童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説 新撰粗

■近藤は多摩にいた時から尊皇・攘夷・敬幕の思想の持主

<本文から>
  近藤勇は永倉、原田の話をきくとすぐ決断した。
「守護職邸に行って事実をたしかめよう。もし事実なら」
一斉に自分をみる館員たちに、
「二条城にかけつけて、大樹の東下をとめなければならぬ」
と告げた。後世の近藤勇に貼られたレッテルから考えれば、この近藤の言動は奇異の感をもたれるかも知れない。しかしそれは、レッテルがまちがいなのであって、近藤は多摩にいた時からもともと尊皇・攘夷・敬幕の思想の持主だ。いや、死ぬまで朝廷と幕府がカを合せて攘夷を実行することを希っていた。だから近藤はいったむ
「いま、大樹が逃げるように京都から去るのはまずい。退京するのなら、きちんと捷夷実行の期日を、帝に約定して去るべきだ」
 胸の中に燃えていた攘夷の思想の炎が外にとびだし、それはただ番犬のように将軍を警護しようという域をとうにとびこえていた。
 この限りでは、桂小五郎たち尊攘派と近藤の考えはまったく同じである。が、大きくちがう点があった。それは、近藤が、すでに将軍個人を護りぬくことよりも、京都を正常に戻さなければならない、という使命感のほうにつよく傾いていたことだ。それがすべての出発だと感じた。たった二十日間の京都での体験がかれをそうさせたのだ。

■前代未聞の卑劣な”あぐり事件”

<本文から>
 佐伯亦三郎は、長州の久坂玄瑞が潜入させた間者だという説がある。しかし、その間者活動はとにかく、あぐり事件に関してこんな卑劣な男はいなかった。数日たつと、こんどは車を連れずにひとりで佐々木を呼び出した。そして、どうしたのかまったく前言をひるがえし、
「段取りをつけてやるから、ふたりでかけおちしろ」
といった。佐々木はびっくりした。いきなりの語である。第一、この男が信じられるのか。佐々木はためらったが佐伯は本気である。ついに佐々木はこれに乗った。あぐりを説得し、ある夜、本当に屯所を脱走した。そして朱雀野の竹藪あたりまできたとき、突然おどり出てきた佐伯に滅多斬りにされて死んだ、狂ったように泣きわめくあぐりを、佐伯は藪の中にひきづりこみ。散々に犯した。あぐりは薮の中で舌をかんで自殺してしまった。
 あれほど隊士たちから羨ましがられ、しかも公認されていた幸福な恋人同士の痛ましい最期であった。
 佐伯亦三郎はなぜこんなことをしたのだろう。佐々木があぐりを芹沢に渡さないものだから、親切ごかしにかけおちをすすめ、佐々木を殺して、あぐりを芹沢に提供するつもりだったのかもしれない。しかしその前にちょっとツマミぐいを、という悪い了簡を出したのであぐりは自殺してしまった。
 ひっこみのつかなぐなった佐伯は知らぬ顛の半兵衛をきめこんだ。が、あぐりの親もとの八百屋から真相が近藤に伝えられた。話をきいた近藤は顔色をかえて立ち上がり、猛然と芹沢に、
「あぐりという娘を妾に出せといったのは本当ですか」
と糺した。普段上まったくちがう近藤の態度に、芹沢は一瞬ギクツとしたが、
「ああ、たしかだ」
 とゆがんだ笑いで応じた。近藤との一線がこれで切れたとかくごしたようなひらきなおりであった。事態を察した佐伯が脱走した。しかしあとを追った沖田、永倉、原田に斬られた。皮肉にもその場所は朱雀野の薮であった。この間、近藤はずっと腕をくんで考えていた。必死に自分と闘っていた。

