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<本文から>
堺のまちも、一時期は、
「自由都市」
「商人の運営する都市」といわれた。多くの大名が、堺の商人たちの財力の前に屈し、ご機嫌を伺ったことは確かである。それによって堺の商人が増長しなかったとはいえない。
織田信長はその増長に鉄槌を加えた。かれは強引に多額な矢銭を要求し、「応えなければ堺を焼き払う」 と胴喝した。
もしあの時、矢銭を払わなかったならば、おそらく信長は堺のまちを焼き払ったに違いない。そうなれば、
「自由都市」
あるいは、
「商人の運営する都市」
も、わずかな時間内に完全に燃え尽きてしまう。跡形も無くなる。残るのは灰だけだ。そう考えると、堺が矢銭を提供することによって生き延びられたのは幸運だった。しかし、それはまちそのものの権力者に対する屈服に他ならない。
あの時、利休は、
(たとえまちは屈服しても、人間が屈服しない道はないのか?)
と、必死になってその道を求めた。
利休の求める道というのは、決して隠者の道ではなかった。
「現実から逃れても、真の解決はない。それはいかに、茶の極意といい、歌道の極意といっても、結局は隠遁の美学だ」
そういう戦闘的な気概は利休の胸の底にふつふつとたぎっている。利休は逃げるのは嫌いだ。どんな難題が目の前に現れようと、勇気を持ってそれに立ち向かって行くのが人間だと思っている。しかしそれはただ気概を持てば実現できるということではない。やはり手段が必要だ。手段は、それを扱う人間の気持ちの持ち方による。
「根源になる気持ちをどう設定するか」
ということが、利休最大の課題であった。
隠遁を否定し、最高権力に立ち向かって行くのにはどうすればいいのか。
堺という自由都市は、外国人宣教師がいかに熟めようとも、結局は、
「人工のまち」
だった。利休は、
「堺のまちが、織田信長という権力者に屈服したのは、まち自身が一つの精神を持っていなかったからだ」
と考える。ではどうするか。
「まちに住む一人一人が、まちびととしての精神を持つことだ」
まちびとという言葉を考えついた時の利休の頭の中には、外国人宣教師から問いた、
「ヨーロッパにおける市民」
の姿があった。
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