童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国武将に学ぶ生活術

■織田信長 情報で同時代人のニーズ把握

<本文から>
  織田信長は、戦争の天才あり、戦争好きといわれているが、決してそうではない。逆説的な言い方をすれば、「織田信長は、戦争を早く終わらせるために、新しい戦争の方法を考え出した」と
 いうことができるだろう。
 何のために戦争を早く終わらせたいと思ったかといえば、信長は生まれつきの情報重視論者であつたからである。かれが情報に対して貪警気持ちを持っていたことは、数々のエピソードが物語っている。
 織田信長は、若い噴から、うつけ、たわけ、バサラなどと呼ばれていた。なぜそう呼ばれたかといえば、かれが常に尾張の城下町をうろつきまわっていたからである。何のためにうろつきまわっていたかといえば、かれは旅人に積極的に接触した。かれにいわせれば、今の言葉を使うと、「新幹線、インターネット、携帯電話、テレビ、自動車などがない時代に、人がある国からある国へ歩いていくということは、そのまま情報が歩いていくということだ。これをつかまえない手はない」
 と考えていたからである。
 では、「何のために旅人に接触するのか」と問えば、かれはこう答えただろう。「いま生きている同時代人のニーズ(需要)を知るためだ」
 かれはやがて、「天下布武」というはんこを使う。この意味は、「天下に武政をしく」ということだ。武政というのは、「武家が政権を握って政治を行う」ということである。その裏には、「公家(貴族)政治はダメだ」という見限りがある。そしてこの時織田信長が「公家政治」とみたのは、足利将軍による室町幕府の政治であった。信長からみれば、「もともとは武士のはずなのに、足利家はいつのまにか貴族化してしまった。やっていることはすべて公家の暮らしだ。あんなぜいたくな暮らしをしていたのでは、一般民衆のニーズは把握できない」と断定していた。今でいえばかれは、「書を捨てよ、町に出よう」という寺山修司さんの言葉を実行していたといえる。
 「城の中にいて、ああだこうだと考えていては民衆が何を求めているのかつかむことはできない。それよりも自分が城下町に出ていって民衆と共に行動することによってニーズを把握することができる。しかも日本全体のニーズを把握するのには、何といっても旅人に接触することだ」と考えていた。信長にとって旅人は、「情報をもたらす媒体」であったのである。

■信長と秀吉のちがい 芸術と政治のあり方

<本文から>
 織田信長の事業を継続した豊臣秀吉は、天下人になると芸術家を虐待した。虐待したというよりも、「芸術家も政治権力のもとに屈服すべきである」と考え実行した。千利休が殺されたのはそのためだ。利休は、「織田信長様は、茶人という芸術家を尊敬した。つまり芸術の分野は、政治の分野と両立するものであって、上下関係はないとお考えになっていた。いってみれば芸術の分野はサンクチュアリ(他のカのまったく及ばない聖域)とお考えになっていた。それなりにわたしたち茶人にも尊敬してくださった。ところが豊臣秀吉様は違う。秀吉様はすべての分野が政治権力に屈服しなければ気がすまなかった。わたしに対しても、家臣として仕えることを求めた。それはわたしにはできない。わたしは茶の世界における王者だからである」といった。
 この千利休の考え方にもよくあらわれているように、織田信長と豊臣秀吉とでは人間性がまったく違う。秀吉はやはり農民の出身で天下人にまでのし上がったから、「天下人というのは最高の権力者である。政治だけでなく、芸術も支配する」という驕り高ぶった考え方を持っていた。
 信長は、この時代では、「能力主義」をとりつづけた経営者だ。トップリーダーがこういう考え方をしていたから、かれのもとには有能な人間が多く集まった。信長は、「身分など関係ない。オレの天下のためにどういうカが発揮できるか、その能力本意によって評価する」と告げた。
 しかしかれは、「オレは、天才は好きではない。それよりも苦労して身につけた努力による能力を高く評価する」と告げている。天才だった信長にしてはおもしろいいい方だ。しかしかれは事実、「天才よりも努力家を高く評価する」という部下の評価方法をとった。これによって、豊臣秀吉や明智光秀がのし上がってきたのである。
 かれらは信長のいう、「流動者(旅人、悪くいえば放浪者)」の出身である。信長の右腕・左腕となった明智光秀や羽柴秀吉は、まさに流動者出身であった。信長にいわせれば、「このふたりは流動者出身であるだけに情報通である」ということである。明智光秀は当時の大名やその重役たち上層部にあかるく、秀吉は出身のせいか民の情報にくわしかった。信長は居ながらにして、「上と下の情報」に通じることができた。