■山南や藤堂は尊皇攘夷の志を主張した

<本文から>
「隊士全員に話す前に、幹部の意志を統一する必要があります」
 普段は温厚で、人の好さにかけては無類、壬生の里でも山南敬助は沖田総司とともに村人からもっとも愛され、尊敬されている。藤堂平助も若者らしい純粋さをいつも発散させている男だ。そのふたりが今日は真剣な表情で近藤に自分たちの考えをいった。意見を要約すると、
 ○もともと、われわれが試衛館をたたんで京都にきたのは、尊皇攘夷の志を実現するためだ。
 ○それが、肝心の大樹(空丁)も幕府もうろうろするだけで一向に壌夷の方針をきめない。
 ○その間、新撰組は王都警衛の美名の下に、奉行所警吏と同じような任務にばかりつかされている。
 ○その結果、本来は同志であるはずの尊攘派志士を弾圧する側にまわっている。
 ○このままだと、新撰組は幕府の犬だという誤解がそのままひろまり、ついに元の道に戻れないことにもなりかねない。
 ○いまなら引きかえすことができる。そのためには、絶対に幕府の禄位を辞退し、新撰組が攘夷派であることをもう一度改めて天下に表明することだ。
 ということだ。ふたりは、この意見はふたりだけでなく、隊内にもかなり共鳴者がいる、と告げた。
「うむ、それはそうかも知れないな」
 きき終った近藤は渋い顔をしながらもうなずいた。近藤は外見はいかつい顔をしているが、心は本当にやさしい。局長になってもいつも平隊士のことを心配している。隊士から不満や不平が出ると、近藤はすぐ、
「それは局長のおれのいたらなさだ」
と自分をふりかえる。どこか自分のやりかたがまちがっているのではないか、と反省する。歳さんからみると、それは近藤の反省過剰だ。近藤の胸には襞がいっぱいあって、いつもその襞に平隊士の不平や不満がひっかかっている。山南と藤堂の意見で近藤はうちのめされた。

■与力の内山を殺したことで幕府も新撰組に恐怖を抱く

<本文から>
京・大坂の大半の人間が、内山彦次郎を殺したのは新撰組だということを知っていた。
一時は調子づいた幕府の役人たちは再び沈黙し、遠ざかった。遠くから、うす気味わるいものを眺めるように新撰組をみた。世間も、新撰組の暴力にはおそれを抱いた。
 「やはり、そういう集団だったのだな」
と、ひそかに抱いていた新撰組観を、改めて確認し、したり顔でうなずく暑もいた。が、誰も手出しはできなかった。
 「下手なことをすれば、こんどはこっちが殺される」
という恐怖心は、十分に湧いたからである。

■近藤は京の丸焼け(禁門の変)の原因は新撰組にあると悩む

<本文から>
(近藤先生は、世間の新撰組をみる眼を変えようとなさっている)
 歳さんはそう思った。池田屋襲撃以来、一挙にたかまった新撰組の評判は”人斬り”によってであった。新撰組が池田屋に集結した志士を襲ったのは、かれらが烈風の日に京の町に火を放つ、という暴挙を制するためだったが、世間はそうはとらなかった。
「新撰組が池田屋で人斬りをやったから、長州が怒って御所を攻め、本当に京も焼いてしまった」
と思っている。京が丸焼けになった原因は、だから新撰組にある、新撰組は人斬りや、壬生の狼や、というのが世間の評判であった。
これは、近藤勇には耐えられないことであった。近藤は、いま必死になって、新撰組に貼られた”人斬り”という紙を剥ががそうとしている。それは、新撰組の体質を変えることによって。
現在のいいかたをすれば、”力の集団”を”知の集団”に変えようということだろうか。その意味では、近藤のこの意志は伊東甲子太郎が乗ずる隙を与えていた。
 そして、それが歳さんには気にくわなかった。
(いまさら、新撰組が学問をしてどうなるんだ)
 率直な疑問だった。

■近藤の意見をいく各藩重役が増えてきた

<本文から>
 この時期、近藤の外出が多くなった。各藩重役の中にも、
 (近藤殿の意見をききたい)
という人間が実際に増えていた。近藤は億劫がらずに出かけて行った。そのたびに歳さんは、
 (先生は、少しでも新撰組の立場を理解させようと、懸命の努力をなさっている)
と思った。が、近藤を招いて料亭で懇談する各藩重役は、実は近藤と新撰組とは切りはなして考えていた。近藤を卓見を持つ政治人だとみる人々も、新撰組となると、やはり、人斬り浪士の集団だと思っていた。
 近藤がすぐれた人間だという認識を深めれば深めるほど、そういう人々は、逆に、
(近藤さんほどの人物が、なぜ、新撰組のような人斬り集団の隊長をづとめているのか)
と思うのだうた。中川宮も、一橋慶喜も、そLて後藤象二郎も、おそらく近藤勇と新撰組とを切りはなして考えていたのだろう。
 そのことは、要人と話しあうたびに、近藤自身がいちばんつよく感じた。だからこそ、
(おれと新撰組は別じゃねえ。一心同体なんだ。そのことをわかってもらいてえからこそ、おれは要人の招待に応じているんだ)
 と思っていた。
 が−無駄な努力であった。そんなことを理解する要人はひとりもいなかった。しかし近藤は、自分に声をかけてくる人間の中で、真剣に接触する人物は大事にした。たとえば土佐の後藤象二郎のことは、全隊士に、
「どんなことがあっても、土佐の後藤さんには手を出してはならぬ」
と命令していた。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