童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国武将の宣伝術

■秀吉が使った宣伝術の中に「やさしさと思いやり」がある

<本文から>
 このころの秀吉は、竹中半兵衛を軍師にしていたが、半兵衛は、
 「合戦でいたずらに人の生命を奪うのはよくありません。それよりも兵糧攻めや水攻めにして、敵のカが弱まるのを待ち、大将ひとりに切腹させて他の部下は全部助けるべきです」
 といった。秀吉は賛成した。したがってその後秀吉の城を攻める方法はすべて櫓をつくったり、あるいは堤をつくったりして、城に食糧が入らないようにする兵糧攻めや水攻めに変わった。このために大土木建設工事がおこなわれた。これに従事する労務者に対して秀吉は全部賃金を払った。これが秀吉の名をさらに高めた。これもまた秀吉の巧妙な宣伝術である。つまり、
 「秀吉様は絶対に刀や槍を使わない。兵糧攻めや水攻めで敵の城を落とす。そして大将がひとり切腹すれば、他の部下は全部生命を助けてくれる」
 という評判を立てた。これはひとつの「世論」を生んだということになる。むかしの「信長様への忠誠心」あるいは「これだけは絶対に譲れない」という段階からさらに大きなCIに発展していったのである。いきおいCIが大きくなればなるほど、宣伝方法も大掛かりになった。
 このころ秀吉が使った宣伝術の中に「やさしさと思いやり」がある。これは主人の信長がどちらかといえば「部下に恐怖心を与えて統御する」という管理術を駆使していたので秀吉はひそかに(これでは長続きしない。いつか反乱者が出る)とみていた。そこで秀吉は少しずつ自分のやさしさや思いやりを部下に示すことによって、信長とは「一味違ったリーダーシップ」を発揮しはじめた。これが人気を博した。信長の一挙手二投足にピリピリしていた織田家の連中は、秀吉のこういうやり方に心服した。「サルはなかなかやるぞ」と評判になった。この人間的な魅力も秀吉のCIにまた深みを加えた。
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■北条早雲は忍者をPRマンとして活用

<本文から>
「木口での出入者の監視とチェック」
 と同時に、かれらは諸国へ散っていった。そして、
 「自分はこういう仕事をしている」
とおもて向きの職業をとなえながら、それぞれの国の実態を探った。戻ってくる
と、詳しく早雲に報告した。
 したがって早雲が、
 「城下町のまわりに土塁を築け」
 といったのは、いわば、
 「小田原城と城下町の秘密を守る」
 ということでもあった。だから小田原城と、土塁で囲まれた城下町とが一体となって、
 「城塞都市」
 を築いていたのである。戦国時代に例のないことであった。いざ合戦となったときは、城だけでなく町全体も防塁となって、敵を防ぐ。そういうチエを早雲は実現したのであった。しかし早雲にすれば、
 「いざとなったときに力を貸してくれる町民や農民は、われわれが守る義務がある」
と考えていた。だからこの考え方は、城下町の町民や農村地帯の農民にも伝わり、
 「ありがたいご領主様だ」
 と、早雲の徳を讃えるような風潮がわいていた。しかし実際には早雲のこの業績を城下町に普及したり、あるいは他国にPRしていたのはすべて前に書いた″裏武者″と呼ばれる″忍びの者″である。これらの忍びの者は″風魔″、″乱波″、″わっぱ″、″素破″などといわれ、それぞれ徒党を組んでいた。したがって早雲の、
「小田原の経営」
 は、ほとんどがこれら忍者が主力になっていとなまれていたのである。とくに他国へのPRは、この忍者たちが担当した。そしてこれらの忍者の束ねをしていたのが、早雲の第三子北条幻庵であったといわれる。幻庵は、
「幻庵流石組みの名人」
といわれ、芸術方面でも名を上げていたが、実体は早雲が策した、
「忍者をPRマンとして活用する」
という戦略の指揮者であった。
 幻庵もまた、おもて向きは芸術家の装いをこらしながら、実体は多くの忍びの者を管理監督する役割を負っていたのである。
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■伊達政宗の風流心、瓢箪から白馬

<本文から>
 ある日伊達政宗もこの香合わせに参加した。ところがかれが出したのは、普段腰からさげている粗末な瓢箪だった。政宗はよくこの瓢箪に酒を入れていた。他の大名たちは顔をみあわせた。そして眼で、
「伊達政宗はやはり東北の山ザルだ。どんなに自分の軍団を美しくいろどり鮮やかに着飾ってみても、大将の政宗自身には風流心などかけらもない。あんなみすぼらしい瓢箪を出すようでは、底が知れている」
 とささやき合った。
 そのために、せっかく香木を当てても、政宗の瓢箪を貰った大名は喜ばなかった。
「こんな物か」
と軽蔑したように舌を鳴らした。ところが政宗はその大名にいった。
「いや、わたしの賞品はその瓢箪だけではありません」
「他にまだなにかいただけるのですか?」
大名がそうきくと、政宗はわらいながらうなずいた。そして近くの木を示した。
「あそこをご覧ください」
 みるとその木の幹に、一頭の見事な白馬がつながれていた。みんないっせいに驚きの表情をした。あまりにも馬が見事だったからである。政宗はいった。
「あなたには、あの馬もさし上げます」
「え」
 瓢箪を貰った大名はびっくりした。
「あんな見事な馬をわたしにくださるというのですか?」
「そうです」
「なぜですか」
 そう聞く大名に、政宗はこう答えた。
 「よくいうでしょう、瓢箪から駒が出ると」
 これには香合わせに参加していた大名たちがいっせいにアッと声をあげた。そして、さっき政宗のことを、
 「東北の山ザルだ、風流心がまったくない」
 とささやき合ったことを後悔した。政宗の風流心はこのようにほんものだったのである。
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■直江兼続の人間愛

