童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国武将の危機突破学

■″敵は自分の中にいる″との教えに自己改革ができた伊達政宗

<本文から>
  彼は眼を一つ失ったために、
 「親をはじめ、みんなが自分を見捨てた」
 と思い込んできた。が、そうではなかった。いつも脇にいて学問を教えてくれる虎哉が、きょうは人生の勉強をさせてくれた。しかも、自信をあたえてくれた。
 「心身の障害など、何も気にすることはありません。逆にそれが輝きを持つように、ご自身なりのご努力をなさい」
 と言ってくれたのである。帰り道、虎哉はポツンとこう言った。
 「若君、わたしはかなりの高齢になりますが、いつも思うことがあります」
 「何でしょう」
 政宗の問いに虎哉はこう答えた。
 「敵は、決して外にいるのではなく、自分の中にいるのだということです」
 「敵が自分の中に」
 政宗は歩きながらその言葉をつぶやいた。そして、頭の中にしまい込み、また引き出して、こう聞いた。
 「わたし自身の敵は、わたし自身だということでございますね」
 「そのとおりです。その反省を、この愚かな僧は毎夜繰り返しております」
 虎哉はそう言った。しかし政宗は、そうは思わなかった。
 (こんな知識の深い和尚様がそんなはずはない。和尚様は、わたしをいたわってくださっているのだ)
 と感じた。
 虎哉和尚が恐ろしい形相をした不動明王を見せたことによって、少年政宗の性格は変わった。政宗は、
 「敵は自分の中にいる」
 と虎哉の教えに従って、自分の敵を発見した。それは、はにかみ性であったが、
 「なぜ、はにかむのか」
 と追究してみれば、意外に、
 「自分自身へのこだわり」
 にあることが発見できた。つまり、
 「いまのままの自分をそのまま保ちたい」
 という、自己改革をいやがる気持ちがそうさせていたということに気がついたのである。政宗は、以後自分の中にいる敵の絶滅″に力をそそいだ。
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■政宗は中央集権と地方自治の関係を間違えた

<本文から>
 「しかし秀吉という大ガマが、それをゆるすかな」
 不安はつのるばかりだった。政宗は決断した。それは、
 「いままでのおれを捨てよう」
 ということである。考えてみれば、いろいろな情報を集めながらも、判断の誤りを犯したのはやはり、
 「自分に自信を持ちすぎた」
 という思い上がり″が原因だった。モノサシが狂っていたのだ。この認識は重大だ。それは現在でもおなじだが、戦国時代にも、
 「中央集権と地方自治」
 の対立があった。いわゆる天下人というのは、乱れきっている戦国状況下の日本国内を、
 「統一する」
 という志を持っていた。日本統一ということは、
 「強大な集権国家をつくる」
 ということだ。ところが地方の大名の中には、この統一(すなわち天下事業)の意味をしっかりとつかまずに、自分が勢力下に置いた地域の管理だけを過大に評価して、
 「天下人など必要ない。わが地域は、おれの手でみごとに泊めている」
と自信を持っていた。いまでいえば、
 「中央政府など必要ない。地域を支配しているわが地方白油体があればそこでことたれりる」
 という考え方だ。
 現在の日本の中央と地方の関係は、
 「ナショナル・ミニマムとローカル・マキシマムを、中央と地方がパートナーシップで実現していく」
 ということだ。ナショナル・ミニマムというのは、
 「中央(国)としておこなう最小限の仕事」
 のことである。ローカル・マキシマムというのは、
 「地方住民にとっての、身近な仕事を最大限までおこなう」
 ということだ。
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■東北地方への積極的な上方文化の導入を行った政宗

