童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国・江戸 男を育成した女の才覚

■自主性、個人の自由を発揮した下克上の時代の妻

<本文から>
  戦国時代という時代はある息味で現代と似たところがある。
 「下克上」
 がつねだったのである。
 この下克上というのは、ただ単に、下が上を乗り越えるとか上に克つということではなく、戦国武士の価値観、生き方のモノサシの置き方が、「主人に生活保障能力があるかなしか」にあったということである。主人にそれが欠けているときには、部下に見放されるということである。
 この下克上華やかなりし時代には、主人側なのか部下側なのかは別にして、夫妻にも子供にも、
 「同じ船に乗り合わせたという一心同体感」
 があったと言える。言葉を換えて言えは、男女関係に違和感というものがなかった。夫と妻の追求するものはあくまでも一致していて、考え方の方法論で多少の食い違いなどが出てきたときにはチエを出し合って微調整していくという、「二人三脚」の時代であった。
 秀吉が、″羽柴企業″の社長だとすれは、おねねは″社長夫人″である。トップの妻としてのおねねにとっては、私的な欲望の充足よりも、部下を養っていかなければならないというパブリックな、公な立場からの認識がどうしても優先されたのである。
 まして秀吉は、足軽から天下人に登り詰めた男である。おねねにすれば、
 「なんと大きな船に乗り合わせたものよ」
 という思いは強かったと同時に、秀吉の立身出世に合わせて、ますます公的立場からの認識が強くならざるを得なかった。
 こうした枠の中で、女性としての自主性、個人の自由というものを発揮していくことに努めたところに、おねね、後の北政所のえらさがあった。
 もちろん秀吉の生き方を根本的に変えるような、根底からく覆すような生き方はできなかったにしても、本当の意味での内助の功が光った女性であった。そして、おねねが手本としたのが「近江商人の妻」であったということは、十分に注目されていい。

■男女平等のはしり、利家とまつ

<本文から>
 おまつは言う。
「それを承知であなたは十阿弥をお斬りになったのでしょう。原因はすべてあなたにあるので、他人にはありません。また、あなたの方に問題があるのかもしれません」
 「おれのどこに問題があるというのだ?おれは正しいぞ。そんなことは、おまえが一番よく知っているはずではないか」
 思わずカッとなって利家はおまつを睨みつけた。おまつはほほ笑みを失わないで、こう答える。
 「他人は自分の鏡だと申します。あなたが他人から蔑まれたり憎まれたりするのほ、あなたの方にも原因があるからではないでしょうか。あなたもカミやホトケではありません。今までに、自分が現在されていることを、他人にしなかったとは言えません。自分の立身につながるような人の所にはせっせと通い、そうでない人を見捨てたりしたことが、絶対にないと言えますか?」
 利家は言葉を失った。言われてみればその通りだ。確かに立身につながると思う先輩や上司の所には、お盆でも正月でも物を持って真っ先に訪ねた。そして、あまり自分の立身に役立たないような人物には、積極的には近寄らない。
 また世話になった人が隠居した後は、あまり訪ねていない。
 つまりそれは、「すまじきものは宮仕え」であり、その″宮仕え″における処世術なのだ。
 (確かに、その通りだ)
 そう思い始めると、次々と胸に浮かんでくる自分の今までの行為が、すべて鋭い牙を持って彼を責め立てた。利家は恥じた。そして、見えすいた慰めの言葉ではなく、強い言葉で言うおまつに、利家は逆に感謝した。こんなときに妙な慰めを言われれば、心はさらにへナヘナになる。そのまま崩れてしまう。おまつほ強い言葉で言いながら、その実、
 「しっかりしてください。勇気を出してください。あなたは決して間違ってはいないのです。そういう自信を持ってください。わたしが付いていますよ」
 と言っているのだ。
 「おまつ、すまなかった」
 利家は、さっきとは打って変わって柔らかい表情になった。表情が柔らかくなったということは、心も柔らかくはぐれたということである。
 利家は妻を見直した。つまり、単なる自分の伴侶としてだけでなく、「相談相手」としても、十分な能力を持っていると判断したのである。これはおまつに対する新しい発見だった。
 (おれはおまつを、単なる「伴侶」として扱ってきた。これからは、一人の人間として接していこう)
 と考えたのである。この当時は戦国時代の習い性で、
 「女は男に従属するもの」
 という考え方が支配的だった。そんな時代に、前田利家のこの考え方は、
 「男女平等」
 のはしりとして特筆に値する。それは、前田利家と仲のよい木下藤吉郎の場合も同じだった。藤吉郎もまた、妻のおねねに対してほ、「男女平等」という立場を保った。いや、藤吉郎の場合は逆におねねの立場の方が高かったかもしれない。おねねは黙ってはいない。藤吉郎の間違っているところは、ガンガン文句を言う。藤吾郎はそのたびに頭を抱えて閉口した。しかし、藤吉郎は生涯、おねねを「おかか殿」として敬った。藤吉郎は女性好きで、何人も側室がいたが、しかしその側室たちの取り締まりはつねにおねねに頼んだ。おねねこそいい面の皮だったが、おねねもまた心の広い女性で、喜んでこの役を引き受けた。
 利家はおまつに、
 「どうすれば、もう一度信長様にお仕えすることができるだろうか?」
 と聞いた。おまつは、ちょっと考えて言った。
 「木下藤吉郎様や柴田勝家様に、お執りなしをお願いすることが一つ」
 「それは、すでに頼んでいる」
 「もう一つは、信長様がご出陣になる合戦のたびに、あなたもそっと出陣して、手柄をお立てになることです」
 おまつが妙なことを言い出したので、利家は妻の顔を凝視した。
 「手柄を立てると言っても、それを正面からひけらかすようなことをなさってはいけません。あなたは謹慎の身なのですから、目立ってはいけません。それに、信長様が、そういうことをお嫌いになることは、あなたもよくご存じのはずです。ですから手柄を立てても、その手柄は木下様や柴田様だけがお知りになるような方法で、あなたはさっさと合戦場からここへ戻っていらっしゃい」
 利家は考えた。しみじみとおまつの顔を見た。やがてニヤリと笑った。
 「おまえはなかなかの策士だな」
 つくづく感じ入ったように言った。
 前田利家は、おまつの助言に従った。