<本文から>
「自分の理想が地方で実現されるためには、やはり強力な指導者が出て、この日本を統一しなければだめだ」
 と思っていた。そして、
「わが主人故謙信公や、二代目景勝公にはそのカがない。やはりその力を発揮できるのは、故織田信長公の遺志を継いだ豊臣秀吉殿以外にいない」
と感じていたのである。だからかれが、
 「殿下の例にならいました」
といって、秀吉の千成瓢箪のPR方法を例に取ったのも、決していい加減なことをいったわけではない。単なるおべっかではなかった。つまり兼統にすれば、
「殿下は、ナショナル・ミニマムを実現なさったお方であり、その恩恵によってわれわれはローカル・マキシマムを実現できます」
 ということである。
 したがって、かれは豊臣秀吉のナショナル・ミニマムに依存しながら、自分たちの役割であるローカル・マキシマムを実現していきたい、ということなのだ。そしてその両者を結びつけるのは、
 「人間愛」
 ということだった。
 兼続の説明をきいた秀吉は、半分は理解したが半分はよくわからない。
 (直江は頭がいい。それなりの考えがあるのだろう)
 いずれにしても直江兼続は、豊臣秀士口に対してつねに敬愛の念を表わし続けた。秀吉にとって快い。直江には特別目をかけた。
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■徳川家康は律義な大将だとのPR

<本文から>
 おそらく信玄は、あなたのおられる浜松城を攻めることなく、遠くを通過するはずだから、そのまま見過ごしてください。決して手を出さないように」
 と告げた。が、家康は考えるところあって、この信長のことばには従わないつもりでいた。
 それは、
 「たとえ信玄が浜松城の北の道を通るとしても、自分にとつては庭先を荒らされるようなものだ。黙って見過ごすわけにはいかない」
 ということと、同時に、
 「たとえ負け戦でも、この合戦をきっかけに徳川家が主従一体となる心の結束を固めるのだ」
 と思っていた。そして、このときの家康は、
 「たとえ部下が裏切っても、自分はぜったいに部下を裏切らないという証拠をみせるのだ」
 と意気込んでいた。だから三方ケ原の合戦は徳川家康がはじめから、
 「負け戦を承知で、打って出る」
 という積極的な合戦であった。武田信玄は信長がいったとおり浜松城の北方を通過しようとした。信玄軍が通過しはじめると家康はすぐ、多くの部下の反対を押し切って、
 「信玄軍になぐりこみをかける」
 と発表した。部下たちはおどろいた。しかし一部の部下たちは、
 「たのもしい大将だ」
 と思った。家康はこのとき三十一歳である。
 相手の武田信玄は名将の名が高い。それに家康軍はせいぜい八千、信玄軍は二万だ。数の上でもかなわない。しかし家康は打って出た。そしてさんざんに敗れた。
 が、この合戦では家康は先頭に立って、みずから敵陣に切り込んだ。そして敗れたのちも、最後まで踏み止まって部下を安全に逃がした。この姿をみていた部下たちは感動した。
「この若い大将は、部下を決して見殺しにしない。たよりがいのある大将だ」
 と感じた。すでに、
「武田信玄の大軍にはかないっこない。それなら信玄についたほうがいい」
 といって家康を裏切り、武田軍にまぎれこんでいた部下たちも、徳川軍の先頭に立って戦う家康の勇姿をみて、考えを変えた。
「自分たちがまちがっていた。家康様はたよりがいのある大将だ」
 と考え、どんどんこっち側へ戻ってきた。
 敗れはしたが、この合戦によって徳川家康の武名が上がった。
 家康は、どんな窮地に陥っても籠城などせずに、武士の面目にかけて堂々と打って出た。
 しかもふつうなら、大将はいちばん後で待機しているのに家康は真っ先に敵陣に切り込んだ。
 戦に敗れたあとも、部下のひとりひとりの無事を見届けるまでは戦場に踏み止まっていた。
 家康を裏切った部下はたくさんいたが、家康自身は決して部下を裏切らなかった。部下を見殺しにはしなかった。
 ということで、諸国の大名のあいだに、
 「徳川家康は律義な大将だ」
 という評判を高めた。この、
 「律義な徳川家康」
 という評判はその後の家康に終始まといつく。
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■蒲生氏郷−手柄をたてた部下を我が家の風呂に入れる

