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<本文から>
戦国時代という時代はある息味で現代と似たところがある。
「下克上」
がつねだったのである。
この下克上というのは、ただ単に、下が上を乗り越えるとか上に克つということではなく、戦国武士の価値観、生き方のモノサシの置き方が、「主人に生活保障能力があるかなしか」にあったということである。主人にそれが欠けているときには、部下に見放されるということである。
この下克上華やかなりし時代には、主人側なのか部下側なのかは別にして、夫妻にも子供にも、
「同じ船に乗り合わせたという一心同体感」
があったと言える。言葉を換えて言えは、男女関係に違和感というものがなかった。夫と妻の追求するものはあくまでも一致していて、考え方の方法論で多少の食い違いなどが出てきたときにはチエを出し合って微調整していくという、「二人三脚」の時代であった。
秀吉が、″羽柴企業″の社長だとすれは、おねねは″社長夫人″である。トップの妻としてのおねねにとっては、私的な欲望の充足よりも、部下を養っていかなければならないというパブリックな、公な立場からの認識がどうしても優先されたのである。
まして秀吉は、足軽から天下人に登り詰めた男である。おねねにすれば、
「なんと大きな船に乗り合わせたものよ」
という思いは強かったと同時に、秀吉の立身出世に合わせて、ますます公的立場からの認識が強くならざるを得なかった。
こうした枠の中で、女性としての自主性、個人の自由というものを発揮していくことに努めたところに、おねね、後の北政所のえらさがあった。
もちろん秀吉の生き方を根本的に変えるような、根底からく覆すような生き方はできなかったにしても、本当の意味での内助の功が光った女性であった。そして、おねねが手本としたのが「近江商人の妻」であったということは、十分に注目されていい。 |
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