■武田信玄は 小さな中枢、大きな現場

<本文から>
 武田信玄は、さらに他の戦国武将とは違って画期的なことを行った。それは、かれは甲府に大きな城を作らなかったことだ。かれの居舘の跡は、現在武田神社になって甲府市にある。甲府城というのが残っているが、これは江戸時代に作られたもので、信玄が作ったものではない。
 つまり信玄は自分の部下に対して、「人は城 人は石垣 人は堀」といい切った以上、自分の居館となる大きな城は決して作らなかった。つまり、部下が全部城であり、石垣であり、堀であれば、そんなものは必要ないという考えだ。
 しかしこれは単にそういう理解で済むものではない。信玄の行ったことは、現在でいえば、「小さな本社、大きな現場」ということだ。言葉を換えれば、「組織の管理中枢機能は極力コンパクトにして少数精鋭主義でいく。そこで余らせたヒト・カネ・モノは、現場にまわす」ということだ。
 ヒトというのは人材だ。カネというのは予算だ。モノというのは資材である。
 信玄は、「何といっても実際に仕事をするのは現場だ。そこで必要とする人間や予算や磯材を、本社の方が全部奪い取って現場を痩せさせるようなことをしたら、逆三角形になってしまう。組織というのはピラミッド型の安定した三角形を保つべきだ」と考えていた。
 そのとおりで、組織というのはビラミッド型に構成される。そして仕事に応じて三つの層に分かれる。トップ・ミドル・ロウである。首脳部・中間管理職・一般の働き手ということだ。数からいえば、当然下にいくにしたがって増えてくる。ところが全体に、管理中枢機能を肥大化させ、自分のまわりにたくさん人を集めてウハウハ喜んでいるトップが多い。
 信玄はこれを戒めた。現在でいえば企画・人事・財政・広報などのセクションは、極力人を減らし巨大化させないという方針をとった。この考えを総合的にあらわしたのがすなわち、「人は城 人は石垣 人は堀」なのである。