<本文から>
「東北地方への積極的な上方文化の導入」
 である。その手始めとして、
「伊達軍団の軍装を華麗にしよう」
 と企てた。一人ひとりの兵士に、
「自分で工夫をして、軍装をきらびやかにしろ」
 と命じた。こんなことを言う大将は当時ひとりもいない。兵士たちは思い思いに自分の軍装を華やかなものにした。集まるとかなりサイケな組織になった。多くの人が
「伊達軍団は実に伊達者だね」
 とささやき合った。当時、華麗な服装をするお酒落な人間を、
「伊達だね」
 という言葉で評価したからである。この言葉は流行し、日本各地においても、
 「伊達だね」
 というのは、酒落者をさしている。おもしろいことがある。それは英語でもお酒落な人間を、
 「ダンディー」
 という。伊達に通ずるところがある。
 伊達政宗が自己軍団を華麗な服装にしたのは、彼自身、
「風流心(文化精神)」
 を強く持っていたことを物語る。土地を奪う合戦つづきのころには、そんな風流心は役に立たない。逆に邪魔になる。しかし、
「そうはいうものの、合戦のときにも風流心を失わない武将がいる」
 ということを切実に感じたのは、やはり小田原の陣中に豊臣秀吉をたずねたときのことである。本来なら、秀吉にそむいたのだから腹を切らされるところを、秀吉は救ってくれた。それは秀吉も、伊達政宗の胸の底にある、
「風流心」
 を認めたからである。あのとき、秀吉は自分から先に立って山の上から麓の小田原城を囲んだ豊臣軍を示した。豊臣軍は、小大名の混成軍だったが、その軍装は思い思いのものであり、実に華やかだった。政宗は圧倒された。そしてはじめて、
 「天下人秀吉の力」
 を認識したのである。政宗も、若いときから苦労している。また、将としてもすぐれた力を持っていた。戦国時代を生き抜くためには、
 「先見力・情報力・判断力・決断力・実行力・体力」
 の条件が必要だ。政宗は政宗なりに、
 「おれにはそのすべてがある」
 とうぬぼれていた。ところが豊臣秀吉に会った途端、そんなものは全部ふっとんだ。残されたのは、
 「おれは、しょせん東北という小さな井戸の中の一匹のカエルにすぎなかった」
 ということだった。たしかに東北地方では、独眼竜政宗″として名を高めた。が、現在でいえばそれは、
 「地方自治における有能者ぶり」
 を示しただけであって、日本国全体に力があったわけではない。天下人豊臣秀吉は、
 「日本国全体をひとつの地域として考える」
 という壮大な発想によって、政治力を示した。伊達政宗の力は東北地方においてはすぐれたものがあったが、日本国全体にそれをおよぼすとなると、やほり別な政治力・行政能力が必要になる。それを政宗は欠いていた。しみじみそのことを悟った。だからこそ東北に戻ったときに、
 「外国と積極的に交流しょう」
と考えたのである。
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■自身の偏見を改められる織田信長の資質

<本文から>
「おまえたちの報告は非常に役立った。おれはいままで草の者が嫌いだった。しかし、考えを改めなければならぬかもしれぬ。そこでとりあえずおまえたちに褒美をやる」
 意外な言葉だった。ふたりは顔を見合わせた。信長は立ち上がった。そして、
 「褒美といっても、当座あたえるものが用意できぬ。そこで、おれの得意な謡曲を舞ってやる。そこにいてとっくり見ろ」
 立ち上がった信長は舞いはじめた。華麗なしぐさだ。舞い慣れているからだろう。ふたりの草の者は、信長がかねてから城下町で、
 「かぶき者」
 といわれていることを思い出した。かぶき者というのは傾(かぶく)者″からきている。つまり、世の中をまっすぐ見ずに、やや斜めに見る性格の人間をいう。具体的には、異常な服装をして、顔に白粉を塗り目立とう精神を遺憾なく発揮している連中のことだ。信長はその先頭に立っていた。信長は歌いながら舞った。
 「人間五十年 下天の内にくらぶれば夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきや」
 実をいえば、舞いながら信長はいまでいう、
 「自己変革」
 をおこなっていた。それはいままで嫌ってきた草の者の報告を、全面的に受け入れなければならない立場に追い込まれたことへの、一種の悔しさを克服し、
 「草の者とはこれほど役に立つ者だったのか」
 という認識を、改めて自分の頭の中に叩き込むための改革であった。はっきりいえば、草の者に対する独断と偏見を捨て、新しい見方をするために、信長自身が、
 「固定観念を振り捨てて、ありのままに草の者を見つめよう」
 という意識を持つための努力である。負け惜しみの強い信長は、すぐ口に出してそのことを表現しない。というのは、信長は、
 「たとえその言葉を口にするにしても、おれ自身が本気でそう信じていなければ言葉が嘘になる」
 という良心を持っていたからである。だからふたりの草の者に、
 「褒美をやる」
 と言って得意な『敦盛』の舞を舞いながらも、その実、信長は自分のいままで持ちつづけてきた偏見を叩きつぶすことに力を振るっていた。このへんは信長がやはりすぐれたトップリーダーとしての資質を持っているゆえんだろう。信長に限らず日本人の他人に対する評価は、
「何をやっているか」
 ということではなく、
「だれがやっているか」
 と、やり手への見方や先入観が左右する。内容や実績ではなく、相手の人柄や印象を大切にする。信長はいま、それが誤りだということを知った。彼が草の者を毛嫌いしたのは、梁田広正が草の者に説明したように、
「人の秘密をクンクンと嗅ぎまわり、それを悪用する根性の卑しいやつらだ」
 と見ていたためだ。しかし違った。むしろ草の者は、
「現場の泥の中でころがり、のたうち回り、その苦悩の中から真実を探り出している」
 と思えた。
 舞い終わるころ、ドカドカと廊下を鳴らして重役たちがとび込んできた。口々に、
「殿、いま梁田から聞きました。勝利は間違いございませんな」
 と言った。信長は呆れた。
 「ばかめ」
 と吐き捨てるように言った。集まってきた重役たちはすべてさっきまで、
 「十倍の今川勢にはとてもかないません。城にこもっていさぎよく討ち死にいたしましょう」
 と全員玉砕説を唱えていたばかりだったからである。信長はしかし、もうそんな咎め立てはしなかった。信長は、
 「新しいことを決断したときは、その瞬間からすべての人間が新しく生まれ変わらなければならない」
 と考えていたからである。その皮切りに、自分が、
 「草の者に対する偏見」
 をまず捨てた。そして、
 「今後は、草の者の地についた情報を大事にしよう。作戦に役立つ」
 と思った。
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■豊臣秀吉は無類の孝行息子

