童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          渋沢栄一 人生意気に応ず

■慶喜への人生意気に感ず

<本文から>
 慶喜は心持ち表情を緩めていた。
 「篤太夫」
 「はい」
 「いまのわたしは一介の浪人だ。徳川宗家は田安から入った家達殿が継いでくれた。かつて徳川家の家臣であった者が続々とこの土地にやってくる。しかしいまのわたしは新徳川家の居候であって、かれらに対してなんら手をさしのべることもできない。わたし自身の暮らしをどう保つかも危うい。そんなときに、いまさらむかしのことを繰り返してあのときああすればよかったなどといってみてもはじまらぬ。事実は事実だ。この事実に対してどう対応していくかがわたしのいまの生き方だ。いまのわたしは徹底恭順、朝廷に対してはなんら叛意がないことを示し続けなければならぬ。それがこの土地にやってくる旧臣たちへのせめてもの心づくしだ。そのへんをわかって欲しい」
 切々と訴えるような語調だった。栄一は平伏したまま肩を震わせた。慶喜のことばがあまりにもつらかったからである。栄一は鳴咽した。そしてとぎれとぎれにこういった。
 「上さまのお気持ちはよくわかるつもりでございます。ただ、あまりにもお労しく……。上さまのいまのお姿を拝見いたしますと、どうしても悔しさが突きあげてくるのでございます」
 そういった。慶喜は、
 「篤太夫の気持ちはよくわかる。そこまでわたしの身になってくれるのはうれしい。が、世の中は変わった。篤太夫も新しい世に生きよ。わたしのことは忘れるのだ」
 「そうはまいりません」
 栄一はキッとなって顔を上げた。
 栄一の心にこのときはじめて、
 (水戸の昭武さまには適当な時期でおいとまをいただいて、もう一度この地に戻ってこよう。そして上さまのご面倒をみよう)
 という気持ちが湧いた。このたちまちの心境変化も栄一持ち前の、
 「人生意気に感ず」
 という精神のあらわれなのだ。 
▲UP

■渋沢はすぐれた情報の発信者

<本文から>
 渋沢栄一は、
 「情報通であった」
といわれる。木村昌人民の『渋沢栄一』(中公新書)では、渋沢栄一の情報に対する才能として、勝手な意訳をさせていただければ、
 一 情報の収集力
 二 情報分析の確かさ
 三 情報を創造する
 などにすぐれていたとする。
 それはなによりも、
 「渋沢栄一の情報収集へのあくなき努力である。別言すれば並外れた好奇心を持ち、情報収集のために労力を惜しまなかったことである」
 としている。
 二番目には、
 「質の高い生きた情報に接するうちに、渋沢は情報に対する鋭い感覚を身につけていったのである。すなわちどの情報が正しく、また先見性に富むものか。かれは試行錯誤の中で情報を正しく判断できるようになったのである」
 としている。そして、また、
 「多くの人から情報を得るためには、まず人柄が良く信頼されると同時に、会っていて楽しい人でなければならないであろう」
 としている。だから、
 「いくら人柄が良くてもあまり無口な人では、話ははずまず相手から多くの情報は取れないであろう。反対に一方的に自分の話ばかりする人も、相手を辟易させるだけで、多くの情報は入ってこない。その点渋沢は、会話の名手であり、聞き上手でもあった。それに加え、明るい人柄でユーモアがあり、人々を安心させ、コミュニケーションが広がり入手する情報も豊富になったのである」
 と分析している。そして、
 「渋沢はすぐれた情報の発信者であった」
▲UP

■経済運営にも王道が必要と考えた

<本文から>
 渋沢栄一はこまめに歩きまわってこういう実能を把握していた。心の中で、
(武士という存在は、呆れてものがいえない)
 と思っている。が、かれもまた旧主徳川慶喜を敬愛してこの地にやってきたのだから、そんな武士たちをみて、
「おまえたちはばかだ」
 と見捨てるわけにはいかない。栄一が、
 『産業振興』
 ということを旗印に、
「この地域全体の活性化をはかり、これを日本の落ちぶれた藩の模範とする」
 と考えたのも、その半分は、
 『失業武士の救済』
 に力点がおかれていた。つまり、
「かつて江戸城の中でふんぞり返っていた連中にここで報復をしてやろう」
 などという考え方は栄一にはない。かれは儒教をまなんでいたから、
 「経済運営にも王道が必要だ」
 と考えている。それは前に引用したかれのことばにもはっきり示されている。王道というのは、
 「仁と徳によるいとなみ」のことである。
 私欲を満たすために、
 「権謀術策だけでおこなういとなみ」
 は覇道である。栄一は終生この覇道を嫌った。
 しかしだからといって、自分の得るべき利益もすべてさし出して、
 『利他』
 だけに専念したわけではない。自利はしっかりと押さえる。そのへんは栄一もまたカミやホトケではない。
▲UP

■国立銀行設立で地域のコアを作ろうとした

<本文から>
 かれがパリでまなんだことのもうひとつに、
『ナショナル』
 ということばがあった。ナショナルというのは国のことだ。だからかれが構想している、
「バンクの日本版」
『日本ナショナル・バンク』
である。ナショナルを国と訳して、
 『日本国銀行』
とする。しかしこれでは語呂が悪いので、栄一は、
 『日本国立銀行』
 と名づけようと思っていた。しかも、
「国立銀行はひとつではなく、一から順にどんどん増やしていきたい」
 と夢を措いていた。極端にいえば、
 「第一国立銀行から、第百国立銀行、第二百国立銀行までつくりたい」
 ということだ。このことは、
 「日本の各地に、銀行を設立したい」
 ということである。なぜ日本の各地に銀行を設立したいかといえば、かれにすれば、銀行というのは単に金貸しやソロバン勘定だけをおこなうところではない。むしろ、
 「地域のコア(芯)として、情報の収集やその公開、そして地域の商工業者の経営に対しても関与できるような見識をもたなければだめだ」
 と思っていたからである。
▲UP

■七分積立金を小石川養生所の拡充整備に使う

<本文から>
「江戸市民の共有金であった七分積立金」
のことで、これを改めて、
 「東京府民のための共有金」
 ということにしたのである。栄一はこの金を主として、小石川養生所の拡充整備に使った。小石川養生所はすでに「束京府立養育院」と改められていた。現在の東京都立養育院である。前に書いたように、初代の院長には渋沢栄一がその任に就いた。九十二歳で死ぬまでかれがこの肩書きを離さなかった話は有名だ。そしてことあるたびに、栄一は松平定信の話を伝えた。定信の命日の日には、必ず手を合わせて尊敬する先人の冥福を祈った。
 これもまた、
「論語とソロバンの一致」
 というかれの心情のあらわれである。ソロバンのほうでは、国立銀行の混乱で一時悩んだもののどうにかこれを突破した。
 人の道を尊ぶ論語をいまの世に実現するために、江戸時代からつづいてきた小石川養生所を養育院と名称を変えて、その整備拡充をはかることはそのまま、
 「論語の実践」
であった。
 もうひとつかれがずっと気にかけていたのが、
 「優秀な人材は全部政府が吸収してしまうので、民間には劣った者しか残らない」
 という現象である。かれは前々から、
 「有能な民間実業人を養成するための研修機関がいる」
 と考えていた。明治八年(一八七五)一月にかれは第一国立銀行の頭取に互選された。その年四月に東京会議所の委員に推薦された。日本有数の教育者であった森有礼に全面的な指導を受け、
 「有能な実業人を養成する」
 ということを目標にして、かれは八月に念願の、
 「商法講習所」
 を設立する。
▲UP

童門冬二著書メニューへ


トップページへ