■細川重賢の改革 まず現場から待遇改善

<本文から>
重賢は、「今は非常時なのだから、普通の人間では役に立たない」と考えていたからである。呼び出された堀平太左衛門は、細川重賢の話を聞いた。そして辞退した。
 「到底わたくしには務まりません」
 「そんなことをいうな。わたしがおまえを見込んで頼むのだ。どうか改革の総指揮をとってもらいたい」
 「できません」
 「なぜできぬ?」
 「重役人にはボンクラが多く、肝心な情報も正しい指示も下の方に示しておりません。今のような状況ではわたくし一人でどんなにがんばっても、何もできません。ですからお断りするのです」
 「そのへんを改めよう。おまえが思い切った案を立てればわたしが指示して守らせるようにする」
 「本当ですか?」
 堀は顔を上げて疑わしそうに垂賢の方を見た。重賢は堀をまっすぐ見返し大きくうなずいた。
 「おまえのいうことはよくわかる。わたしも同じことを感じている。本来ならトップのいうことがミドルを通じてロウに伝えられ、仕事がはかどっていく。見ているとどうも真ん中のミドルのところで情報が留まり、あるいは下からの意見も留っている。
 つまり、トップとロウの間に立つべきパイプが曲がっているか、ゴミがたまっているかしているのだ。これをまっすぐ直さなければ、改革は進まない。おまえがまっすぐ直す案を考えよ」
 「わかりました」
 堀の表情は変わってきた。垂賢の話を聞いて、(この殿様は本気だ)と感じたからである。同時に、(この殿様なら、自分が今まで考えてきたことを実行してくれるかもしれない)という希望の光がかいま見えたのだ。
 そこで堀は重賢にいった。
 「改革には当然、まず大倹約を行うこととその次に増収策を展開することと、人づくりを行うことなどが柱になります。しかし大倹約というのは当然城の中の仕事を全部見直す必要があります。見直すということは、やらなければいけない仕事はさらに人や金をつけ、やらなくてもいい仕事は思い切ってやめてしまうということです。人や金を増やされるところは喜びますが、仕事を取り上げられるところは怒ります。人間というのはやはり保守的なもので、総論賛成・各論反対のクセがあります。自分の仕事がなくなったり職場が廃止されるのを喜ぶ者は誰もおりません。そういう嫌がる連中に協力させるには、何といっても改革の目的を徹底的に知らせ納得させなければなりません。
特に現場の納得が必要です。まず、殿様から今度の改革のご主旨を、文書にして全員に告げてください」
 「それはいい方法だな」
 重賢は賛成した。
 重賢も心の中で、(自分の新しい経営方針を全藩士に徹底したい)と考えていたからである。
 しかし自信がなかった。
 つまりそんなことをしても、「新しい殿様は、口先だけで改革を行おうとしている。改革はそんな甘いものではない。実際に痛い思いをするのは現場の方なんだ」という声が起こってくると思っていた。
 重賢自身は自分から範を示して倹約生活に入るつもりでいたが、見方によっては、「そんなことはあたりまえだ」ということになるだろう。
 しかし、今堀乎太左衛門が、「あなたの考えを全員に知らせて欲しい」といってくれたことには感謝した。そこで重賢は、自分の考えを文書にまとめた。細川重賢の「五か条の訓諭」と呼ばれているものである。
 訓諭を出すについては堀平太左衛門は、「極力下級武士が納得するような呼びかけをしてください。何といっても改革を現実に推進するのはかれらなのですから」といった。また、「訓諭はいいっぱなしではダメです。下級武士たちがやる気を起こすような待遇改善も考えてください。今は藩が貧乏なので上から下まで一律パーセントで給与が減らされております。せめて下の方だけでも元に戻してください。同じ何パーセント減といっても重役人の何パーセント減と下級武士の何パーセント減とでは、痛みが違います。重役の方はそのまま据え置き、まず下級武士の方から元に戻していただきたいと思います」
 重賢は感心した。なかなかこんなことはいわない。堀も上級武士の一人だ。しかし堀は、「わたくしは改革の全体指揮を取るのですから、わたくしの給与だけは元に戻してください」などというセコいことはいわなかったのである。

