童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説 千利休

■権力に屈服しても人間として屈服しない道を

<本文から>
 堺のまちも、一時期は、
 「自由都市」
 「商人の運営する都市」といわれた。多くの大名が、堺の商人たちの財力の前に屈し、ご機嫌を伺ったことは確かである。それによって堺の商人が増長しなかったとはいえない。
 織田信長はその増長に鉄槌を加えた。かれは強引に多額な矢銭を要求し、「応えなければ堺を焼き払う」 と胴喝した。
 もしあの時、矢銭を払わなかったならば、おそらく信長は堺のまちを焼き払ったに違いない。そうなれば、
「自由都市」
 あるいは、
「商人の運営する都市」
 も、わずかな時間内に完全に燃え尽きてしまう。跡形も無くなる。残るのは灰だけだ。そう考えると、堺が矢銭を提供することによって生き延びられたのは幸運だった。しかし、それはまちそのものの権力者に対する屈服に他ならない。
 あの時、利休は、
(たとえまちは屈服しても、人間が屈服しない道はないのか?)
 と、必死になってその道を求めた。
 利休の求める道というのは、決して隠者の道ではなかった。
「現実から逃れても、真の解決はない。それはいかに、茶の極意といい、歌道の極意といっても、結局は隠遁の美学だ」
 そういう戦闘的な気概は利休の胸の底にふつふつとたぎっている。利休は逃げるのは嫌いだ。どんな難題が目の前に現れようと、勇気を持ってそれに立ち向かって行くのが人間だと思っている。しかしそれはただ気概を持てば実現できるということではない。やはり手段が必要だ。手段は、それを扱う人間の気持ちの持ち方による。
「根源になる気持ちをどう設定するか」
 ということが、利休最大の課題であった。
 隠遁を否定し、最高権力に立ち向かって行くのにはどうすればいいのか。
 堺という自由都市は、外国人宣教師がいかに熟めようとも、結局は、
「人工のまち」
だった。利休は、
「堺のまちが、織田信長という権力者に屈服したのは、まち自身が一つの精神を持っていなかったからだ」
と考える。ではどうするか。
「まちに住む一人一人が、まちびととしての精神を持つことだ」
まちびとという言葉を考えついた時の利休の頭の中には、外国人宣教師から問いた、
「ヨーロッパにおける市民」
 の姿があった。
 

■まちびと精神

<本文から>
  したがって、千利休と兄秀吉との問に波立つ精神の争いが、次第に高まっていることを秀長はよく承知していた。折りに触れて、際どい場面が展開される。その度におそらく秀長は、
(兄も兄だが、利休も利休だ)
 と、当惑の情を持ったに違いない。もっと言えば、
(利休はたとえ天下一の茶人とはいっても、兄に扶持されている身なのだから、与えられた給与に対する忠誠心を発揮すべきだ)
 と考えていた。一言で言えば、
「利休よ、もっとうまくやれ」
 ということである。ところが利休はうまくやらなかった。かれにとって、秀吉に屈服することは、
「自分の茶の精神が屈服することだ」
 と思っていた。そのことは同時に、
「まちびと精神が屈服することになる」
 ということである。
 豊臣秀長が死ぬ前後に、秀吉の母大政所 (仲) と秀吉の妻北政所(おねね・おね)から密使が来た。
「私たちが命乞いをいたしますから、あなたも関白様に謝ってください」
 という口上である。しかし利休は丁重に断った。
「もはや、ここに至ってはお力添えをいただいても無駄だと存じます。ご好意は、決して忘れません」
 と、密使に伝えた。しかし利休はこのことを、側にいた者に、
「俺も天下に名を成した者だ。女性の嘆願によって死を免れたといわれては、末代の恥だ」
 と、武士のようなことを言っている。利休にとって、
 「まちぴと精神」
 というのは、このように堂々と武士の面目に通ずるものを持っていた。