<本文から>
 こういう身内に対するやさしさは比類のないもので、秀吉を天下人にまで押し上げていく大きな力になっている。戦国時代にはあまりみられない家族愛だ。秀吉の立身出世のバネになっていたのは、あるいは、
 「おっかあに幸福なくらしをさせたい」
 ということが大きな動機(モチベーション)になっていたのかもしれない。それだけ、少年秀吉が見た母なかのそれまでのくらしは、みじめでつらいものだったのだろう。したがって、あるいはなかがはたらいた不義密通も、生活苦のために強引に男に迫られてのことだったかもしれない。そのへんは天下人になった秀吉は、自分の過去を非常に美しく飾ったウソで固めているから、本当のところはわからない。しかし、秀吉の、
 「危機克服の過程」
には、いつもこの母なかとの関係が色濃くにじんでいる。つまり一言でいえば、秀吉は、
 「無類の孝行息子」
だった。しかしその親孝行も、あまり父親に対するそれはみられない。あくまでもなか中心のものである。そしてそれに発して、兄妹に対する愛情の深さが沸き出ている。
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■武田信玄は「治水の達人」

<本文から>
 現在山梨県に行っても、
「武田信玄が泊水工事をおこなった堤防」
 というのが多く残されている。信玄堤″や竜王堤″と呼ばれている。その工法が非常に興味深い。信玄は、洪水防止のための築埋工事をおこなうときにも、
 「川を殺すな、生かして使え」
と常に叫んでいた。川を殺すなということは、
 「川にも生命がある。高いところから低いところへ流れていく自然の法則を無視するな」
 ということである。人工的にコンクリートで川の流れを故意にねじ曲げたり、塞き止めたりすることは、信玄に言わせれば、
 「川の意思を無視し、その生命を圧殺することだ」
 ということになる。同時に信玄は、
 「治水をおこなうのには、前提として治山をおこなわなければいけない」
と言っていた。治山というのは、
 「適切な植樹をおこなう」
 ということだ。現在は、かつての国の政策で杉の木ばかり植えられている山が多いが、実をいえば杉の木ほあまり水を吸わない。そのために、しばしば山が裂け破れて洪水が起こる。信玄は、その点を考慮して、
 「山には自然に生えている木がたくさんある。その木をやたらに伐採するな」
と告げていた。
 彼の治水工法は、現在も語り継がれている。甲斐国内には、大きなあばれ川≠ェ三本あった。御勅使川・笛吹川・釜無川の三本だ。雨期になると、しばしば洪水を起こして農民を昔しめた。水というのは厄介だ。濯概用水などで必要なことはいうまでもないが、逆に多すぎると今度は田畑を荒らしてしまう。この、
 「調整方法」
が人間のチエである。
 現在残る竜王堤″や信玄堤″と呼ばれる彼の工法は、次のようなものだった。
●まず、川の中に圭角≠ニ呼ばれる将棋の格好をした、大きな岩を置く。
●これによって、流れてきた川の水は二つに裂かれる。
●信玄は、川を二つに裂くことによって、その流勢を殺ごうとする。
●分かれた川の一方は、しかしいままでの流勢を失わずにそのまま突進していく。
●信玄は、その川が前方の大きな岩にぶつかるように仕向ける(この辺りは、信玄がいかに「川にも生命があり、意思がある」ということを頭の中に置いていたかを物語る)。
●川は突進し、岩に激突する。しかしこのときに、流勢は大きく殺がれる。
●川の意思は、岩に当たってもくじけずに右の方向へ流れていく。
●信玄は、今度は雁行状の突堤を何本も突き出させて、川の流勢をさらに殺ごうとする。
●川は突埋に妨害され、突き出された突堤と突堤の間にも流れ込む(この溜り水が、やがて洪水が去った後の調整弁となって作用する)。
●二つに裂かれ、岩にぶつけられ、そして突き出した突堤に妨害された川は、しだいに自身のあばれ精神″を失い、やがてはあきらめて、静かに流れはじめる。
●そこで信玄は、その川の両岸に堤を築く。堤を強固にするために、竹・松・柳などの植物を植えた。
 いわゆる、
 「根固め」
 をおこなったのである。こうして、治水工事が完成すると、信玄は川が激突した岩の上に住んでいた人びとを、埋防のほとりに移住させた。そしてこれらの人びとに、
 「埋防役」
 として、
 「境防の巡視と保護」
 の役割を果たさせた。これはいわば、
 「工事は武田家(官あるいは公)でおこなったが、今後の管理運営は住民がおこなえ」
 という、
 「官(公)立民営」
 の先鞭をつけたものといってよいだろう。
▲UP

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