<本文から>
「手柄を立てた部下を家に呼んで、ごちそうをしよう」
 ということである。合戦のときに、めざましい手柄を立てても給与を増やしてやることができないからである。あるとき、ある部下に、
 「今度の休みに、おれの家にこい。この間の合戦でおまえはすばらしい手柄を立ててくれたが、給与を増やしてやることができない。代わりに、いっしょに酒を飲もう」
 と告げた。休みの日、部下がよろこんでやってきた。すると氏郷は、
 「酒を飲む前に、まず風呂へ入れ」
 といった。部下はいわれたままに風呂場へいった。湯船につかっていると突然外から、
 「どうだ、湯加減は?」
 という声がした。びっくりして外を覗くと、風呂のかまどの前に氏郷がうずくまっていて、一所懸命火吹き竹を吹いている。部下はびっくりした。
 「殿さま!」
 と声を上げると、氏郷は窓から覗いた部下の顔を見上げてニッコリわらい、
 「この間の合戦でおまえが立てた手柄によって、おれが面目をほどこした。が、報いてやることができない。せめて、風呂の火を燃してその償いをしようと思っている。ぬるかったらいえ。どんどん火を燃すぞ」
 そういった。部下は感動した。風呂から出た後いっしょに酒を飲んだが、部下の心は舞い上がっていた。
 このことがすぐ部下から洩れた。蒲生氏郷の家来たちは、その後、
「なんとかして、自分も殿さまの家の風呂に入れていただきたい」
 と思うようになった。これは別な角度からみれば、氏郷が、
「金品以外の別なものに価値を与えた」
という新しい報償制度を確立したということだ。ことばを変えれば、
「部下が働くモチベーション(動機づけ)は、かならずしも金銭だけではない」
 ということである。もっと違ったいい方をすれば、
「部下は、人生意気に感ずというような心のバネによっても勤労意欲を高める」
 ということだ。氏郷は別に心理学的にそんな研究をして、
「こうすれば、部下はこう反応するだろう」
 などというような計算をしたわけではない。
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■蒲生氏郷は家臣自身に手柄の申告をさせ心をつかむ

<本文から>
 合計すると、重役の思ったとおりだった。新しく貰った収入の二倍以上になっていた。重役は氏郷のところにいって報告した。
「だからいわないことじゃありません。申告額の総額は、今度の新しい収入額の二倍以上になってい£す」
 と告げた。そして、
 「どうします?」
といった。氏郷はわらって、
 「申告額どおり支給してやれ」
といった。重役は目をむいて、そんなばかなといい返した。しかし重役は、蒲生氏郷がいかに部下を愛しているかを知っている。このままでは氏郷に対してもすまない。そこで重役は、
 「わたしに任せてください」
 そういって、氏郷の前から下がると全武士を大広間に呼び出した。そして、
「おまえたちはばかだ。殿さまはああいう方だから、おまえたちの好き勝手な申告額をそのまま支給してやれとおっしゃる。しかしそんなことはできない。おまえたちの申告額を全部合計したら、新しい収入額の二倍以上になっている。そこでだ、これをもう一度さし戻す。みんなで討論しょう」
 そう告げた。武士たちも氏郷の愛情深いことは知っている。顔をみあわせた。
「少しオーバーに申告しすぎたかな」
 などと反省の声が湧いた。部下たちは討論をはじめた。一件一件申告者が自分の手柄と、それにみあう希望額を述べると、たちまち異議の声が起こる。
「うそだ、その手柄はおれが立てたもので、おまえではない」
 とか、
 そんな程度の手柄で、そんな多額の給与を要求するのは間違いだ」
 という、いわば、
 「申告額の査定」
 がはじまった。大激論になる。が、このときの武士たちの討論の底には、すべて、
「主人の氏郷さまは、われわれのことを心配してこういうことをさせてくださるのだ」
 という思いがあった。自分の給与を自分で申告するなどということは、戦国時代には例がない。蒲生氏郷がはじめておこなった方法である。
 武士たちは熱心に討議した。討議しているうちに、いわばひとつの基準が生まれてきた。つまり、
 「こういう手柄には、このくらいの額が適当だ」
 というモノサシである。これが合意されると、そのモノサシによって、
 「おまえの手柄は、このくらいが適当なのではないか」
 「おまえの手柄は手柄とはいえない。申告額はゼロにしろ」
 という取り決めができた。この討論が終わったとき、申告総額は新しい領地の二分の一程度に収まった。重役は満足して氏郷のところへいった。
▲UP

■徳川家康は律義な大将だとのPR

<本文から>
 この″使われる側の論理″が武士の常識であった戦国時代に、石田三成は、
 「主人への無私の忠誠心」
 というものを考え出し、これを実践しようと思い立った。いっさいの私欲を捨てて、
 「主人である豊臣秀吉公にいれこもう」
 と考えた。いれこむというのは、現代のことばをつかえばハマるということだ。三成にとっては、
 「それが、おれがはかの武士とはひと味ちがうことを示すことになる」
 ということである。石田三成の自己宣伝のモチーフは、この時代ではまだ例のすくない、
 「主人へのかけ値のない忠節心」
 という″美学″だった。かれは秀吉からもらう給与は、そのほとんどを秀吉のために使った。
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