■信長に、にじり口から入った以上は、あなたも私と同じただの人間だ、と告げた

<本文から>
  信長は大きく笑った。そして、
 「千宗易、考えたな」
 と上機嫌になった。利休はほっとした。
 実を言えば利休にとって、これは乾坤一擲の大勝負だった。信長が凡庸な権力者であり、にじり口から身を屈めて入らせたことに腹を立てれば、その場で体を反転させ怒って出て行ってしまうだろう。そして、
 「あの無礼な宗易を処分せよ」
 と、罰を与えるに違いない.
 ところが信長はそんなことはしなかった。にじり口から身を屈めて入って来たし、利休の、
 「にじり口から入った以上は、あなたも私と同じただの人間だ」
 と言われても、腹を立てない。逆に上機嫌になってニコニコ笑っている。千利休は信長の態度に感嘆した。そして、
 (こういう武士が、日本にもいたのか)
 と一驚した。
 あの日、利休が点てた茶を信長はうまそうに喫んだ。もちろん、その頃の信長は作法も何も知らない。差し出された茶碗をムンズと掴み、ガブリと喫んだ。その豪快な喫み方がひどく利休の気に入った。そういう喫み方もまた、
 「市中の山居」
 における、信長らしい喫み方であった。
帰り際に信長は言った。
 「茶というのは面白い。俺も習おう。おまえが師匠になれ」
と告げた。利休は平伏し続けた。そして、胸の中に今までになかった、大きな生き甲斐が湧いてきたのを感じた。

■茶の道は給与にもなると閃いた信長

<本文から>
 堺のまちの商人から茶の道を教えられた信長は、
 「これは政治に活用できる」
 と考えた。信長は天下への道をまっしぐらに走り上っていたが、部下に対する給与面で行き詰まっていた。その頃の給与はいうまでもなく土地で与えられる。だから武士たちには、
 「一所懸命」
 という考えが洗っている。一所懸命というのは、
 「ひとつ所に命を懸ける」
 という意味だ。ひとつ所というのは土地のことである。したがって中世から続いてきた荘園制の名残が強く、武士に限らず戦国時代の日本人の価値観は、「土地」を至上に考えていた。一所懸命というのは、
 「一坪でも土地を多く持ちたい。自分の土地を奪おうとする奴は、命懸けでこれと戦う」
 ということである.
 が、日本の国土はそれ程広くはない。信長は外国人の宣教師から、世界地図を見せられ、あるいは地球儀を見せられて、そのことをよくわきまえていた。
 「日本は狭い」
 というのが信長の実感だった。だから、
 「無定限、無定量に部下に土地を与えていたので、やがて日本の国土では収まりがつかなくなる」
 という土地不足、すなわち給与不足を痛感していた。いま信長が考えるのは、
 「土地に代わるべき価値のある物が要る。それも給与として与えられる物だ」
 ということだ。
 堺のまちで会合衆と呼ばれる商人代表たちに会い、千宗易という魚屋兼倉庫業者から、茶の点前を振る舞われた信長は、天才的な閃きによって、この解決策を発見した。
 つまり、
茶の道は給与にもなる。

■信長は茶会の開催権は一手に掌握した

<本文から>
 信長はさらに工夫した。それは、
「茶会の開催権は、自分が一手に掌握する」
と宣言したことである。つまり茶の会も簡単には開けなくなった。開く時は信長の許可を得なければならない。言ってみれば、茶会の開催をパテント制にし、その権限の一切を信長が一手に握ってしまったということである。
 こういう独占と制約は、信長が意図した効果を生んだ。それは彼の部下大名たちが、給与としての土地よりも、むしろ茶道具の名器を欲しがるようになったことである。
 「誰々よ。今度の手柄は見事だ。どこどこの土地をやろうか?」
 と言っても、その部下大名は首を横に撮る。
「それよりも、貴方様がお持ちになっているあのお茶碗をいただけませんか」
 と言う。あるいは、
「せめて芸の会を一度だけ開かせてはいただけませんか。それによって、私の勢威が高まります」
 と告げる。
 信長は胸の中でニンマリと笑う。
 (作戦が成功した)
 と思うからだ。
 こうして天下人の織田信長が軸になって、茶の道に関わりのある価値を新たに提出したことにより、土地一辺倒だったかれの部下大名の価値観が大きく変わっていった。先を争って、
 「名のある茶道具を手に入れよう」
 あるいは、
 「俺の名によって、茶会を一度開きたい」
 という願望が高まっていったからである。
 大名たちの茶の道に対する需要は、そのまま民間にも広がっていった。 