■前田家存続のために人質になったおまつ

<本文から>
 わたしが進んで江戸城に行き、秀忠殿の人質になれば、家康殿もうかつには手は出せないでしょう。聞くところによれば、家康殿のご子息・秀忠様は、なかなか分別のあるお方のようです。情け深い二代目になるという評判も高いお人です。江戸城に行って、わたしから秀忠殿に事実を話せば、秀忠様は秀忠様なりのご理解をしてくださるでしょう。そして、わたしが人質になったということが天下に明らかになれば、徳川殿も前田家にうかつに手は出せなくなります。今前田家が取れる方法で一番いいのは、そうすることだと思います」
 「しかしそれでは母上が危険です。それに母上が江戸城に行って人質になれば、母親を犠牲にして自分が助かったと、この利長が世間で評判を落とします。どうかそれだけは思い止まってください」
 「そんなことを言っても、ほかにいい方法はありませんよ。どっちにしても前田家としては、いずれかの道を選ばなければならないのです」
 おまつが言うのは、現在の言葉を使えば、
 「マイナスの選択」
 である。家康を無視するのも、おまつが江戸城に行って人質になるのも、決してプラスの選択ではない。前田家は崖っ縁に立っている。危機を脱するためには、「身を挺する」以外の方法はない。が、同じ身を挺するにしても、
 「被害はどっちが少ないか」
 ということが選択のモノサシになる。
 必死になって母親の江戸行きを止めようとする息子に、おまつはこう言った。
 「武人は家を立て家臣や領民を守ることが第一の務めです。そのためには時に家族を捨てなければいけないときがあります。今がそのときです。利長、母を捨てなさい」
 有名な言葉である。
 利長は絶句した。ふだんやさしい母親が、その心の底に思いもしない強靭な魂を持っでいたからである。

