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<本文から>
近藤勇は永倉、原田の話をきくとすぐ決断した。
「守護職邸に行って事実をたしかめよう。もし事実なら」
一斉に自分をみる館員たちに、
「二条城にかけつけて、大樹の東下をとめなければならぬ」
と告げた。後世の近藤勇に貼られたレッテルから考えれば、この近藤の言動は奇異の感をもたれるかも知れない。しかしそれは、レッテルがまちがいなのであって、近藤は多摩にいた時からもともと尊皇・攘夷・敬幕の思想の持主だ。いや、死ぬまで朝廷と幕府がカを合せて攘夷を実行することを希っていた。だから近藤はいったむ
「いま、大樹が逃げるように京都から去るのはまずい。退京するのなら、きちんと捷夷実行の期日を、帝に約定して去るべきだ」
胸の中に燃えていた攘夷の思想の炎が外にとびだし、それはただ番犬のように将軍を警護しようという域をとうにとびこえていた。
この限りでは、桂小五郎たち尊攘派と近藤の考えはまったく同じである。が、大きくちがう点があった。それは、近藤が、すでに将軍個人を護りぬくことよりも、京都を正常に戻さなければならない、という使命感のほうにつよく傾いていたことだ。それがすべての出発だと感じた。たった二十日間の京都での体験がかれをそうさせたのだ。 |
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