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<本文から>
松下村塾の建物を見た人は、必ずといっていいほど驚きの声をあげる。なぜなら、松下村塾があまりにも小さいからだ。八畳と十畳の二間しかない。それも、一間は建て増したのだということだ。だから、もとはもっと狭かった。この狭い塾から、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。
もう一つびっくりするのは、吉田松陰がこの村塾で若者たちを教えた期間が非常に短かったということだ。松陰がそれまで幽閉されていた野山獄から出されたのが安政二年(一八五五)の暮れ。杉家の納屋で弟子たちを教えはじめたのは、世間的には安政四年(一八五七)の十月のことである。そして、彼が井伊直弼の安政の大獄のため江戸伝馬町の獄で斬首の刑にあったのが安政六年(十八五九)十月二十七日のことである。そうなると、松陰が松下村塾で若者たちを教えたのは、丸二年に過ぎない。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。日本はおろか、世界中捜してもこんな指導者はいない。
松陰は、テキストによく毎日起きる社会的な事件を使った・「飛耳長目録」というメモを脇に置いていた。ここに、人から聞いたことや自分の目で見たことをどんどん書き溜めておく。中には、今の新聞の三面記事のようなものも沢山あった。が、松陰はこういうものをないがしろにしなかった。彼にすれば、たとえば一個人が身内を傷つけたり、あるいは借金を苦にして自殺したりする事件を聞いても人ごとではなかった。
「なぜ、こういうことが起こるのか?」と考えれば、その原因のほとんどが政治にいき着く。
「政治が悪いから、民がこういうふうに苦しむのだ」
松陰はこう考える。だから弟子たちに、
「君たちは、こういうことをどう考えるか?」と議論させるのである.当時の松下村塾は、畑の中にあった。松陰もよく鍬をふるった。弟子たちにもふるわせた。草をむしりながら、あるいは土を耕しながら、あるいは獲り入れをしながら、彼は飽くことなき熱心な議論を続ける。もちろん、社会的事件だけを教材にしていたわけではない。孟子を読み、左伝を読み、史記を読んだ。
松下村塾に通って来るのは、ほとんどが藩の下級武士の子弟たちだった。藩には、藩の学校で明倫館というのがあった。山県大華ほか、高名な学者が教えていた。しかし、軽輩たちの子弟は明倫館に行かなかった。
「吉田先生の塾の方が面白い」というのだ。松陰が死学ではなく、生きた学問を教え、その学問も日常身近なところで起こった事件を取りまぜながら教えるから、余計興味が湧く。自分のことのように、弟子たちも熱中して口から泡を飛ばして論じ合った。 |
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