幕府官僚のイヤらしい感情が、文章のはじめから終わりまでにじみ出ている。
「会津藩主が、自分が勝手に傭った浪士たちに、市中見廻りを命じたので、そのことを皆にいっておくようにといわれたから、いっておく」
という意味だ。二重三重の間接表現で、この触れでみるかぎり、新撰組は幕府公認ではない。京都町奉行所は、当時、全く治安力を失っていたから、新撰組に嫉妬して、よけい斜めになったのだ。
が、このみかたは京の人間も町奉行所と同じだった。若者たちがいかに、
「おれたちは新撰組」
と強調しても、京の人間は、へえ、そうどすか、と応じるだけで、かれらは最後まで、壬生のご浪人はん、ちぢめて、”みぷろ”と呼んでいた。”しんせんぐみ”とはいわなかった。ヤサカジンジャといわずギオソさんというのと同じである。初心・原点主義なのである。はじめにきめられたことを固く守り、容易に改変には応じない。そんな京の人に、
「依怙地だよ」
と若者ちは痛憤するが、そら、えろうすんまへんなあと、うすく笑われるだけである。
 形のうえでは、まだかなりあいまいな扱いだったが、若者たちがとぴあがるほど嬉しいことがあった。月々の手当がきまったのである。局長五十両、副長四十両、副長助勤三十両、ヒラ隊士十両が支給されることになった。御所内で立小便をした若者たちに、破格の額だ。若者たちを、幕府がこんごどう使おうとしているかはあきらかであった。若君たちは完全な傭兵隊であった。だから身分をあいまいにしておいて、何かあった時にはいつでも放り出せる状態にしておいたのだ。
 が、そんなことに頓着なく、若君たちは最初の給料日、歓声をあげながら、金を抱えて祇園や島原に走った。これで憧れの美妓に接触できると思った。だから、
 「おい、金を持ってきたぞ」
と無邪気な声とともに一刀であろうと角屋であろうと、微塵も気おくれすることなく仏に突入した。浅黄色のダソダラ羽織をひるがえしてである。そして、即座に「いちげんの客」はおことわりどすと撃退されてしまった。高嶺の花に憧れる、若者たちの無垢な心情を知りながらも、商売となれば店側の接遇はニベもなかった。若者たちは衝撃をうけた。自分たちを入れてくれる飲み屋に集まって、額を集めた。金を持って行っても、店にあげてもらえないことが、どうしても理解できなかった。若者たちは口々にいった。
「昔からいうじやねえか、東男に京女と。おれたちは東男だ。なぜきらうんだ。あの諺は嘘か」と。若たちは京のならわしを知らなかった。そのならわしに対して、自分たちに何が欠けているのかを知らなかった。いや、欠けているのではなく、余計な泥が付着していることに気がつかなかった。
 若者たちは、京の花街で流行している唄や都々逸の作詞者が志士の桂や高杉であることを知った。朗々と持を吟じて歩くのが久坂であることも知った。
 京の美妓の人気を独占する、これら長州の磨かれた青年たちに、新撰組の若者たちは、羨望と嫉妬と憎しみの炎を、誰よりもはげしく燃やした。

■新撰組−藩単位の政局に乗り遅れる

<本文から>
 折しも幕府は最後のあがきで、長州征伐の軍を起こし、こんどは本当に長州藩士に突入した。戦争は山口県柳井市東南の周防大島からはじまった。慶応二年六月七日のことである。「男なら の大合唱で団結する長州藩民に、蒲政府は徳川幕府からの独立(大割拠)を宜し、
「起て。藩民よ武器をとれ」
 というビラを三十六万枚も刷って配った。藩民はふるい立ち、本当に武器をとった。この戦意に、幕軍はいたるところで惨敗した。そしてその戦中最中、将軍家茂が死んだ。二十一歳だった。征長ほ中止され、幕威はさらに墜ちた。坂本龍馬は「大政奉還」の運動をはじめた。いい出しっペは、自分の生まれた土佐の藩主山内容堂にさせるつもりだった。そうしないと、こんごの日本の政治は薩長にひきずりまわされ、土佐藩は船に乗りおくれてしまうからであった。さらに武力中心の政府が出現する危険性があちた。土佐の共和思想は薩長の中和剤として必要であった。
 めまぐるしいこういう状況の中で、新撰組の若者たちは、実に沈離な空気の中にいた。藩単位でうごく政局に、浪士の集団である若者たちは手が出せない。三年前には政治が身近なところにあったような気がしたが、いまは、はるかに速い。征長戦争にすら呼んでくれない。
 若者たちが苦しんだのは、そういう参加の道をとざされたことでなく、参加しようにも、する方途をもたない自分たちの素養のなさ、無知に対してであった。それが余計若者たちの気持ちをみじめにし、思いを燻らせた。

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