■利休が豊臣秀吉に抵抗し得たのは強靱な精神・まちびとの思想による

<本文から>
 たとえ茶の道を極めた茶頭の一員だといっても、しかし堺の一介の商人であった千利休が、なぜ日本の最高権力者である豊臣秀吉にそこまで抵抗し得たのか、考えて見れば利休の精神力には計り知れない強靭なものがある。
 かれのその強靭な精神は、あくまでも、
 「自分はまちびと(市民)である」
 と考えた自己保持にある。
 そして利休の考えた、
 「まちびと(市民)」
 の思想は、かれがはじめて日本で生んだものであった。かつての日本にはそういう考えはない。
 かれは、台子式大名茶に対し、佗びを軸とする町人茶を生んだ。これは、
 「権力者の独占であった茶を、大衆に解放した」
 ということである。同時にまた、権力者の台子茶には、山上宗二が言ったように、
「茶の名人とは、唐物を所持し、茶の湯も道具の目利きも上手、この道に志深き者をいう」
 という条件を設定したのに、利休はピタリ当てはまった。したがって山上宗二から見れば利休は、
 「茶の湯の名人」
 である。しかしだからといって山上宗二は、点前の名人だけを単に「名人」として貴んだわけではない。かれは他にも、
 「宗匠」
 と、
 「侘数奇者」
 の二系列を設定している。宗匠というのは、茶の技術に長けたいわゆる「茶の湯の者」である。
 侘数寄者というのは、
 「手許不如意(金がない)で、茶に志す者」
 をいう。山上宗二は、この侍数寄者について
 「一物も持たず、胸のかくごひとつ、作分ひとつ、手柄ひとつ、この三箇条の調たるをいう」
 と定義している。
 一物というのは唐物のことだ。つまり、志だけで茶の道に志している人々を侍数寄者といった。つまり侘びとは、
 「金も物もなくて、佗びしい存在」
 ということかもしれない。
 名人であった千利休は、この侘数寄者たちに深い関心を持った。高所から関心を持ったのではなく、自分を同列に置いた。したがってかれが、台子式の大名茶に対し大幅な改良を加えたのは、
 「大名茶を侘数寄者の茶に近づけよう」
  ということだ。 

■利休のまちびと精神は西洋かぶれと違う

<本文から>
 したがって利休の考える、
「まちびと(市民)」
 というのは、自分の身近なところで祖父をはじめ、「阿弥」と呼ばれた社会的劣位者たちの実態を身に染みて感ずると共に、同じ堺のまちの日比屋了慶の教会に集まるキリシタンたちの実態とが、入り交じって出来上がったものだといえる。
 だから、日比屋了慶や教会で人々を導く外国人宣教師たちが語る、
 「ヨーロッパのまちや市民」
 とも、ひと味違ったものを利休は頭の中につくりだしていたり
 そしてかれの自負心は、
 「自分が日本ではじめての市民になろう」
 ということであった。
 普通なら、そのまま西洋かぶれをしてしまう。つまり、外国人宣教師たちが教える、
 「解放された自我意識を持つヨーロッパの市民」
 に近付こうとし、その考え方や行動をそのまま取り入れたに違いない。
 しかし利休はそうはしなかった。最大の理由は、やはり阿弥という芸能者の存在である。阿弥たちは、自らの芸能をもって社会的対抗要件とし、また身分解放の武器にした。その意気込みや熱情にあてられて、足利義政をはじめ、多くの権力者たちが、この阿弥に接近し、かれらの特殊技能を生かした。