■黒田長政の異見会、決断をするのはトップの責任と諫める如水

<本文から>
 若者のいうことが目からウロコを落とすような内容だったからである。すうなると若者は得々と自分の考えを語った。若者の言葉は座を感動させた。話が終わると長政が真っ先に拍手した。そして、「君の意見は非常にいい。さすが今の時代を敏感にとらえている。どうだみんな、かれの意見に従おうではないか?」といった。全員が「そういたしましょう」と異口同音にいった。
 今まで何もいわずに脇にいて聞いていた如水は思わず胸の中で、「チッ」と舌を鳴らした。しかしその場で長政をとっちめる訳にはいかないので、黙って座を立った。長政はびっくりした。こんなことは初めてだったからである。長政は敏感に、(父上はご気分を悪くされた)と感じた。
 そこで急いで、「今日の会議はここまでとする」と宣言して異見会を閉じた。そしてすぐ如水の隠居所へ急いだ。むっつりと不機嫌な顔をしている父にきいた。
 「父上、ただいまの異見会で何かご気分をそこねるようなことがございましたか?」
 「ああ、あった」
 「何でございましょう。わたくしが何か失策をいたしましたでしょうか?」
 「した」如水はぶっきらぼうに答える。
 長政はびっくりした。長政にすれば、最近自分の議長ぶりは見事でみんなの評判がいい。つまり、
 「父上の如水公と違って、長政公は独断専行をしない。いつもみんなの意見をきいた上で結論をお出しになる畑どんな下っぱの意見でもよくおききとりになる。非常に民主的な議長さんだ」といわれていた。だから長政にすれば、「自分の異見会の運営は決して間違っていない。父はどちらかといえば自分の考えを部下に押し付けるところがあったが、自分はそういうことをしない。それは父の時代は戦国時代でそうしなければならなかったからで、今は平和だ。平和な時には、合議制を重んじみんなの意見をききながら、ひとつの結論を出していく人が大切なのだ。つまり根気と時間がいる。自分はそれを十分にわきまえているつもりだ」と、自分のやることに自信を持っていた。福岡城内でも、「長政公は非常に民主的な殿様だ」と好感を持たれていた。
 ところが今日のオヤジはそれが気にいらないらしい。(いったいどんな失敗をしたのだろう?)長政に思い当たるところがなかった。
 そこで、長政は「どこが悪かったのか、おっしゃっていただけませんか?」といった。如水は振り向いてギロリと息子をにらみつけた。
 「ではいうぞ。これは前々から気にしていたことだ。落ち着いてきけよ」
 「はい。伺います」いつもに似ず、長政の方も少し挑戦的だった。(わたしのどこが悪いのですか?というような不満が、つっかかるような言葉に表れた。如水はこういった。
 「この城の中に異見会を設けたのは、確かにおまえが考えているように、城に勤める武士全体からいろいろな考えをきき、それを主として決断を下す時の参考にするためのものだ。異見という特別な字を使ったのも、人と同じことをいうな、違うことをいえという気持ちがあったからだ。
 ところが最近はちがう。みんな同じようなことばかりいっていて、お互いに自分のいいたいことを通すために人の意見をそのままうのみにするという傾向が強くなった。そして最も悪いのは、会議を束ねるおまえが、迎合するようになったことだ。本来主というのは、自分が決断するための意見を下から求めるということであって、下の意見にそのまま従うということではない。かねがねわたしはそのことを心配してきた。今日おまえはついにその過ちをおかした。というのは、今年入ったばかりの新参の若い武士がいったことに、おまえは、あの意見に従いましょうといった。部下のいうことに従う主人がどこにいるか。
 つまりわたしがいいたいのは、みんなにはどんなことをいわせてもいい。しかし決めるのはおまえだということだ。決断というのは主人一人のものであって部下に渡すことはできない。つまり、部下に渡さないということは、決断したことの責任は絶対に主人が逃れることはできないということだ。そのへんをおまえははきちがえている。今のままだと黒田家は非常に危機に陥るぞ」
 「・・・」
 父親の話をきいた長政は真っ青になっていた。目がつり上がっている。胸は鼓動で早鐘を打つようだ。長政もバカではない。父のいうことはわかった。(いわれるとおりだった)反省の気持ちがわいた。同時に絶望の念もわいた。
 (オレはダメ息子だ。到底オノヤジにはかなわない)と感じたのである。

