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<本文から>
織田信長は、戦争の天才あり、戦争好きといわれているが、決してそうではない。逆説的な言い方をすれば、「織田信長は、戦争を早く終わらせるために、新しい戦争の方法を考え出した」と
いうことができるだろう。
何のために戦争を早く終わらせたいと思ったかといえば、信長は生まれつきの情報重視論者であつたからである。かれが情報に対して貪警気持ちを持っていたことは、数々のエピソードが物語っている。
織田信長は、若い噴から、うつけ、たわけ、バサラなどと呼ばれていた。なぜそう呼ばれたかといえば、かれが常に尾張の城下町をうろつきまわっていたからである。何のためにうろつきまわっていたかといえば、かれは旅人に積極的に接触した。かれにいわせれば、今の言葉を使うと、「新幹線、インターネット、携帯電話、テレビ、自動車などがない時代に、人がある国からある国へ歩いていくということは、そのまま情報が歩いていくということだ。これをつかまえない手はない」
と考えていたからである。
では、「何のために旅人に接触するのか」と問えば、かれはこう答えただろう。「いま生きている同時代人のニーズ(需要)を知るためだ」
かれはやがて、「天下布武」というはんこを使う。この意味は、「天下に武政をしく」ということだ。武政というのは、「武家が政権を握って政治を行う」ということである。その裏には、「公家(貴族)政治はダメだ」という見限りがある。そしてこの時織田信長が「公家政治」とみたのは、足利将軍による室町幕府の政治であった。信長からみれば、「もともとは武士のはずなのに、足利家はいつのまにか貴族化してしまった。やっていることはすべて公家の暮らしだ。あんなぜいたくな暮らしをしていたのでは、一般民衆のニーズは把握できない」と断定していた。今でいえばかれは、「書を捨てよ、町に出よう」という寺山修司さんの言葉を実行していたといえる。
「城の中にいて、ああだこうだと考えていては民衆が何を求めているのかつかむことはできない。それよりも自分が城下町に出ていって民衆と共に行動することによってニーズを把握することができる。しかも日本全体のニーズを把握するのには、何といっても旅人に接触することだ」と考えていた。信長にとって旅人は、「情報をもたらす媒体」であったのである。 |
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