■滝沢馬琴と嫁・お路

<本文から>
 馬琴が死ぬのは、嘉永元年のことだから、お路が馬琴の代筆をしたのは、足かけ八年に及ぶ。その間にあってお路は字を覚えたり、文章を覚えたりする血のにじむような苦労を続けたが、決して不幸だったわけではなかろう。いやむしろ幸福だった。
 よく人間の性格を誓えて、
 「水は方円の器に従う」
 と言う。水は柔軟な存在だ。方というのは四角い入れ物であり、円というのは丸い入れ物のことを言う。だから、
 「水は柔軟な存在なので、丸い容器に入れられれば丸くなり、四角い容器に入れられれば四角に変わる」
 ということだ。これはそのまま「環境と人間」に置き換えることができるだろう。方円の器とは環境のことであり、水というのはその中身である人間のことだ。
 「人間の気持ちも、環境によっていろいろ変わる」
 ということになる。お路がまさにそうだった。馬琴の手伝いをするようになってから、お路は次々と性格が変わった。今までの、すぐ突っけんどんにものを言い返すような癖がだんだん消えていった。「絶対にわたしは悪くありません」という頑固さも薄らいでいった。それはお路にとっての生活環境すなわち「器」が変わったからに違いない。そのことは側で口述をする馬琴にもはっきりわかった。馬琴自身もまた変わっていった。つまり馬琴も、
 「水は方円の器に従う」
 という原理を体験していたのである。
 その環境変化は、馬琴とお路の合作によって生じたと言ってもいい。馬琴とお路は、舅と嫁という立場で、馬琴の口述をお路が筆記するという作業によって結び付いたが、二人の心の変化が相乗効果を起こして、二人の生活環境を変えていったのである。
 滝沢馬琴が洋身のカを注いだ「南総里見八犬伝」はやがて大団円を迎える。この巻末に馬琴は次のように書いた(趣意による現代語訳)。
 「この女性に一字ごとに字を教え、一句ごとにかな使いを教えた。この女性は普通の字もほとんど知らない。もちろん漢字や雅言など知るはずがない。かな使い、てにをはもわきまえず、へんやつくりも心得ていないので、ただ言葉だけを告げて字を書かせるわたしの苦労は言葉に尽くせないものがあった。ましてわたしの口述を聞きながら字を書くこの女性の方は、まるで悪い夢の道をたどるような気持ちがして、ときには困り果てて泣き出すこともあった。幸いたものを一枚一枚読み返させ、いやそこは違う、いったいどういう字を書いたのだと確かめつつ、ここでまた字を教えることがしはしばだった。わたしの口述を本人の方は書いたつもりでも、やはり基礎知識がないので誤字脱字はもちろん、スポッと一カ所抜かしてしまうようなこともあった。特に、文中に故事などを引用するときには、自分の暗記していることが間違いだといけないので、原本を持って来てくれといい、ちょっと読んでみてくれないかと言っても、読めない。ここでまた、あらためて原文の読み方を指導しなければならなかった。しかしこの女性は実に根気強くまた熱心で、じつと我慢をしながらわたしの無理難題を聞き届け続けた。本当なら家庭の女性なのだから、縫物をしたり台所でかまどの世話をしていればすむ日々である。ところが彼女はそういうことを行ないつつも、わたしの口述を一日も早く完全なものにしようと、血の参むような努力を続けた。この女性の協力がなければ、この作品は決して完成することはなかっただろう。この小説が大団円にまで到達できたのは、ひとえにこの女性の協力のたまものである」
 最大限にお路の協力を賞賛している。
 これは大作家・滝沢馬琴の本当に偽らざる心根であったろう。
 いつ頃からかわからないが、お路は舅の馬琴に頼んで、
 「わたしにも何か号を付けてください」
 と言った。馬琴は、
 「号を付けて何にするのだ?」
 と開いた。お路は、
「お父さんの千万分の一もできませんけれども、どういうわけかこの頃、わたしがお父さんの文章を代筆した字を見て、色紙や短冊などに字を書いてほしいというお客様がみえるのです。少しそういうお求めに応じてみようかと思います。多少のお礼がいただければ、家計の足しになると思いますので」
「ほう、お路の字を欲しがる人がいるのか。そりやあまたずいぶん変わった人だな」
 馬琴がそう言うと、お路は眼の見えない舅の腕をそっとたたいて、
「お父さん、そんなにばかにするものではありませんよ。本当のことを言えば、わたしもお父さんに隠れて一所懸命字を習っているのです。ですから、多少のことはできるつもりです」
 と笑いながら告げる。馬琴はほのぼのとした気持ちになる。そこでお路に、
「琴童」
 という号を与えた。お路はこのもらった号を使って、色紡や短冊に自分なりの字を書いて客の求めに応じた。けっこう評判がよかった。お路にではなく、直接馬琴にそういう話をする訪ね人もいた。
 「あの愛想の悪い貧相なお路さんが、よくもこんなに変わったものですね」
 と感心する。馬琴には、それがほめ言葉なのか、くさしているのかよくわからない。
 こういう舅と嫁の関係を見て、俗人がすぐ考えるのは、
 「二人の間に男と女の感情はあっただろうかフ」
 ということである。わたしはそんなものはなかったと思っている。馬琴の方はずっと老齢だし、お路もまた張りつめた気持ちを持つ後家である。瞬間的にそういう気持ちが湧いたとしても、二人は無意識のうちに打ち消してしまっただろ。

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