■石田三成 洪水に米俵を活用

<本文から>
しかし水の勢いが激しくてなかなか治まらない。秀吉はいら立った。脇にいた三成に、「三成、何とかしろ」と命じた。三成は水勢をじっと見つめていたが、やがてこういった。
 「水を静めるのに、お倉の米俵を拝借してもよろしゅうございますか?」
 秀吉は、眉を寄せた。
 「米俵を何に使うのだ?」
 「土俵の代わりに使います。今から土俵を作らせても、到底間に合いません」
 「なるほど」
 こんなことをいい出されたら、普通の人間だったらいきなり、「何をバカな!」と目をむくに違いない。「いかに何でも、大切な米俵を、土俵の代わりに使うとは何事か!」と怒るだろう。
 しかし秀吉の器量は大きい。同時に三成を信頼していた。秀吉は即座に、(なるほどこいつは頭がいい。土俵の代わりに米俵を利用するなどというのは、なかなか他の人間には思いつかない)そう思ったから、「わかった。使え」といった。
 三成はすぐ部下を動員して、「城のお倉や、京橋口のお倉に保管されている米俵を運びだせ。そして、労務者たちを動員し淀川の決壊場所に積め」と命じた。みんな驚いた。
 「土俵の代わりに米俵を? もったいない話だ」そう思ったが、三成のきびしい表情を見ると急いで次々と倉から米俵を担ぎ出した。
 臨機応変の才覚によって、決壊場所に米俵が積まれ水は治まった。秀吉は三成の才覚に感心した。
 しかし三成の才覚はそれで終わった訳ではなかった。川の流れが静まると、三成は高札を立てた。
 高札には、「丈夫な土俵を一俵持ってきた者には、ここに積んだ米俵と交換してやる」と書かれてあった。つまり、「新しい土俵を持ってきた者には、川の決壊場所に積んである米俵を一俵与える」
 ということだ。
 付近の住民たちは、「本当かよ?」と顔を見合った。しかし、試しに土俵を担いでいった住民が、すぐ濡れた米俵一俵を担いで戻ってきたのを見ると、みんなは、「本当だ」と目を輝かせ、次から次へと土俵を作った。
 しかし石田三成は、住民たちが担いできた土俵をすぐ米俵と交換した訳ではない。かれが先頭に立って、土俵のでき具合を十分に調べた。いいかげんな作り方をしてきた者には、「こんな俵では役に立たぬ。作り直してこい」と命じた。住民たちは、「石田様はいいかげんな土俵では米俵をくださらない。オレたちも腹をくくってしっかりした俵を作らなければダメだ」といった。いいかげんな土俵を持ってきた者に三成はこういった。「丈夫な土俵を求めるのはオレではない。おまえたち自身が、洪水から自分たちを守るために必要なはずだ」
 このいい方は説得力を持った。住民たちも考え直した。
 「欲得ずくで俵を作ってもダメだ。自分たちの村は自分たちで守るという考えがなければダメだ。それを石田様は教えてくださった」
 こうして濡れた米俵は全部新しい丈夫な土俵に代えられた。

■北条早雲の優れた町経営

<本文から>
諸国から呼ばれた技術者や商人には、山海の珍物、琴、碁、書、画、小細工、舶来品などの文化的芸術品を売るような商人も集められた。
 技術者として集められたのは、鍛冶、鋳物師、大工、皮つくり、唐紙、表具師、大鋸引、銀細工師、螺錮師、縫物師、紙漉き、桶師、笠木師(鳥居や欄干をつくる技術者)、刀の柄巻師、舞々師、鳴門師、石工などであった。
 おもしろいのは、これらの枝術者を束ねるのはすべて"忍びの者"であったことである。
 これらの連中は、"風魔"、"乱波"、"わっぱ"、"素破"などと呼ばれた。まとめて、「裏武者」といわれていた。北条早雲は、さすがに戦国時代の武将であっただけに、調略の術に長けていた。調略の根本は何といっても、「情報を集めること」である。逆に、「ガセネタを流すこと」ということだ。ガセネタを流して敵をかく乱する。あるいは、ニセの情報を信じさせて裏切り者をつくりだす。これらのことは、戦国大名の誰もが行っていた。その意味では、「東国に理想郷をつくりたい」と志す早雲にしても同じだった。いや、理想郷を戦国時代につくろうなどということは到底不可能なことだったから、よけい、「調略」を使わなければならなかったのである。その点、北条早雲は、「忍者の活用者」としても超一流人であった。
 早雲はさらに、「土地の人々の心の捲り所」としての信仰の対象である神社仏閣に対しては手厚い保護を加えた。壊れた寺社は修理し、それぞれ必要経費の面倒をみた。これがまた早雲の評判を高めた。
 こういう都市経営の中で、早雲が特に力を入れたのが、「薬業の保護」である。
 薬業の知識は前に書いたように、早雲は放浪時代から身につけていた。
 したがって、「病気になった人にまず必要なのは薬だ」と考えていた。
 「薬業を商店街の核にしよう」などと考える戦国武将は早雲の他にあまりいない。
 この目的を達成するために、早雲は京都から宇野藤右衛門定治という人物を招いた。永正元(一五〇四)年のことである。
 宇野藤右衛門定治という人物は、日本名を名乗ってはいるが、実は中国から日本に帰化した渡来人である。宇野藤右衛門は、もとの名を陳延祐といった。元の人である。元では重い役について、礼部員外郎というポストにあった。が、元が明に滅ぼされた時に亡命し、日本の筑前博多にたどりついた。この時に、「陳外郎」と、自分の職名をそのまま名に変え、すぐ日本に帰化した。
 この陳外郎の息子が、足利義満の命を受けて明にわたった。足利義満は三代の将軍だったが、明との貿易に力を注いでいた。この時陳外郎の子が中国から大量の漢方薬を持ってきたが、この薬が京都御所の公家たちの評判になった。冠の中にいれて、髪の臭気を防ぐなどに使われたために、「透頂香」という名がついた。しかし一般的には、「外郎の薬」と呼ばれた。透項香は単に香料として使われただけではなく、疾、咳、胃腸、中毒、乗物酔い、めまい、心臓その他の急病の特効薬としても有名になった。
 陳外郎は、やがて、足利九代将軍義政から、「宇野源氏の名を継いでよい」という許可をもらって、宇野と姓を改めた。そして初代が宇野藤右衛門定治である。
 実をいえば、外郎家は香具師の関東総領(関東の支配責任者)だった。したがって、諸国の情報に明るい。また各地の香具師を支配しているから、そのネットワークは計り知れなかった。早雲はここに目をつけた。
 同時に、「宇野家を大切にすれば、京都朝廷ともつながりができる」と考えた。つまり、一石二鳥の妙手だった。
 その頃北条早雲の名は京都にも鳴り響いていた。
 「民にやさしい政治を行い、商人を大切に保護している」という評判が高かった。「その中心になっていただきたい」という早雲の丁重な誘いは、宇野藤右衛門を喜ばせた。宇野藤右衛門は小田原にやってきた。早雲は広大な敷地と屋敷を与えた。そして、「町全体の運営にもカを早くしていただきたい」と頼んだ。

