童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説渋沢栄一

■地下水脈の運動法則がやがて日本を変える

<本文から>
 長州藩は
「武士は役に立たない。本当に戦争に強いのは農民や庶民だ」
 ということを実証したのである。この話を聞いて栄一の胸の中は複雑だった。かれははじめから農民の立場に立っている。武士が嫌いだ。士農工商の身分制も頭の中では否定してきた。それを、こともあろうに幕府に盾ついた長州人が実行して見せたのである。
 渋沢栄一は自分がじっと凝視してきた一般の世の中の潮流や世論とは別な地下水脈の流れが、正しかったことを改めて知った。世間でいわれる、”世の中を変える運動法則”よりも、ヒタヒタと静かに流れてきた、”地下水脈の運軌法則″の方が、はるかに強かったのである。
栄一はしみじみと思った。
(この地下水脈の運動法則がやがて日本を変えるだろ) 

■地下水脈が上層部に上がって世論を作る、それに従って活路を開く

<本文から>
 もともと武士階級に対して憎悪の念を持ってきた栄一は、武士階級がなくなることや徳川慕府がなくなることなど何とも思わなかった。大名もなくなってもいい。栄一はいった。
「おそれながら、これからの日本の国家は有能な大名方の協議によって国政が行なわれるべきだと存じます。そして、その大名合議の議長をおつとめになるのは、はばかりながら一橋慶喜公だと考えております。すでに瓦解の道を辿りはじめている幕府のために、火中の栗を拾う将軍家などには、決しておなりになるべきではありません」
 聞いていた慶喜は原市之進と顔を見あわせた。目にありありと驚きの色があった。
(この男は何という思い切ったことをいうのだ)
と感じていた。原市之進が苦笑していった。
「渋沢君、君は世にも恐ろしいことをまるで仏様のような口調で話すではないか」
 そういわれて栄一はニコニコ笑った。これはかれが生涯保った話法だ。決して声を荒げたり、激しい調子で話さない。ソフトであくまでも相手を説得しようという調子で話す。言葉便いも平明でわかりやすかった。原市之進のいうようにこの時栄一が告げた意見は大変なことだ。考えようによっては徳川幕府への反逆と見られても仕方がない。
 しかし、栄一には信念があった。それは、すでに薩摩藩のような外様大名家においてでさえ、西郷吉之助のような考えを持つ人物が出てきている。他にもいるだろう。そうなると、すでに個人の意見ではなく、そういう世論がつくられつつあると見ていい。それが栄一がずっと見つめてきた、例の”地下水脈の法則”だ。うわべの潮流や世論を越えて、次第に地下水脈の法則が上層部に上がってきたのだ。これは無視できない。そして、その地下水脈の法則に従うことが一橋家を誤らせない活路なのだと考えた。
「日本に共和制を導入して、有力な大名連合をつくり、その議長に一橋慶喜が就任すべきだ」
という意見は、慶喜と原市之進に大きな関心を持たせた。

■政治に対する主権がどんどん庶民の手に移っている

<本文から>
「お断リ致します」
 栄一は即座に前を振った。
 「なぜですか?」
 長野は不満そうに聞き返した。栄一はこう答えた。
「時の流れには逆らえません。私はかねてから表面上の世の中の流れがつくり出す世論とは別に、世の中の地下をヒタヒタと流れている水脈があることに気づいていました。これからはその水脈が表面に出ます」
「地下水脈というのは何ですか?」
 わけのわからないことを開いたような表情をして、長野は開いた。栄一は答えた。
「政治に対する主権がどんどん庶民の手に移っているということです。もう武士の時代ではありません。失礼ながら長野さんのお考えは昔の武士の夢を追っておられる。私はもうごめんです。私は武蔵野の農民の出ですから、武士万能の世の中にはほとほと愛想をつかしているのです・・・」
 思い切った栄一の発言に長野はムッとした。
(何を、この!)
 という反発がその顔に表れた。しかし栄一は黙って長野を凝視していた。耐えられなくなつて視線を外した長野はそそくさと去っていった。栄一は自分の態度と選択が正しいと信じた。

■萬屋主義

<本文から>
 栄一が関与した会社の数は、約五百余りだという。そしてその範囲も、銀行、鉄道、海運、紡績、保険、鉱山、織物、製鋼、陶器、造船、ガス、電気、製糸、印刷、製油、築港、開墾、植林、牧耗、石油、セメント、ビール醸造、帽子の製造、製麻、製藍、水産、煉瓦の製造、人造肥料、ガラス製造、熟皮、汽車の製造、ホテル、貿易、倉庫挿、取引所、また輸入、などだ。経済のあらゆる面にかかわっている。栄一は、これを称して、
「萬屋主義」
 といった。
 では、なぜかれが萬屋主義と自嘲してまでいろいろなことに手を出したか。
 政府から身を引いて、実業界に打って出た時の日本の状況について栄一はこういういい方をしている。
「たとえば、日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売に従い、農といえば大根をつくって沢庵漬けの材料を供しているだけだ。また、工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。また、商店といっても、日本の住民自体の購買力が低下してしまっているから、一製品の販売で、身を立てることはできない。だから、呉服屋が荒物商を兼ねている。酒屋が飲食店を兼ねている。これは、店を維持していく上で、そうせざるを得ないからだ。
 そうなると、やはりわが国の商工界は、まず萬屋から出発さぜるを得ない。これは、世界的規模についていえば、日本の商工業がとりあえず萬屋主義をとらぎるを得ないということになる。世の中には、いやそれは間違いで、一人一業主義をとるべきだと頑張る人もいる。確かに、それも理だ。が、こういうことはよほど才幹がなければできない。誰にでもできるということではない。誰にでもできるのは、やはり当面萬屋主義をとることである」
 しかし、”萬屋主義″といってみても、栄一の主張したことは、単なる兼業主義をいっているわけではない。かれは生涯を通じて、その主張するところは変わらなかった。すなわち、
一、合本主義
一、組織主義
一、商法会所主義

■論語とソロバンの一致

<本文から>
 栄一が実業家になってまず整備しょうとしたのは、日本の「農工商界」の現状の底上げだった。産業を振興することが、すなわち日本を富ませることだと思った。そしてそのことが取りも直さず、日本国民の生活を豊かにすることだと信じた。
 同時に金融面についていえば、それまでの金融界は、両替商、蔵元、掛け屋、札差などが支配していた。これをもっと近代的なものに改めなければならないと考えた栄一が、何よりも創立を急いだのが銀行である。 そしてこの産業振興と金融機関の整備の底流に流す理念が栄一の言葉を借りれば、
 「論語とソロバンの一致」
 であった。
 論語というのは孔子の言薬を弟子たちが綴ったものだ。日本でもよく読まれていた。しかし前に書いたように、中国から伝わった儒学を常に肌身離さず学習し抜いたのはやはり武士である。そのためこの儒学に依拠して、自分の身を慎む姿勢を「儒教の精神」あるいは「孔子の精神」といった。論語とソロバンを一致させるということは、
「孔子の精神で商業を営め」
 ということだ。ということは、
「多くの人々の利益を志す商売を行なわなければならない。自分だけ勝手にガリガリ亡者の儲け主義になってはならない」
 ということだ。これはもっと広げて考えれば、
「商業も多くの人たちと手を取りあって、公益のために努力しなければならない」
 ということになる。それが岩崎弥太郎の”一人一業主義″とは距離をおく結果になったのだ。

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