■戦う精神のまちびと思想

<本文から>
  利休はやがて、
「市民という言葉は、そのままでは日本に馴染まない。もっと和風の言葉をつくりだすべきだ」
 そう考えて、ついに、
 「まちびと」
 という言葉をつくりだしたのである。
 利休が自分の茶室を、
 「市中の山居」
 と言うのにも、その辺の意味が込められている。
山居という以上、もちろん茶を学んだ師の北向道陳や武野紹鴎の言う、
 「隠遁の精神」
 と無縁ではないことは確かだ。しかしそれは、
 「逃げるための基地」
 としての山居ではない。
 「前に出るための基地」
 としての山居である。つまり、山居に隠遁しても、それは一切の世事から脱走し、
自分分だけの閑寂に浸るということではない。現実に起こった問題に、
 「どう対処すべきか」
 ということを、静かに考え抜く場のはずだ。
 千利休が生涯を通じて、
 「非常に頑迷であり、また戦闘的であった」
 といわれるゆえんは、この、
 「戦う精神」
にある。
 考えてみれば、最後の最後まで日本の最高権力者である豊臣秀吉に対し、己を保ち続けたというのは、秀吉から見れば、
 「町人風情の最大の反乱」
 であったに違いない。しかもそれは、千利休という存在の、
 「たった一人の反乱」
 であった。しかし秀吉は、その"たった一人の反乱"に手を焼き通した。秀吉は、例の得意な人心管理方法であるニコポンや、金品のばら撒きなどをもって、利休を懐柔しようとした。しかし利休はその手に乗らなかった。最後まで己を保った。それは、かれの独創である、
「まちびとの精神」
 を、貫き通したからである。
 その意味でいえば、いま利休は、かつて親しくした博多の商人島井宗室にも、その"まちびとの精神"があったような気がする。 

■利休の切腹

<本文から>
 利休はコトコトとひとりで笑う。そして、
 (まさに俺は、秀吉を踏んづけてやりたかった。あの高慢な成り上がり者の頭を、一度でいいから踏みつぶしてやりたいと願い続けてきた)
 博多に流された古渓の入れ知恵だけとはいえない。利休自身にも、秀吉に対して、
 (あの高慢チキな鼻を叩き折り、存在そのものを踏みつけてやりたい)
 という怨念があったのである。
 しかしそれが見抜かれた。利休は観念していた。
(あの行いは、俺にすれば大人気ない。まさに秀吉公から見れば、その罪は万死に値するものだ)
 と考えている。
 したがって、いまよし屋町の屋敷に入って、静かに秀吉の罪の申し渡しを待つ身に、何の迷いもなかった。まさに、晴れ渡った夜空に明るい光を投げる月のような心境である。
 翌日、秀吉からの使いが来た。
 「関白様は、その方に切腹を申し渡された」
 と告げた。検使としてやって来たのは尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守の三人だった。
 千利休が切腹したのは、天正十九年二月二十八日のことである。当時の記録によれば、この日は大雨が降り、強い風が吹いていた。その嵐の最中に、利休は堂々と腹を切った。介錯をしたのは茶の弟子蒔田淡路守であった。かれは刀を一閃させただけで、見事に利休の首を斬り落とした。首は脇の部屋に控えていた後妻の宗恩に渡された。宗恩はすぐ、夫の首を白絹で包んだ。
 この時利休は、一首の歌と、称を残した。遺言の歌は次のようなものである。
  利休めはとかく果報のものぞかし
   菅丞相になるとおもへば
 菅丞相というのは、いうまでもなく菅原道真のことだ。菅原道真は、学者の身であったが時の帝に信頼されて、朝廷の高い位に昇った。それを妬んだ者が、道真の足 引っぱり讒言して、道真を九州の大事府に左遷した。そのため、大事府で死んだ道真の怨霊が都を走り巡り、疫病を流行らせ、自分を追い落とした連中を片端から呪い殺したという。
 利休が菅原道真に自分をなぞらえてこんな歌を詠んだのは、天正十九年の二月に秀吉によって、堺に追放された時のことだという。

童門冬二著書メニューへ


トップページへ