■風度の高い早雲

<本文から>
 北条早雲は、同時代の武将たちのいわゆる「ガバナビリティ(統率カ)」や、「リーダーシップ」にないものを持っていた。
 「人間的魅力」である。つまりかれの場合は、「早雲様のためなら、命がけで仕事をしよう」「早雲様のためなら、合戦場で戦死しても悔いはない」という、「早雲様のためなら」という"なら"があった。こういうように、他人に"なら"と思わせる資質を、中国では「風度」と呼んでいる。度という言葉がついているからこれは一種の目盛りだ。温度とか湿度とかいうのと同じ意味である。
 「風塵が高い」といえば、「この人のためなら」と思う人間がたくさんいるということだ。「風度が低い」といえば、「この人のいうことなら、絶対に信用しない」と逆な反応を示すことである。
 今のような世の中では、いろいろと理屈が多くなっているので、人間の気持ちが筋目だって味気がない。しかし人間は何といっても憤の存在だ。「人生意気に感ず」とか、「以心伝心」などの気風がある。
 「あ・うんの呼吸」も現存している。「あ」というのは吐く息であり、「うん」というのは吸う息だ。
 つまり、「呼吸がピッタリあう」という人間関係である。

■常在戦場の危機意識

<本文から>
 幕末時に、新政府軍と戦った越後長岡(新潟県長岡市)の武士で、河井継之助という人物がいた。陽明学を学び、「知行合二を実践していた。かれが仕えた家は譜代大名の牧野家だったが、この牧野家の家訓に、「常在戦場(常に戦場に在り)」という言葉がある。現代の企業における危機意識はこの、「常在戦場」という気持ちを、いつも持ち続けるかどうかだろう。今の企業社会も戦場だ。競争社会である。ぼやぼやしていれば、たちまちつぶされる。息の根を止められる。そうされないためには、「常に、戦場に在るという危機意識を持つことが大切だ」ということになるだろう。
 この夜は、酒がまわると共にこのトップと相当に腹を割った話をした。
 「危機に強い知恵者とは、どういう要件が必要か」などということも話し合った。また、「危機でも、その危機をまったく感じ取らない知識人の弱点」についても、かなり辛辣な意見を交換した。
 このトップにいわせると、「組織の中には、いわれなくてもわかるタイプの人間・いわれればすぐわかるタイプの人間・いくらいわれてもまったくわからないタイプの人間の三とおりがある」ということであり、「いわなくともわかる人間と、いえばすぐわかる人間が知恵者であり、いくらいってもわからないのは知識人だ」と、きびしい分類をしていた。わたしは笑いだした。

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