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<本文から> 慶喜は心持ち表情を緩めていた。
「篤太夫」
「はい」
「いまのわたしは一介の浪人だ。徳川宗家は田安から入った家達殿が継いでくれた。かつて徳川家の家臣であった者が続々とこの土地にやってくる。しかしいまのわたしは新徳川家の居候であって、かれらに対してなんら手をさしのべることもできない。わたし自身の暮らしをどう保つかも危うい。そんなときに、いまさらむかしのことを繰り返してあのときああすればよかったなどといってみてもはじまらぬ。事実は事実だ。この事実に対してどう対応していくかがわたしのいまの生き方だ。いまのわたしは徹底恭順、朝廷に対してはなんら叛意がないことを示し続けなければならぬ。それがこの土地にやってくる旧臣たちへのせめてもの心づくしだ。そのへんをわかって欲しい」
切々と訴えるような語調だった。栄一は平伏したまま肩を震わせた。慶喜のことばがあまりにもつらかったからである。栄一は鳴咽した。そしてとぎれとぎれにこういった。
「上さまのお気持ちはよくわかるつもりでございます。ただ、あまりにもお労しく……。上さまのいまのお姿を拝見いたしますと、どうしても悔しさが突きあげてくるのでございます」
そういった。慶喜は、
「篤太夫の気持ちはよくわかる。そこまでわたしの身になってくれるのはうれしい。が、世の中は変わった。篤太夫も新しい世に生きよ。わたしのことは忘れるのだ」
「そうはまいりません」
栄一はキッとなって顔を上げた。
栄一の心にこのときはじめて、
(水戸の昭武さまには適当な時期でおいとまをいただいて、もう一度この地に戻ってこよう。そして上さまのご面倒をみよう)
という気持ちが湧いた。このたちまちの心境変化も栄一持ち前の、
「人生意気に感ず」
という精神のあらわれなのだ。 |
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