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<本文から>
勝頼はビクッとして顔を上げた。信道はかまわずにつづけた。
「俺はもう駄目だ。しかし俺が死んでも三年のあいだは俺が死んだことを天下に発表するな。もしそんなことをすれば、おまえは酷い日にあう。織田信長、徳川家康、北条氏政、上杉謙信など、武田を狙う敵は周囲にひしめいている。しばらくは俺の死を隠せ。自然に知れればそれはやむを得ない。そのときは、信廉と相談してどうするかを決めろ。俺の托体は大きな瓶に入れて、諏訪湖の底に沈めろ。諏訪はおまえの母の生まれ故郷だ。湖の底から、俺は武田の行く末を見守ろう。
おまえはすぐ他の跡を継ぐな。息子の信豊(勝)がまだ幼年だが、かれを俺の跡継ぎにせよ。当分、おまえは後見人になれ。そのほうが武田家の収まりがいい。なぜなら、おまえはまだ部下たちから信頼されていない。しばらく後見人を務めているうちに、みなの気持ちも変わってくる。おまえの殊勝な姿を見ていれば、やはり御大将は、勝頼様にしようという空気が武田家に湧く。それを待て。
もう一つある。越後に行って上杉謙信に和を請え。父との経緯を水に流して、これからは武田家と仲良くしてほしいと頼め。かれは義に厚い武将だ。かならずいうことを開いてくれる。
いいな? この四つをかならず守れ」
勝頼は返事をしなかった。四つとも不満だった。もっとも大きな不満は、ここで父が死んでしまうことだった。
(なぜ、こんなところでお亡くなりになるのですか? もう少ししっかりしてくださって、せめて瀬田の大橋に風休火山の放を立てようではありませんか)
最後の最後まで、勝頼の目は必死になってそう懇願していた。信玄は緩く首を振った。
「もう駄目だ。精も魂も尽き果てた。休ませてくれ…:」
一度目をつぶった信道ば、やがてもう一度瞼を開くと、信廉にいった。
「信廉、縮むぞ」
一瞬、信道の目が光り、鬼気を発した。信廉はピッと緊張した。かれは胸の中で叫んだ。
「信道、よく演った!」
信道は筋書どおりに行動し、台本どおりの台詞を口にした。そして、台本どおりいま死ぬ。武田信玄として。最後まで虚を真として生ききった。 |
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